第八十二話
──お千代が茶を入れ直した。その手は落ち着きを取り戻している。商人の娘──いや、もう伊勢屋の女主人だ。感情に流されている場合ではない。
「お千代殿。もう一つ、お伝えしたいことがございます」
「……何でございましょう」
源一郎は居住まいを正し直した。
「お房殿のことです」
お千代の面持ちが引き締まった。
「母の……?」
「先日、『薬学に通じた知人』にお房殿の病状を相談してみたのですが──」
源一郎は慎重に言葉を選んだ。ここからは、この時代の常識と己の知識の境を踏み誤ってはならないと。
「その者の見立てでは──お房殿の体の不調は長年の白粉の使用による障りであろうと」
「白粉の……?」
お千代が眉を歪めた。
白粉が体に障ることは、経験としては世間でも知られていた。化粧をする女たちの間で、白粉を長く使い続けると歯茎が黒ずむ、手足が痺れる、気分が塞ぐ、腹が痛む──そうした話は昔から囁かれている。だが、その仕組みを知る者はいない。白粉の何が体に悪さをするのか──それは、この時代では誰にも分からぬことだった。
「白粉が体に良くないという話は……噂で聞いたことがございます。ですが、母は長年使っておりまして……まさかそれほどの障りがあるとは」
「その者が申すには、白粉の害は長年積もれば深刻なものになると。手足の痺れ、腹の痛み、気の塞ぎ……お房殿の症状にお心当たりはありませんか?」
お千代は暫し考え込み──。そして、顔色が蒼褪めていく。
「……確かに、この数年で体の不調を訴えることが増えておりました。手足の痺れ、腹の痛み、時折の頭痛……それに物忘れが酷くなり、気分の浮き沈みも激しくなって……」
「それらは白粉の害から来るものだそうです」
源一郎はあえて鉛という言葉を使わなかった。この時代、鉛は薬の一種として広く知られている。水銀もまた同様だ。毒であるという認識は──今はまだ源一郎だけが持つ、前世の知識に過ぎない。
白粉による鉛中毒──それが源一郎の知る病名であった。
白粉の原料である鉛白は、体内に入ると徐々に蓄積されていく。長年使い続けることで、鉛が体の中に溜まり、様々な症状を引き起こす。手足の痺れは末梢神経の障害によるもの。腹痛は消化器への影響。気分の落ち込みや物忘れは脳への障害──前世の知識では、そう説明されていた。
未来においては、キレート剤と呼ばれる薬で体内の鉛を排出させる治療が行われる。しかし、この時代にそのような薬はない。源一郎にできるのは、この時代で可能な対処法を伝えることだけだった。
「加えて──宗右衛門は、お房殿が白粉の障りで体を悪くしていることに気づいていたようです」
源一郎が伝えるべきか悩み……今のお千代であれば知るべきだろうと判断して話した。その言葉に、お千代の顔が強張った。
悪意を持って──宗右衛門は敢えて何も言わず放っておいた。白粉をやめるよう進言することもせず、手を打つこともしなかった。お房殿の体が弱っていくのを──ただ、見て見ぬ振りをしていたようだと──。
お千代は暫く黙っていた。その手が膝の上で握り締められている。宗右衛門は直接手を下したわけではない。だが、救える命を見殺しにしようとした。それは毒を盛るのとは違うが──人の道に外れた所業であることに変わりはなかった。
「……母は、これから良くなるのでしょうか」
お千代の声が掠れた。
「完全に元通りになるかは、正直なところ分かりません。白粉の害による体の痛みは、長年かけて積もったもの。一朝一夕には良くはなりませぬ」
源一郎は正直に答えた。
「しかし、手を打てばこれ以上の悪化は防げるとのこと。時間をかければ、ある程度は持ち直すだろうと、その者は申しておりました。人の体には毒を外に出す力が備わっている。それを助けてやればよいのだと」
「私は……何をすればよいのでしょうか」
お千代の目が真っ直ぐに源一郎を見た。
「まず──白粉の使用を直ちにやめさせること。これが何より肝要です。白粉を使い続ける限り、体の中の毒が増え続け、良くはなりません」
「はい」
「それから、食事を改めること」
源一郎は、前世の知識を慎重にこの時代の言葉に置き換えながら話した。
「大蒜、韮、葱──こうした精のつく菜を積極的に摂ること。これらには体の毒を外に出す力があると、その者が申しておりました」
大蒜、韮、葱はいずれも江戸時代でも容易に手に入る食材。前世の知識では、鉛などの重金属と結合して排出を促すキレート作用があるとされていた。
「海藻も良い。昆布や海苔。これらを毎日の食事に取り入れること」
海藻に含まれる食物繊維は、体内の有害物質を吸着して排出を助ける。これもまた前世の知識だが、江戸の食卓には馴染み深い食材である。
「大豆、胡麻も効き目がある。豆腐、味噌、納豆……こうした食物が体の毒を外に出す助けになると」
大豆に含まれるアミノ酸は、重金属の解毒に関わる。胡麻に含まれるセサミンには抗酸化作用がある。前世の知識では、鉛中毒の治療として食事療法が補助的に用いられることもあったと記憶している。
「それに、水を多めに飲ませること。体の中を流して、毒を外に出すためです」
お千代は一つ一つ繰り返した。忘れまいとするように。
「大蒜、韮、葱、昆布、海苔、大豆、胡麻……水を多めに……」
「体を冷やさず、十分に休ませ、心穏やかに過ごさせる。体が弱っている時は養生が何より大切です」
源一郎は付け加えた。
「それらを毎日の食事に取り入れ、養生を続ける。時間はかかりましょうが──お房殿はまだお若い。諦めるには、お早いでしょう」
お千代は深く頭を下げた。その額が畳につくほどに。
「ありがとうございます……渡辺様。助言をくださった先生にも、どうかお礼をお伝えくださいませ」
「……はい、確と承りました」
お千代が顔を上げた。その目に決意の色が宿っている。
「母を──今度こそ、私が守ります。もう二度と、誰の手にも委ねたりは致しません」
源一郎が頷いた。
──それから暫しの沈黙ののち、お千代が再び口を開いた。
「渡辺様、私からも一つ……。実は私──婿取りを急ぐことに致しました」
源一郎は茶碗を持つ手をピタリと止めた。
「婿取りを」
「はい。母の看病、店の立て直し、奉公人たちの暮らし──一人ではどうしても限界がございます。それに、父の遺言にも婿を迎えよとございましたし、ようやく決心がつきました」
お千代の声は落ち着いていた。だが、その瞳の奥に──何か押し殺したものがあることを、源一郎は見逃さなかった。
「ご存知かと思いますが──此度の騒動が起きる前には、信州の商家との縁談が進んでおりました」
お千代は静かに続けた。
「私が信州へ嫁ぎ、伊勢屋は宗右衛門が継ぐ──そういう筋書きになっていたのです。全て仕組まれて、父の了承もないことでございましたが……」
源一郎は眉を顰めた。宗右衛門の企みは周到だったのだ。お千代を遠方に嫁がせることで、伊勢屋から切り離そうとしていた。
「しかし、此度の件が明るみになったことで、その縁談は破談となりました」
「……」
「ですので──後腐れなく婿取りのための縁談を進めることに致しました。伊勢屋の暖簾を守るには、然るべき婿を迎えねばなりません。仲人を立て、江戸の商家から相応しい相手を探すつもりでおります」
「……そう、ですか。それは賢明なご判断かと存じます」
源一郎は静かに答え──その反応にお千代は頷いた。そして──ふと、何かを言いかけるように口を開く。
「辰蔵様……長谷川様の御子息には──」
言いかけて、止まった。一瞬の間──。お千代は自分の言葉を飲み込むように、視線を膝元に落とした。
「……いえ。此度の一件では、長谷川様にも大変なご迷惑をお掛けいたしました。この御恩はいずれお返し致しますと……そうお伝えいただければ何よりの幸いでございます」
源一郎はその言い直しの意味を理解していた。
──辰蔵。長谷川平蔵の嫡男。旗本の跡取り。
──お千代。蝋燭問屋伊勢屋の一人娘。
辰蔵が偽の遺言状を見抜き、お千代のために懸命に動いてくれたこと。それをお千代が知らぬはずがない。辰蔵の真っ直ぐな眼差しを、お千代が忘れているはずがない。
だが──旗本の嫡男と、蝋燭屋の娘。未来の自由恋愛とは異なり、この時代では婚姻とは個人で結ぶものではなく、家同士を繋げる意味が大きかった。故にその間にある壁は容易には越えられない。身分が違う。生きる世界が違う。どれほど想い合おうと、添い遂げることは叶わない。それが、この時代の定め──。
お千代はそれを分かっている。分かった上で婿取りを決めた。伊勢屋の暖簾を守ること。母を守ること。奉公人たちを守ること。それが、父の遺した意思であり、託された責務であるから。
涙を見せることはなかった。商人の娘の矜持が、それを許さなかった。こういう時、女とは男よりも強いものだ──。
「お千代殿──」
源一郎は穏やかに言った。
「良い御方が見つかることを祈っております。伊勢屋は良い店だ。きっと、然るべき方が現れましょう」
「ありがとうございます」
お千代は笑った。穏やかな──しかし、決意を垣間見せる笑みであった。
源一郎はそれ以上、何も言わなかった。言える言葉など、見つからなかった。
§
伊勢屋を辞し、源一郎は神田の町を歩いた。
日も落ちるのが早くなった。茜色の空が町並みを染め、商家の暖簾が風に揺れている。物売りの声、下駄の音、どこかから聞こえてくる三味線の音色。江戸の日常が、何事もなかったかのように続いている。
源一郎は歩きながら考えていた。
宗右衛門──影鰐。十数年の歳月をかけて伊勢屋に潜り込み、信頼を勝ち取った──しかし、主人を毒殺し、遺言状を偽造した男。その執念は凄まじいものだった。
大店の番頭になるなど、並のことではない。喜兵衛は宗右衛門の不断の努力を認めていた。折を見て暖簾分けすら許すつもりだったのだ。百両の資金まで用意して。
──待っていれば、手に入った。
暖簾分けという形で正当に。商人として独り立ちする道が、長年の忠勤への報いとして用意されていた。何も、喜兵衛を殺す必要などなかった。お千代から店を奪う必要も何も。
だが、宗右衛門は大人しく待てなかった。盗賊の首領として生きてきた男には──人から与えられるものを黙って待つという発想がそもそもなかったのかもしれない。自らの手で奪い取ることでしか物を得たことがなかった。だから、喜兵衛の善意を信じて待つことができなかった。
あるいは──暖簾分けでは物足りなかったのか。伊勢屋の全てが欲しかったのか。十数年もの歳月を手代として仕える中で、いつしか商いの才を過信し、自分こそが伊勢屋の主人に相応しいと思い込んでしまったのか。
いずれにせよ──愚かな男であった。そして、哀れな男でもあった。
源一郎はふと足を止め、空を見上げた。
辰蔵とお千代。
あの二人は互いに何かを感じていたのだろう。辰蔵がお千代を守ると決め、初めて人を斬った時の真剣な眼差し。お千代が辰蔵の名を口にしかけて飲み込んだ、あの一瞬の間。
だが、二人の道は交わらない。辰蔵は長谷川家の嫡男として生き、お千代は伊勢屋の主人として婿を迎える。それぞれの責務がそれぞれの人生を定めるのだ。
──この世は、身分で生き方が決まる。
前世では想像もしなかったことだ。好きな人と結ばれることが当たり前の世界に生きていた。だが、ここでは違う。身分が違えば、想いの大きさだけでは何も変えられない不自由な世。
辰蔵がお千代のことをどう思っているのか、本人ならぬ源一郎には分からない。だが──もし想いがあったとしても、辰蔵もまた、黙ってお千代を見送るのだろう。
ままならない。だが、それが普通のことなのだから──。そう考えて源一郎は深く息を吐き、再び歩き出したのだった。




