第六話
吉蔵と清次を縛り上げ屋根から降ろすと、既に屋根から降りた熊造が若い手代と共に待っていた。若い手代はすでに縄で縛られ、地面に座り込んでいる。その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
「お見事でございやす」
熊造が感心したように言った。その目には年下の上役に対する尊敬の念が浮かんでいる。
「いや、ただ追い掛けて刀を振っただけだ」
「それだけじゃ、ございやせんでしょう。見ていましたが、あの振り下ろしの速さ……あっしには見えませんでしたよ。先代から若旦那は剣の腕が立つと聞いてましたが、嘘偽りの無いことだったようで……」
「慣れだ、慣れ」
源一郎は素っ気なく答えた。本当はもっと凄い技もあるのだが、あれは使うと疲れる。だから滅多に使わない。今回も相手の武器を弾き飛ばすだけで十分だった。何のために存在するのかも分からない鬼切流の奥義など、使う必要はないのだと──。
三人の下手人を連行して丸屋へと向かった。まだ夜中だが主人には起きてもらう必要がある。被害の届人として下手人を確認してもらわなければならない。
丸屋から離れてしまったために、深夜の町をそろそろと歩く。暗闇の中では月明かりと提灯の仄かな明かりだけが頼り。三人の下手人は項垂れて歩いている。もう抵抗する気力もないようで、ただ運命に従うだけの存在になっている。
丸屋に着くと番頭の与三郎が飛び出してきた。提灯を持った、寝間着姿。屋根を駆ける物音に気づいていたのだろう。
「何事でございますかっ」
「下手人を捕まえた」
源一郎が言うと与三郎は目を丸くした。その顔には驚きと安堵が混ざっている。しかし──。
「下手人……まさか」
「ああ、お前の店の手代たちだ」
与三郎は縛られた吉蔵と清次、そして若い手代を見て言葉を失った。その顔が蒼白になる。信じられないという表情だ。
「吉蔵……清次……お前たちが……それに新助まで……」
新助──若い手代の名前か。与三郎の声は震えている。同じ店で働く仲間が店に大損害を出した盗人だったという衝撃。それは計り知れないものがあるだろう。
「……与三郎、すまねえ」
吉蔵が俯いたまま呟く。その沈んだ声には後悔が滲んでいた。
「主人を呼んでくれ」
「は、はい、ただいまっ」
与三郎は慌てて奥へと走った。その足取りはショックでおぼつかない。
しばらくして、主人の三郎兵衛が寝間着姿で現れた。髪は乱れ、顔には寝起きの跡が残っている。だが、その目はすぐに状況を理解したようだった。
「渡辺様……これは」
「下手人を捕まえた。お前の店の者たちだ」
三郎兵衛は三人を見てハクハクと喘ぎ、顔を蒼白にした。その顔には驚きと悲しみが浮かんでいる。
「吉蔵……清次……新助……まさかお前たちが……」
「申し訳ございません……」
吉蔵が頭を下げた。その声は小さく震えている。
「なぜだ……なぜそんなことを」
三郎兵衛の声は悲しみに打ち震えていた。怒りではなく悲しみ。長年共に働いてきた者たちの裏切り。奉公人とは言え、店を盛り立てる仲間だった。その痛みが──震える声音に表れていた。
吉蔵はしばらく黙っていたがやがて口を開いた。
「……旦那様は俺たちを見ちゃくれなかったでしょう」
「何」
「俺は二十年も店に尽くしてきた……だが旦那は……俺を番頭にはしちゃくれなかった。若い与三郎を選んだ」
「それは……与三郎が優秀だからだ」
「分かってます……与三郎は優秀だ。だが、俺だって長年店のために働いてきた……!」
吉蔵の声には長年の不満が滲んでいた。二十年という歳月の重さ。それが今言葉となって溢れ出る。
「なのに旦那様は俺を見ようともしなかった……!清次も同じだ。俺たちはただ店を回すだけの歯車……道具だったんでしょう……!」
「そんなことは……」
「そうだ!」
吉蔵が叫んだ。その声は夜の静寂を破る。
「旦那様は俺たちを蔑ろにした!だから俺たちも旦那様を裏切ることにした!」
三郎兵衛は言葉を失った。その顔には困惑が浮かんでいる。
源一郎は二人のやり取りを黙って聞いていた。吉蔵の言い分も分からなくはない。長年働いても報われない。冷遇される。それは辛いことだろう。人間は自らが可愛く、認められたい生き物だ。努力を評価されたい。他者よりも上に立ちたい。自尊心を満たしたい。──だがそれが叶わなかった時、人はどうするか。
だが──。
「それで盗みが許されるわけではない。それは物の道理に通らん」
源一郎が身勝手な言い分を切って捨てるように静かに言った。
「不満があるなら言葉で伝えるべきだった。盗みに走るのは筋が違う」
「……分かってますよ。そんなこたぁ……」
吉蔵は力なく頷いた。地面に爪を立てた、その声には悔しさが滲んでいる。
「それに──お前たちは賭博で借金を作っていたな」
吉蔵と清次は顔を上げた。その目には驚きが浮かんでいる。
「どうして知って……」
「調べたに決まっている。お前たちは賭博で負けが込み、借金を抱えているそうだな。吉蔵が十両、清次が七、八両、新助が一両」
源一郎は冷静に言った。既に調べはついているのだ。
「店への不満もあったかもしれない。だが盗みを選んだ本当の理由は、賭博の借金を返すためだったのではないか」
吉蔵は黙り込んだ。図星だったのだろう。その沈黙が全てを物語っている。
「賭博は自業自得。借金を盗みで返そうとするのは言語道断だ」
「……その通りでさ」
吉蔵は完全に観念したように頭を下げた。その背中は小さく震えている。
「旦那様……申し訳ございません」
深々と頭を下げた吉蔵たちを、三郎兵衛は複雑な表情で見ていた。混乱、悲しみ、そしてどこで間違えてしまったのかという少しの後悔。それらが入り混じった表情。長年共に働いてきた者たちの裏切りに合い、だが同時に自分にも非があったのではないかという自問。
「渡辺様……彼らはどうなるのでしょうか」
「盗人として裁かれる。恐らく、遠島か場合によっては死罪になるだろう」
三郎兵衛は顔を歪めた。その目には涙が浮かんでいる。
「そんな……」
「お上の定めた法だ。仕方がない」
源一郎は静かに言った。江戸の法は厳しい。盗みは重罪だ。特に常習性があれば死罪もあり得る。今回は既に何度も盗みを繰り返しており、被害額も大きい。厳しい詮議は避けられないだろう。
三郎兵衛は苦渋の表情で頷いた。かつての仲間たちが刑を受け、島流しになり、あるいは首を切られる。その事実を受け入れるのは容易ではない。
「……お役人様、なんとか彼らを──」
「無理だ」
源一郎はきっぱりと言った。法は曲げられない。特別扱いもできない。それがこの徳川の世の秩序なのだ。
「分かっております……ただ……」
「お前が情けをかけても、此奴らの罪は消えない。それに、それは真に情けなのか?ただの憐れみではないのか。お前が楽になりたいだけではないのか。それは此奴らをますます惨めにするだけであろう。よく考えろ」
「……っ、承知、いたしました……」
源一郎の威圧を受けた三郎兵衛は目を逸らし……唇を噛み締めて深く息を吐いた。その姿は疲れ果て、年老いて見えた。一気に老け込んでしまったかのようだ。
「それにな」
源一郎は三郎兵衛を見た。
「主人も少し自省した方がいい」
「私が、ですか」
「ああ。お前は優秀な者ばかりを評価していた。だが、長年尽くしてきた者たちとも話をし、しっかりと目を向けるべきだったな」
三郎兵衛は何も言えなかった。源一郎の言葉が胸に刺さる。
「商人とは利を追求するもの。それは理解する。だがな、理想ではあるが……共に働く者に目を向ける──それが店を守るということ。人を大切にするということなのではないか」
源一郎の言葉に三郎兵衛は深く頭を下げた。
「……肝に銘じます」
源一郎はうな垂れる三郎兵衛を前に、下手人たちのことを考えた。
吉蔵と清次。二十年も店に尽くしてきたのに冷遇されていた。若い番頭ばかりが可愛がられ、自分たちは見向きもされない。その不満が長年積み重なってきた。
人間というものは認められたい生き物だ。努力を評価されたい、働きを認められたい。それは前世でも今世でも変わらない。だが報われないことも当然ある。人と衝突することも、理不尽なことも多々ある。その時、人はどうするかを選択することになる。
正しい道を選ぶか。腐り、誤った道に堕ちるか。
果たして──吉蔵と清次は後者を選んだ。そして賭博に手を出した。最初は気晴らしのつもりだったのかもしれない。だが、負けが込み、借金が膨らむ。返済のためにまた賭博に手を出す。悪循環へと陥った。
そして、罪深いことにまだ若い手代までも巻き込んだ。丁稚から手代に上がったばかりであろう若者を賭博の道に引きずり込んだ。そして、終いには三人で共謀して盗みを働き、妖怪の仕業に見せかければ疑われないと考えた。そんなものは浅知恵だ。
謝れば許される?そんなのは遠い未来の現代だけ。この時代で仕出かしたことは、そんなことでは済まされない。盗みは盗み。いくら人情に溢れる江戸であろうと、法を犯せば、どんな事情があろうと許されることはない。
前世の価値観とこの江戸の価値観。その狭間で源一郎は少し複雑な気持ちになった。前世なら労働環境の改善やらカウンセリングやらと支援もあったかもしれない。仕事を辞めても、すぐに次を見つけられた。社会的な保障があった。だがここにはそんなものはない。不満があっても、ただ耐えるしかない。それがこの時代の当たり前なのだ。
だが──その一方で彼らの気持ちも少しは分かっていた。人間の弱さ。誘惑に負ける心。それは時代を超えても変わることはないのだから。
うな垂れる手代たちを前に、源一郎は我が身を振り返ることを考えたのだった。
§
翌朝、源一郎は三人の下手人を役宅へと連行した。
朝日が昇り始め、町は再び目を覚ます。人々が戸を開け、一日の始まりを迎える。昨夜の出来事など知らない人々が、いつものように朝の挨拶を交わし、商いの準備を始める。
「おはようさん!」
「今日もいい天気だねぇ」
「おうとも!暑くなりそうだ」
日常の会話。平和な朝。だが、その裏側で事件は解決された。人々の知らないところで役人が働いている。その働きがこの町の日常を守っている。
──役宅に着くと平蔵が待っていた。すでに報告は受けているのだろう。その顔には満足そうな表情が浮かんでいる。
「ご苦労だった」
「はい。下手人を捕らえました」
源一郎は三人を平蔵の前に突き出した。三人は縄で縛られ項垂れている。もう抵抗する気力もないようだ。
平蔵は三人を見て静かに頷いた。
「丸屋の手代たちか」
「はい。吉蔵と清次そして新助という若い手代。三人で共謀しておりました」
「手口は」
「屋根瓦を外して倉の中に侵入しておりました。そして、盗んだ後に、また瓦を戻す。だから鍵も壊れず足跡も残りませんでした」
「なるほど、だから足跡がなかったのか。よく見破ったな」
「はっ」
平蔵は三人に向かって言った。
「お前たちは盗人として裁かれる。覚悟しておけ」
三人は黙って頭を下げた。もう何も言うことはないという表情だ。運命を受け入れた者の顔。
平蔵は同心たちに三人を役宅の牢に入れるよう指示した。同心たちが三人を連れて行く。その背中を見送りながら源一郎は少し複雑な気持ちになった。
彼らは悪人だ。法を犯し、盗みを働いたのだから。だが──彼らにも事情があった。職場への不満。借金。人間関係。盗みという行為が正しいわけではないが理解はできる。人間の弱さ。誘惑に負ける心。前世でも今世でも変わらない人間の本質。
「源一郎」
平蔵が声をかけてきた。
「よくやった。見事だ」
「ありがとうございます」
「初仕事でこれだけの成果を上げるとは。さすがは藤治郎の息子だ」
平蔵は満足そうに頷いた。その顔には誇らしさが浮かんでいる。
「これで丸屋の主人も一安心だろう」
「……そう、ですね」
源一郎は丸屋の主人の顔を思い出した。裏切られた衝撃。かつての仲間の犯罪。だが同時に自分の責任も感じていた。もっと彼らに目を向けていれば、と。そこに安堵の感情はなかった。
「源一郎」
「はい」
「それとな──」
平蔵は少し期待するように笑みを浮かべた。
「やはり、人でない存在には聞いたのか」
「……はい」
源一郎は正直に答えた。隠しても仕方がない。これは報告書には記載できないことだったが、内状を知っている人物がいる方が今後も色々と都合が良いと。
「人でない存在──妖怪が下手人たちが屋根から入るのを見ていました。唐傘お化けという……傘に目と口と足の生えた妖怪です。付喪神の一種だとか。一説によれば……一本足に一つ目の特徴から、零落した神の姿と言われることもあります」
「ほう、流石に詳しいな」
平蔵は面白そうに頷いた。その目には好奇心が輝いている。
「やはり……お前には人でない存在──あやかしの類が見えているのだな」
「はい。まぁ……」
「便利なものだな。あやかしの類が証人に、手下のようになるとは。誰も真似できん捜査方法だ」
「手下、と呼べば奴らは怒るかと思いますが……」
「む、そうか」
平蔵は笑った。嘲笑ではなく純粋に面白がっている笑いだ。この人は本当に柔軟な思考の持ち主だと源一郎は思った。
「これからもその目を活かせ。お前にしかできない仕事がある」
「はい」
源一郎は頭を下げた。
「では今日は休んでいい。ゆっくり休め。一晩中張り込んでいたのだろう」
「ありがとうございます」
源一郎は役宅を後にした。外に出ると朝の陽射しが眩しかった。一晩中起きていたため少し眠い。それに、良いことをした筈であるのに、気分はあまりよくなかった。
それは、まだ何か引っかかっていることを示しているのか──。
ともかく──事件は解決した。罪の真実を暴き、下手人を捕まえる。それが与力としての仕事だ。初めての仕事を無事に終え、今は亡き父上もきっと彼岸で喜んでくれているだろう。
源一郎は本所への道を歩き始めた。町は朝の賑わいを見せ始めている。商人が店を開け、職人が仕事を始める。子供たちが路地を駆け回り、女たちが井戸端で話し込んでいる。
街に蔓延る凶悪な犯罪を減らすことで、平和な日常を守る。それが火付盗賊改方の仕事だ。そして今、源一郎もその一員となった。
家に帰って少し休もう。そして、座敷童の菖蒲に昨夜のことを話そう。きっと面白がって聞いてくれる。唐傘お化けのことも話そう。妖怪たちが協力してくれたおかげで事件は解決したのだと。
江戸の朝はいつものように始まる。人々の営み、町の賑わい。その全てが源一郎には愛おしく感じられる。
前世では味わえなかったこの温もり。不便だが人間的な暮らし。金より人情、理屈より心。それがこの江戸という町の本質。
これが源一郎の生きる世界だ。人と、あやかしの『あわい』に立つ変人与力の物語。それは今始まったばかり。
「さて帰るか」
源一郎は小さく呟いた。そして本所の屋敷へと向かって歩き出す。
空を見上げると雲一つない青空が広がっていた。初夏の陽射しが心地よい。梅雨入り前のこの季節が源一郎は好きだった。




