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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
三章 神田剣鬼影払
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第七十七話


 その夜──宗右衛門は座敷で帳面を広げていた。伊勢屋の帳簿ではない。影鰐を頭とする盗賊団の資金の流れを記したものだ。手下たちへの小遣いに盗み働きの配分、浪人たちへの報酬、弥平に渡していた口止め料──。


 隠居所のある本所の夜は静かだった。虫の声と、屋敷傍を流れる堀の水の音。時折、夜鳥の鳴き声が夜闇に響く。武家屋敷の多いこの辺りは夜になると人通りも絶え、深い闇に沈む。


 夕刻前から続いた酒盛りも終わり、夜番以外の手下たちは既に寝所に引き取っていた。見張り番の者たちの物音を除けば、屋敷は静まり返っている。


 ──さて、明日からどう動くか。


 宗右衛門が考えを巡らせていた、その時だった。微かな声が聞こえた気がしたのだ──。


 最初は空耳かと思った。風の音に紛れるほどの囁くような声。宗右衛門は筆を止め、耳を澄ませた。


 ──確かに聞こえる。


 人の声だ。何かを話している。だが、何を言っているのかまでは聞き取れない。


 宗右衛門は静かに立ち上がり、声の出処を探った。座敷の中ではない。廊下か。庭か。耳を澄ませながら、襖を開けて廊下に出た。


 夜風が頬を撫でる──。空亡とも見紛う、不気味な赤い月が闇の空に浮かんでいた。


 心のどこかで不吉さを感じ、視線を戻す。声は──塀の向こうから聞こえていた。


「──宗右衛門──人殺しなんだと──」

「──なのに店──継ごうとして──のか」

「──遺言状──偽物──」


 宗右衛門の足が止まった。声は確かに屋敷の塀の外から聞こえてくる。複数の人間がコソコソと何かを囁いているようだった。


「──男──正体は盗賊──噂だ」


 宗右衛門は庭に降り、塀に向かって歩き出した。


「誰だっ……!」


 叫んだ声に、見張りの者たちが何事かと駆け寄ってきた。


「頭、どうしました」

「外だ。誰かがこの屋敷の外に集まっている。聞こえんか」


 見張りの者たちも耳を澄ませた。


「──宗右衛門──喜兵衛を殺し──お千代を追い出し──店を乗っ取ろうと──」

「──可哀想──毒まで盛られ──ようだ」

「──いずれ──天罰が──」


 確かに聞こえる。塀の向こうから複数の噂をする声が。


「誰だ、こんな夜更けに……」

「おい、外を見てこい」


 宗右衛門は手下に命じた。二人ほど門へと走っていく。通用門を開く軋む音がして……暫くした後、二人が戻ってきた。その顔には困惑が浮かんでいる。


「頭……外には誰もいませんや……」

「塀の外には、人っ子一人……足跡すらありませんで……」

「馬鹿な、現に声が──」


 宗右衛門は眉をひそめた。


「──番頭は影鰐──上方──盗賊──」

「──娘を狂人──仕立てようと──極悪人よ」

「──もうすぐ──破滅が待って──」

「それ──楽しみ──」

「あぁ──楽しみだ──」


 手下が戻ってきても、声は止まなかった。しかも、今度は声は塀の向こうだけではなかった。庭の茂みから、廊下の奥から、天井から、床下から──屋敷の彼方此方から無数の囁きが染み込むように聞こえてくる。


 騒ぎを聞きつけて、寝所から手下たちが起き出してきた。用心棒である浪人たちも刀を手に廊下に集まっている。


「頭……これは、いったい……」

「人の仕業とは思えねえな……」

「まるで……化け物が噂してるみてぇだ……」


 男たちの顔に不安の色が過る。


 宗右衛門は歯を食いしばった。聞こえてくるのは、まさに宗右衛門の犯した悪事そのものだった。自分の悪事を暴く言葉の数々──それが姿なき声となって屋敷を包囲している。


「──いずれ露見する──」

「──逃げられはしない──」

「──報いを受けるぞ、宗右衛門──」


 男たちは流石に不気味に思ったのか、互いに顔を見合わせ身を寄せ合った。浪人たちが緊張した面持ちで刀の柄に手をかける。


「……狐狸の仕業や。本所は七不思議で知られる土地。狐狸に化かされることもあるやろう。惑わされるな。ただの声や」


 宗右衛門は努めて冷静な声で言った。だが、その言葉とは裏腹に宗右衛門自身も不安を拭いきれてはいなかった。


 ──不意に声が止み、静寂が屋敷を包んだ。男たちは恐る恐る、辺りを見回す。


「止んだ……?」

「終わった、のか……?」


 宗右衛門も、息を詰めて周囲の気配を窺った。


 ──やっと終わったのか。


 そう思った、その時だった。


 §


 屋敷の廊下の暗がりに、人影が立っていた。


 宗右衛門は目を凝らした。見張りの一人か。それとも──。暗がりの中にいるその人影が誰なのか、自然と『想像』してしまう。


 その人影がゆっくりと近づき……赤い月明かりがその顔を仄暗く照らす。その顔を見て、宗右衛門は息を呑んだ。


「喜兵衛……?」


 そこに立っていたのは死んだはずの男。いや、伊勢屋の主人、喜兵衛──宗右衛門が曼陀羅華の毒煙で殺した筈の男だった。顔は青白く、目は虚ろ。その喜兵衛が静かに廊下に佇んでいた。


『宗右衛門……なぜだ……』


 喜兵衛の唇が動く。その声は低く、離れているのに不思議なほどにはっきりと聞こえた。


 宗右衛門は無意識に後退った。夏だというのに、手足の指先が妙に冷える。


「お前は死んだ筈──」

『なぜ……なぜ……わしを殺した……』


 喜兵衛が歩く様子もなく静かに近づこうとする。床が軋むような音も、足音も聞こえない。まるで地に着く足に重みが加わっていないような──。


『信じて番頭を任せた……なのに……』

「やめろぉっ……!来るなぁぁぁっ……!」

「──か、頭っ?どうしたんですっ」


 手下の一人が顔を青くした宗右衛門へと声をかける。


「頭、いったい誰と話して……」

「っ、そこに喜兵衛がっ──」


 手下は宗右衛門が凝視している屋敷廊下の暗がりを見た。だが、その顔には困惑が浮かぶ。


「……『何も』ありませんぜ?」


 手下の訝しむような声にハッとして愕然とした。手下には見えていないのだ、喜兵衛の姿が。


 そして──その喜兵衛の姿も気づけば消えていた。代わりに、また別の男が襖の隙間から顔を覗かせて、宗右衛門を見ていた。


「……お、お前は……」


 それはかつて番頭の座を争った手代だった。宗右衛門が濡れ衣を着せ、追い詰め、自死に見せかけて殺めた男。男が無言で宗右衛門を怨めしげに睨んでいる。


「違う……俺は……」


 男の姿がフッ、と揺らぎ消えた。襖の隙間にはただ闇があるばかり。


 男の姿を探す。庭木に目を向けると、そこにもまた別の顔があった。大阪時代、盗みに入った商家の主人。宗右衛門の素顔を知り、口封じに殺された者。


 縁側廊下の床下にも。天井の梁の上にも。軒下の影にも……奪われた者たち。踏みにじられた者たち。次々と顔が現れては消えていく。一人また一人と──。


「やめろ……やめろっ……!」


 宗右衛門は叫んだ。だが、死者たちは虚ろな目で、恨めしげな目で、悲しげな目で、宗右衛門を見つめ続けるばかり。


「狐狸めっ……!こないなもんでこの影鰐──宗右衛門が怯むと思うなっ……!死人が蘇るはずがないやろがっ……!お前らの化かしなんぞ、効かんわっ……!」


 恐怖心を隠すように、宗右衛門は見えない敵に向かって怒鳴り散らした。


「出てこいやっ……!姿を見せんかいっ……!狐狸風情が調子に乗るんやないっ……!」


 語気を荒くした言葉が静寂の中に響き渡る。


 ──そして。挑発の声と共に、死者たちの姿は消え……場の空気が『何者か』の怒気や苛立ちで満ち、ピリピリと肌を刺すのを感じた。


 宗右衛門は怪異が止んだ隙に座敷へと駆け込んだ。手下たちも、その後に続く。


「障子を閉めろっ!全部だっ!早くしろっ……!」

「へ、へぇっ」


 宗右衛門の叫びに、男たちは慌てて障子を閉めていった。廊下に面した障子、庭に面した障子──全てを閉め切り、屋敷内へと避難。外の赤い闇を遮断する。


 薄暗い座敷の中、男たちは息を潜めていた。


 ──これで、少しは。


 そう思った。


 §


 座敷に閉じ籠もると、障子の向こうが赤く明滅しだした。


 炎か──と、はじめ宗右衛門は思った。だが、違う。火事のような揺らめく炎ではない。規則正しく、同じ間隔で、赤い光が二つ──交互に点いては消え、点いては消えるを繰り返す。閉め切った障子紙を通して、座敷全体が赤く染まる。


 カンカンカンカンカンカンカンカン──。


 光と同時に、奇妙な音が響き始めた。半鐘にも似ている。しかし、半鐘ではない。ミとファの中間。もっと規則正しく、もっと機械的な音。まるで、何かのカラクリが自動的に音を鳴らしているかのような、冷たく無機質な警告音。


「な、何だ……」


 手下の一人が呻いた。


 赤い光は屋敷の外から差し込んでくる。障子を、襖を、男達を赤く染めては交互に影を作る。その繰り返し。心臓の鼓動のように規則正しく。


 カンカンカンカンカンカンカンカン──。


 高く耳を突く警告音は止まない。延々と、同じ調子で鳴り続ける。人の手で打っているのではないのだろう。では、何が鳴らしているのか──。


 男たちの顔が障子の外にある真っ赤な光に照らされている。その繰り返しが、聞き慣れない音が、『本来、江戸には存在しえない異常』が恐怖心を煽る。


 ──そして。


 ゴォォォォ……という風を切る音とタタンタタン、タタンタタン、と遠くから聞こえ始めた。


 最初は微かだった。だが、その音は急速に大きくなっていく。地鳴りのようで、だが地鳴りではない。金属が擦れ合うような、キィキィという甲高い音。例えるならばそれは、大地を這い走る龍があげる鳴き声だとでも言えるだろうか──。


 正体はわからない。だが──何か途轍もなく巨大なものが、凄まじい速さで近づいて来ている気配がした。


「な、何だ……何が来るっ……!」


 轟音はどんどん大きくなる。


 タタンタタン……タタンタタン……!


 ──こちらに向かってきている。


 宗右衛門は悟った。何か分からない。何が来ているのか分からない。正体不明。だが、それは確実にこの屋敷に向かって突進してきている。


 カンカンカンカンカンカンカンカン──。


 障子の向こうの赤い光が明滅する。耳鳴りを催すほどの大きな警告音が不吉を報せている。そして──。


 プアァァァァァァァァン──!


 甲高い嘶きが夜を引き裂く。獣の咆哮のようで、だが獣ではない。怒りとも悲鳴ともつかぬ、途轍もなく大きな空気を裂く声。それは明らかに宗右衛門らに向かって吼えていた。


「ひっ、ひいぃぃいぃぃ……!」


 手下の一人が悲鳴を上げた。その瞬間──障子が、眩い光に照らし出される。


 赤い明滅を塗り潰す白く、強烈な光。障子紙を透かして、二つの丸い光が浮かび上がっている。まるで──巨大な獣の爛々と光る両目のように。


 光はどんどん大きくなっていく。猛烈な勢いで近づいてくるのが分かった。此方に向かって。


「ひいいいっ……!」

「た、たすけっ、たすけ……」


 男たちはその光に目が眩み、思わず腕で覆った。だが、閉じた瞼の裏にも、白い光は焼き付いている。


 轟音が最も大きくなった。耳を聾するほどの音。屋敷全体が咆哮で震えている。地震とは違う。もっと細かく、もっと速い振動。床が、柱が、天井が──屋敷そのものが、何か巨大なものの接近に共鳴するように震えている。


 ガタガタガタガタ……と。


 襖が揺れ、障子が軋み、置いてあった茶碗が畳の上を滑り転がる。


 光が障子一面を白く染め上げた。もはや障子紙など無いに等しい。向こう側から何かが──途轍もなく巨大な何かが、今まさに突っ込んでこようとしていた。


「うああぁぁあぁぁぁ──!!」


 男たちは皆一様に叫んだ。逃げようにも足が竦んで動けない。心の臓だけが命の危険を伝え、逃げるように訴えかけている。


 そして、光と轟音と振動が最高潮に達し──。


 ──ふっ、と。


 全てが消えた。


 光も、音も、振動も。何事もなかったかのように静寂と闇が戻ってくる。


 耳の奥に残る残響音。息荒く、男たちは身を強張らせたまま、警戒した様子でゆっくりと周囲を見回した。障子は破れてもいない。何も壊れていない。まるで今の全てが幻だったかのように──。


「……な、あ、あぁ……?」

「な、なに……が……」


 誰も答えられない。誰も今起こったことを理解できていない。


 宗右衛門は自分の心臓がバクバクと激しく脈打っているのを感じていた。冷や汗が背中を伝い、手が細かく震えている。息が荒い。激しい鼓動のせいで胸が苦しい。


 耳鳴り──痛いほどの静寂が重く圧し掛かってくる。先程までの轟音が嘘のように、屋敷は深い夜闇に沈んでいた。虫の声すら聞こえない。まるで、世界から全ての音が消えてしまったかのような──。


 普通の夜に戻った。安堵の溜息をつきかけた、その瞬間だった。


 闇の中で──また音が鳴った。男達の肩がビクンと跳ねる。


 ギュイッギュイッ、ギュイッギュイッ──!


 またしても聞いたことのない大音。鐘でも、太鼓でも、笛でもない。まるで巨大な虫が鳴くような、鋭く、人の神経を逆撫でする、異質で耳障りな不快感と危機感を煽る音。


 ギュイッギュイッ、ギュイッギュイッ──!


 不快感に、たまらず耳を塞ぐ。その音は闇の中から染み出すように、屋敷全体に広がっていった。どこから聞こえているのか分からない。天井から、床下から、壁の中から──あらゆる方向から同時に響いてくる。


「なんなんや……なんなんや、こりゃあぁぁ!!」


 宗右衛門は叫んだ。声には明確に怯えが混じっている。


 ギュイッギュイッ、ギュイッギュイッ──!


 音は止まらない。延々と執拗に、同じ調子で鳴り続ける。それに加えて──新たに人の声も聞こえた。


『地震です』


 女の声──。だが、血の通った人の声とは思えない。抑揚のない、感情のない平坦な声。事実を告げるだけの無機質な響き。


 そして、また別の音が──どこからともなく、チャランチャランと鳴る。


『緊急地震速報です。強い揺れに警戒してください』


 今度は男の声。言葉の意味を理解するのに数瞬を要する。その音と声が伝える「警告」の意味は本能的に理解できた。何か、途轍もなく恐ろしいことが起こるという警告。備えろ、という声。


『地震です』

『緊急地震速報です。強い揺れに警戒してください』


 不安感を煽る警告音は鳴り続けている。男たちは歯を食いしばり、恐怖に顔を強張らせた。


 ──そして。地の底から、低い唸りが響いてきた。


 カタカタカタカタカタカタ……と、最初は微かな振動だった。だが、それは急速に大きくなっていく。


 大地が大きく揺れ始める。揺れは瞬く間に激しくなった。大地そのものが怒り狂っているかのような、荒々しい横揺れ。遠い雷鳴のような、腹に響く重低音。人々の恐怖の根源の一つ。人には抗えない災い。


「じ、地震っ……!」

「地震だっ……!」


 男たちが悲鳴をあげる。


 だが、これは普通の地震ではなかった。あの恐ろしげな警告音の後に来た──予告された災厄。それはまるで、あの声により起こされた天災とも捉えられ──。


『地震です』

『緊急地震速報です。強い揺れに警戒してください』


 ゴゴゴゴゴゴゴ……!


 屋敷全体が激しく揺さぶられる。柱が軋み、壁が震え、天井から砂埃が落ちてくる。立っていられない。男たちは次々と床に這いつくばった。


「うわあああああああっ!」


 一人が恐怖の限界を超え絶叫した。他の者たちも次々と悲鳴を上げる。


「助けてくれぇぇっ!」

「母ちゃんっ……!」

「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……!」


 屋敷中が恐慌状態に陥った──。浪人たちは床に這いつくばり、這々の体で屋敷の外に出ようと試みている。手下たちは床で丸まり頭を抱え、念仏を唱えていた。


 ──何だ、これは。いったい何が起こっているというのだ。狐狸の化かしにしては、あまりにも……あまりにも常軌を逸している。


 宗右衛門は知らない。この音と光が、遥か未来──二百年以上先のものの幻影であることを。踏切の警報機、電車の走る音、耳障りな緊急地震速報──。本所に住む狐狸たちが知る、『最も強い人間』が恐れている対象であったことを──。


 人を殺しても恐れなかった。神仏の罰も信じなかった。だが──これは……これは宗右衛門の理解の範疇を超えた何かであったから。生まれて初めて心の底からの恐怖を覚えていた。


「なんでや……なんでこないなことになった……!」


 それでも宗右衛門は叫んだ。叫ばずにはいられなかった。


 だが、その声は怪異の騒ぎ、地震の騒音に呑み込まれ誰の耳にも届かない。男たちは余裕など投げ捨て、統制は完全に崩壊していた。


 ──何とか……何とか外に出なければ。


 宗右衛門の中で本能が叫んでいた。このまま屋敷の中にいれば天井が落ちて潰されてしまう。今すぐ逃げろ。座敷の外へ出ろ。


 揺れる床を四つん這いで進む。手が滑り、膝が畳を擦る。死にたくない──。ただ、その一念だけが恐怖で竦んだ身体を動かしていた。


 障子戸に手をかけた。激しい揺れの中、指が震え、うまく力が入らない。それでも必死に引く。ガタン、と音を立てて障子が開いた。


 その瞬間──揺れが一際大きくなった。


「うわあああっ……!」


 身体が弾かれたように投げ出される。宗右衛門が縁側から庭へと転がり落ちた。


 冷たい土の感触。草の匂い。背中を打ちつけた衝撃に、一瞬息が詰まる。仰向けに倒れたまま、宗右衛門は夜空を見上げた。


 ──赤い月が嗤うように輝いている。


 不思議なことに、庭に出るともう揺れは感じなかった。いや──激しい揺れから、いきなり静止した大地に放り出された影響で平衡感覚は狂っている。宗右衛門は庭の土の上に這いつくばったまま、荒い息を吐いた。


 ──ふと、周囲に気配を感じた。


 宗右衛門は顔を上げた。未だふらつく視界の中、庭に人影があった。一人ではない。二人、三人……いや、もっと多い。十人以上の人影が門を壊し、屋敷の中に入り込んできている。


 ──だ、誰だ。


 奇妙にも、背後の座敷からは未だに悲鳴が木霊している中──宗右衛門は目を凝らした。夜の静寂、赤い月明かりが仄明るくその人影を照らし出す。その存在は手に携えた『棒状の何か』で、宗右衛門を指している。そして──。


「──火付盗賊改方である」


 凛とした声が夜の闇に響く。その声に宗右衛門の背筋が凍りついた。庭の中央に一人の男が立っていた。


 黒の陣笠。その奥から覗く目には鋭い光が宿っている。手に携えた『棒状の何か』とは、紫の房の付いた『十手』。羽織袴に身を包み、腰には二本の刀が差してある。その佇まいは、ただの武士ではない。


 渡辺源一郎綱守──。火付盗賊改方与力。渡辺綱を先祖に持ち、『鬼切』や『剣鬼』の異名で呼ばれる武士である。


 その背後には同心や手先たちが整然と並んでいた。皆、抜刀こそしていないが、いつでも動ける態勢を整えている。


「……なっ……」


 宗右衛門は言葉を失った。なぜ、火盗改がここに。なぜ、この屋敷の場所を知っているのかと。


 源一郎の視線が地に這いつくばった宗右衛門を冷たく見下ろしていた。その目には怒りでも憎しみでもない──ただ静かな、揺るぎない意志があった。


「伊勢屋番頭、宗右衛門──いや、盗賊『影鰐』」


 源一郎の声は淡々としていた。だが、その言葉は宗右衛門の心臓を鷲掴みにするように圧力を伴っている。


「御用改めである。神妙にお縄を頂戴せよ」


 宗右衛門は庭の土を掴んだまま、動けなかった。


 怪異に打ちのめされ、恐怖に震え、這々の体で逃げ出した先に待っていたのは──。


 逃れられぬ、裁きの時だった。

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