第七十九話
──辰蔵は廊下を駆け抜けた。
屋敷の奥へ、奥へ。お千代がいると思われる場所へ。
屋敷の中は異様な空気に満ちていた。男たちの悲鳴、呻き声、念仏を唱える声──。だが辰蔵の耳にはほとんど入っていない。ただ一つのことだけを考えていた。
──どうか、無事でいて欲しい。
昼間、伊勢屋で騒ぎがあったと聞いた時、辰蔵は血の気が引くのを感じた。お千代が錯乱し、狂態を晒した。そして、番頭に連れ出された──。すぐに宗右衛門の仕業だと分かった。あの男がお千代に何かをしたのだと。
反射的に刀を手に取り、長谷川家の屋敷から飛び出そうとした。だが、源一郎に「焦るな」と止められたのだ。「お千代殿を危険に晒すことになる」と。分かっている。分かっているのだ。だが──。
辰蔵の胸の奥には、隠し通すと決めた感情がある。お千代に対するその感情だけは──誰にも明かしたことはなかった。
──幼馴染みの女。
彼女は伊勢屋の一人娘であり、いずれ優秀な婿を迎え、女将として店を盛り立てる定めを負っている。そして、辰蔵は長谷川家の嫡男。どちらも立場があり、「身分の壁」と「超えられない事情」が二人の間には厳然と存在している。
壁を越えようとすること自体が、お千代を傷つけかねない──。想いを告げること自体が自己満足に過ぎないと辰蔵には分かっていた。だから胸の奥に仕舞い込むことにした。
──それなのに……お千代の身に何かあると聞いた途端に、この有り様だ。
辰蔵は屋敷の奥──幾つか目の部屋の襖を引き開けた。そこに、お千代がいた──。
殺風景な畳の間に横たわっている。髪は乱れ、着物の衿元も乱れていた。その姿は痛々しいほどだったが──胸は微かに上下している。
「お千代殿っ……!私ですっ、辰蔵です。分かりますかっ」
辰蔵は駆け寄り、傍らに膝をついた。お千代の瞼が微かに震えた。そして、ゆっくりと開く。焦点の定まらない目が辰蔵の顔を捉えた。
「辰蔵……様……?」
「はい、迎えに参りました」
辰蔵はぐったりしたままのお千代を抱き起こした。錯乱するように仕向けるのに使われた毒が抜けきっていないのだろう、どこかぼんやりとしている様子だ。
「夢を……見ていました……」
お千代が呟いた。
「お父様が……来て……お前は要らない子だと……」
「そんなことありませんっ」
辰蔵は強く言った。
「喜兵衛殿は、お千代殿を愛しておられた。私は知っています……!あの方がどれほどお千代殿のことを大切に思っておられたか……!」
お千代の目から涙が零れ落ちた。
「本当……でしょうか……」
「本当ですっ」
──その時だった。廊下側で足音がした。
一つではなく、二人分。荒々しく、急いた足音だ。辰蔵は庇うように反射的に立ち上がった。
警戒する──やってきたのは、やはり宗右衛門の手下であり、どちらも得物を構えていた。目が血走り、逃げ場を失った獣のような形相をしている。一人は長脇差し、もう一人は打刀を抜いている。
「ここだ!女を連れていけ!逃げる時の盾にする……!」
「お千代殿を連れて行かせはしないっ」
「ちっ……何だてめぇは……!」
辰蔵はお千代を庇い、二人の正面に立った。自分でも驚くほど落ち着いていた。
「火盗改方がお前たちを捕まえる。どこへ逃げようとも無駄だ。諦めて大人しく縛に──」
「黙れェっ!邪魔すんなら殺すだけだっ!」
脇差を持った男が飛びかかる。迷いのない一振りだった。辰蔵は半歩後退し、それを回避する──。だが男の勢いは止まらず、続けて次の一振りが来る。
──その下卑た目が、お千代を見ていた。立つことも儘ならないお千代を。邪な視線で。
守らなければ──。辰蔵の中で何かが定まった。瞬時に柄に手がかかる。鯉口を切り、腰を落とす。そのまま鞘を走らせ、刀を振り抜いた──。
脇差の男の横薙ぎを紙一重で躱し、体ごと踏み込む。刃が入った。肉を切り裂き、刀身が重くなる感触。男の体がぐらりと揺れ、呻き声をあげて崩れ落ちる。
間を置かず、辰蔵はもう一人に向き直った。──こちらの方が危険だと、竦む身体が告げていた。
浪人の男が静かに構えを取る。脇差の男とは余裕が違う。足の運び、重心の置き方、切先の向け方──人を斬ったことがある者の動きだと直感した。
「……若いのに度胸があるじゃないか」
男がぽつりと言った。感心しているようにも、品定めしているようにも聞こえた。
辰蔵は構えを直した。稽古では源一郎相手に何十本と打ち込んだ。何度も死を幻視した。何度打ちのめされても、また道場に足を運んだ。怯んでいないのは、その稽古のお陰だろう──。剣の才がないことは自分が一番よく知っている。だが、それでも諦めなかった。その積み重ねが今ここにある。
「──しかし、人を斬ったのは初めてのようだ」
男が動いた。速い。辰蔵は直感で体を開き、正面の踏み込みを躱した。冷たい刃が頬をかすめ、血が流れる。男がすぐに切り返してくる。辰蔵は刀で受けた──火花が散る。衝撃が腕に走った。力が違う。圧し込まれる。
だが、がっしりと足が地を踏みしめ、転ぶことはない。鷹取に何度も直された重心の置き方。源一郎に何度も崩された足の踏ん張り。その感覚が体に刻まれていた。
二撃目。辰蔵は後退した。男が追う。三撃目が来る──横薙ぎ、袈裟懸けと続く連撃を、辰蔵は刀で受け、弾き、ひたすら凌いだ。受けるたびに手が痺れた。力の差は歴然だった。
だが──辰蔵は観察していた。
男の踏み込みには癖がある。左足を軸に右から踏み出す時、わずかだが振りに溜めができる。源一郎との稽古で何十本と打たれながら、どうすれば当たるかを考え続けた。相手の「次」を読もうとする思考が、今ここで動いていた。
四撃目──男が溜めを作る直前、辰蔵は動いた。受けに回るふりをして、一気に距離を詰める。乾坤一擲──男の太刀筋の内側へ割り入って、全力で肩から突進した。
源一郎相手にただ正面から挑んでも当たらないと思い知らされた。上達するには考え続けろ──その言葉が体の芯を動かしている。
男が姿勢を崩す──その隙に渾身の逆袈裟を見舞った。
浪人は短い声を上げ、よろめいた。腹から肩口にかけて斬られ……力無く刀を取り落とす。壁に凭れかかり、ずるずると崩れ落ちた。
辰蔵は刀を持ったまま立ち尽くした──。息が荒い。手が震えている。斬られた頬が焼けるように熱い──伝う血が顎まで垂れているのを遅れて感じた。
足元に二人が倒れていた。どちらも息はある。急所は外れたが出血は多い。もはや助かることはないだろう──。
自分の手で人を斬ったのだ。その事実を今になって直視せざるを得なくなる。道場の稽古とは違う種類の震えが襲った。
「辰蔵……様……」
背後から、お千代の声がした。辰蔵は振り返った。お千代が壁に手をついて上体を起こしている。まだぼんやりとした目が辰蔵をまっすぐに見ていた。
「……ありがとう、ございます……」
小さな声だった──。それだけの言葉。だが、それだけで辰蔵の震えが少しだけ静まる。辰蔵は刀を鞘に収め、お千代の傍に戻った。片膝をついて、その手を取る。
「もう大丈夫ですから」
言葉が続かなかった。お千代はただ辰蔵の手をそっと握り返した。細い指が震えている。だが、その震えも辰蔵の手の中で少しずつ収まっていった。
──廊下に足音が近づいてきた。
「辰蔵様、ご無事ですかっ……!」
同心の新吾が駆け寄ってきた。その目が部屋の様子を捉え、一瞬大きく見開く。
「何とか無事です。お千代殿が薬を盛られているようなのです。早く医者に見せなければ──」
一瞬、言葉が途切れた。
壁に凭れた浪人が、ゆっくりと手を動かしていたのだ。床に落ちた刀を手繰り寄せようとしている。執念──深手を負いながら、まだ諦めていない。脇差の男も同様だった。顔を床に伏せたまま、這うように動いている。
辰蔵が再び刀を構えようとしたところで──源一郎が部屋に入ってきた。
いつの間に近くに来ていたのか、辰蔵には気づけなかった。ただ、気づいた時には既にそこにいた──。部屋の中の様子を一瞥。その目には何の感情も浮かんでいないように見える。
──不意に源一郎の脇差が鞘から抜かれた。
浪人の喉元を一瞬だけ撫でる。無造作に、しかし確実に。浪人は声も立てず、崩れ落ちた。続けて脇差の男へ──。同じ動作。同じ要領。同じ静けさをもって。
出来上がった二人分の骸──唖然とする。息ひとつ吐く間もない出来事であった。
源一郎は脇差を拭い鞘に収めた。感慨に浸るでもない。ただ、すべきことをしたという、それだけの所作。
「新吾。辰蔵殿は厳密には火盗改の一員ではない。ここは一つ、盗賊を斬ったのは私だということにしておけ」
「へい、委細承知いたしました」
源一郎の言に、新吾が了解の返事をする。それから振り返り辰蔵を見た。辰蔵の肩に手を置き声を掛ける。
「辰蔵殿──そういう事です。お千代殿を連れて早く外へ。まだ誰ぞ潜んでいるかもしれん。新吾、先導を頼む」
「心得ました」
辰蔵がお千代を抱きかかえるようにして立ち上がった。お千代の重さを腕の中に感じながら、ただ屋敷の外を目指して、前を向く。
屋敷の外に向かって歩き出す。お千代は辰蔵の胸に顔を預けたまま目を閉じていた。その顔には安らぐような、穏やかな表情が浮かんでいた──。




