第八十三話
──それから幾日か過ぎた、ある夜のことだ。
伊勢屋の一件は片がついた。宗右衛門は縄目の恥を受け、喜兵衛の死の真相は明るみに出た。正統な遺言状が発見されたことで、お千代は正式に伊勢屋の暖簾を守ることとなり──その一方で、長谷川家の嫡男であっても無役の辰蔵は相変わらず道場で木刀を振る日々。
事件は終わりを迎え、それぞれが平穏の生活に戻ったのだ──。
源一郎は本所の屋敷に戻り、一人で縁側に腰を下ろしていた。庭には秋の虫が鳴き始め、月が薄く雲の合間に覗いている。膝の上には徳利と猪口。お鈴が用意してくれた燗酒を、ちびちびと舐めるように飲みながら、ぼんやりと夜の庭を眺めていた。
事件が終わった後のこの時間が、源一郎は嫌いではなかった。張り詰めていた緊迫の糸がほどけ、ただ虫の音を聴きながら酒を飲む。前世で言うところの「打ち上げ」のようなものだが、一人きりの打ち上げは物寂しくも、心地好くもある。
──ふと、気配を感じた。
庭の隅。植え込みの影から、小さな足音が近づいてくる。源一郎が目を向けると──菖蒲がいた。座敷童の少女が闇の中から縁側に歩いてくる。
だが、その様子はいつもと違った。
菖蒲の両腕に何かが抱えられている。
──猫だった。
薄く光を帯びた毛並み。尾が長く、先が僅かに揺らめいている。目は月の光を反射して淡い燐光を宿し、源一郎をじっと見つめていた。普通の猫ではない──霊猫。源一郎はその姿に覚えがあった。
「菖蒲。その猫は……」
「庭にいた。ふわふわ」
菖蒲は霊猫を抱きかかえたまま、ちょこんと縁側に座った。霊猫は菖蒲の膝の上で丸くなり、喉をごろごろと鳴らしている。菖蒲は嬉しそうにその背を撫でていた。
源一郎は猪口を置いた。
その霊猫を最初に見たのは、誠道館での稽古の後のことだった。神谷伝兵衛との立ち合いを終え、道場の庭先で言葉を交わしていた時。ふと神谷の足元に目を落とすと、一匹の猫が擦り寄っていた。始め普通の猫だと勘違いし、神谷には怪訝な目で見られた。
二度目は、辰蔵から相談を受け、事情を探るために伊勢屋周辺で妖怪たちに聞き込みをしていた折のことだった。裏路地を歩いていると、源一郎の脇をすり抜けるようにして一匹の猫が横切っていった。
ここに霊猫がいること。それを意味するのはつまり、この霊猫が憑いているのは──。菖蒲が源一郎を見上げた。
「──もうすぐ、来るよ。この子の主」
源一郎は眉を上げた。この霊猫は神谷に憑いているのだ。霊猫が屋敷に現れたということは、神谷自身もこの近くにいるということ。
猪口に残った酒を飲み干す。源一郎は夜の庭を見つめた。虫の音だけが静かに響いている。
──神谷伝兵衛。
あの男とは、もう少し複雑な因縁が出来てしまっていた。源一郎はふと、数日前のことを思い出した。
§
──それは伊勢屋の事件で宗右衛門を追い詰めつつあった頃のことだった。
夜。屋敷の書院にて書き物をしていた源一郎のもとへ、菖蒲がやって来た。
「源一郎」
小さな声。だが、いつもの無邪気さとは違う、少し真剣な響き。菖蒲とはもう長い付き合いになる源一郎だからこそ分かる変化。
「また誰か、この屋敷の周りをうろうろしてる」
「何者かわかるか」
「分からない。害意はない。ただ……こっちを伺ってる」
菖蒲は首を傾げた。
「分かった。ありがとう、菖蒲」
「うん。気をつけて」
菖蒲はそう言うと、ふわりと闇に溶けていった。
宗右衛門の隠居所への踏み込みは準備も佳境、目前に迫っていた。だが──未だ特定できていない喜兵衛殺害に用いられた毒の正体。妖怪たちへの聞き込みから喜兵衛の死因に毒が関わっていることは確信している。しかし、何の毒なのか──。どのように入手したのか──。それが分からなければ、宗右衛門を追い詰めるための切り札とはならない。喜兵衛殺害の言い逃れできる余地を残すことになってしまう。
そんな中現れた、屋敷を嗅ぎ回る不審者──。
どちらを先に片付けるべきか──源一郎は考えた。そして、判断した。屋敷を嗅ぎ回る不審者を先に捕える。事件に関係があるにせよないにせよ、火盗改の与力の屋敷を探る者を放置しておくわけにはいかないと。
翌日の夜──。
源一郎は屋敷の裏手にある路地に身を潜めた。夜半過ぎ。月は雲に隠れ、闇が濃い。虫の音だけが響いている。
──待つこと半刻ほど。気配があった。
屋敷脇の通りに現れた複数の人影。三人──いや、四人。灯りも持たず、いずれも笠を目深に被り、顔を隠している。足音を殺した歩き方。ただの通行人ではない。
源一郎は植え込みの影から身を乗り出した。
「──そこの方々。止まられよ」
四つの影が一斉に足を止めた。
「火付盗賊改方の者である。近頃、この辺りで不審な輩が出没していてな。各々方は夜半にこのような場所で何をされているのか。よもや……盗みの前調べではあるまいな」
源一郎は声を張った。正面から名乗り、用向きを問う。正当な理由があるならば答えればよい。答えられぬなら──それが答えだ。
四人は一瞬、互いに顔を見合わせた。笠の奥で視線が動く。逡巡。そして──、一人が踵を返した。逃げようとしている。
「止まれッ」
源一郎の声が低く、鋭くなった。
「逃げるつもりかッ。そうならば──斬ってでも捕らえねばならん……!」
威嚇も兼ねて鯉口を切った。カチリ、と小さな音が夜の静寂に響く。
その音を聞いてか、四つの影が足を止めた。次の瞬間──。
しゃりん、と鍔鳴りの音が四つ重なった。四人全員が抜刀していた。月明かりが雲の切れ間から差し、白刃が鈍く光る。源一郎の目が鋭くなる。
──独特の構えだった。
四人の構えを見た瞬間、源一郎の眉がつり上がる。正眼ではない。脇構えでもない。左半身をやや引き、剣を右肩の後方に隠すように構えている──これは。
柳生新陰流──。
将軍家の剣術指南役、柳生家が伝える流派。徳川幕府の体制側に深く根差した剣術であり、それを修める者は限られる。間違ってもそこらの町道場で学べるようなものではない。
つまり──この四人は、ただの不審者ではない。公儀隠密──そんな名称が頭を過る。
しかし、柳生新陰流が公儀を証明する訳でもない。源一郎もまた鞘から刀を抜き放った。月光を映す刃が、夜の闇に一条の光を走らせる。
「火付盗賊改方与力、渡辺源一郎である。そちらが何方かは知らぬが……抜いたからには覚悟は出来ていると見た。此方も容赦はせぬ」
四人が散開した。前後左右から挟み込むように間合いを詰めてくる。連携が取れている。明らかに素人ではない──実戦の訓練を積んだ者たちだ。
最初に動いたのは、右手の一人だった。
新陰流の構えから一転、低い姿勢で一気に踏み込んでくる。右旋左転──身を旋じながら斬り込む三学の太刀筋。体を捻ることで剣の軌道を隠し、直前まで斬撃の方向を読ませない技法か。
源一郎は半歩だけ後退し、横薙ぎの軌道を見切った。刃が鼻先を掠める。だが、その程度の間合いは織り込み済みだ。斬撃の勢いで体が流れた刹那、源一郎の左手が相手の刀を持つ手首を掴み、そのまま手前に引き崩した。体勢を失った相手の肩口を、すかさず峰打ちで打ち据える。衝撃で腕が痺れ、刀が手から零れ落ちた。
一人目が崩れ落ちる。
二人目と三人目が同時に襲いかかった。左右からの挟撃──天狗抄の「二人懸」。本来は一人で二人を相手にする際の心構えを問いたもの。しかし、それは二人で懸かる術を熟知しているということでもある。二人で一人の敵を挟み、片方が懸かれば片方が待ち、交互に休みなく攻め立てることで逃げ場を奪う連携とも言える。
それを知ってか知らずか、源一郎は前に出た。
退くのではなく、二人の間に割って入る。右からの斬撃を刀の鎬で受け流し、そのまま身体を回転させて左の相手の懐に入った。流れるように柄頭で鳩尾を突き、よろめいた隙に峰で肩口を打ち据える。二人目が膝から崩れ落ちた。三人目が体勢を立て直そうとするが遅い。源一郎の峰打ちが手首を捉え、呻き声と共に刀が手から零れ落ちる。
最後の一人。
四人目は他の三人とは明らかに動きが違った。源一郎が三人を倒す間、一歩も動かず、じっと立っていた。
だが──その構えは崩れていない。むしろ、仲間が倒される様を冷静に観察し、源一郎の剣を見極めようとしていた。この四人の中では上位の者に当たるのだろう。
源一郎と四人目が向かい合った。月明かりの下、二つの白刃が対峙する。
源一郎は──それまで抑えていたものを、ほんの僅かだけ解き放った。
殺気ではないが、それに似たもの。もっと根源的な、恐怖といった生存本能を刺激する強者特有の圧力。それがじわりと夜の空気に滲み出し、身を襲う重圧となる。
四人目が息を呑んだ──。
構えは崩していない。だが──足が動いた。前ではなく、後ろへ。半歩。もう半歩。ジリ、ジリと、足裏を擦りながら無意識に後退している。身体が本能的に理解しているのだ。恐ろしい。この男には勝てない。このままでは死ぬ、と。
相手の力量を計ることができるからこそ、その差に絶望してしまうのだろう。山の頂から睥睨されている様を連想して──。四人目の剣先が揺れた。
「──素性を名乗られよ」
今一度、問う。源一郎の声は静かだった。だが、その静けさが却って余裕を感じさせる。
「名乗らぬなら、それもよし。だが──その場合は、火付盗賊改方の権限において捕らえねばならぬ」
四人目は歯を食いしばっていた。笠の奥の目が揺れている。逃げなければならない。しかし、他の三人は既に身動きが取れないでいる。進退窮まった──その気配が伝わってくる。その時だった──。
「──待たれよ」
対峙する四人目よりも更に奥の通りから、声が響いた。
四人目がびくりと身を震わせた。声の主を認め──だが、すぐには刀を収めなかった。源一郎の圧が肌に張り付いている。目の前の脅威から意識を逸らすことが恐ろしいのだ。
後退した足がそのまま止まり、刃を源一郎に向けたまま、ちらりと声の方を窺う。揺れる瞳。従うべきか、構えを解いて良いのか──判断がつかないでいる。
源一郎もまた、その声に聞き覚えがあった。だが刀を下ろさない。目の前の四人目から視線を外さず、通りの奥に意識だけを向ける。
闇の中で小さな影が動いた。茶色、白色、黒色の毛並みの猫。月の光を反射し、淡く光る目。──霊猫だ。見覚えのあるその猫が、悠然と通りを歩いてくる。
そして、霊猫の後ろから──大柄な影が現れた。笠を被っているが、その体躯は見間違えようがない。
源一郎の目が細くなった。
「……神谷殿か」
神谷伝兵衛であった。
「……やはり……驚かれぬのですな、渡辺殿。その者たちは私の部下になります。これ以上の痛めつけは何卒、御容赦お願い申し上げたい」
源一郎は刀を構えたまま、神谷を鋭く見据えた。
「某に少し──話をする機会をいただけないだろうか」
神谷は一歩前に出た。そして四人目に向かって、静かに、しかし有無を言わさぬ声で告げた。
「刀を収めろ。お前たちも皆だ。この方に真剣を向けて、よい事は何一つない」
四人目の肩が揺れた。逡巡が見える。だが──神谷の声には、関係性の上下を一瞬で思い出させるものがあった。四人目は、ゆっくりと刃を下ろした。震える手で鞘に刀を戻す。倒れていた三人も、呻きながら落ちた刀に手を伸ばし、それぞれ鞘に収めた。
四人の刃が全て消えたのを確認してから──源一郎もまた、静かに刀を鞘に戻した。チン、と鍔鳴りの音が夜に響く。
神谷は笠を脱いだ。月明かりがその顔を照らす。そこにあるのは源一郎の知る人懐っこい表情ではない──覚悟を決めた男の顔だった。
「──全てを、お話しいたそう」




