第七十六話 ※若干閲覧注意
昼八つ時を告げる鐘の音が、神田の町に響き渡った。
伊勢屋は喜兵衛の忌中とは思えないほどに賑わっていた。蝋燭を買い求める客、掛け買いで仕入れようとする商人、蝋燭を納品に来た職人──。店の者たちは額に汗を滲ませながら、忙しく立ち働いていた。
そんな中──宗右衛門は帳場に座り、帳面に静かに目を落としていた。
だが、その意識は帳面の数字にはない。店の奥──住居部分の方へと神経を研ぎ澄ませている。
──そろそろだな。
今朝、宗右衛門は密かにお千代専用の茶葉に細工を施した。曼陀羅華──気違い茄子の種の粉末をほんの少量……喜兵衛を殺した時に使った残りだ。
量は加減してある。死にはしない。だが、摂取すれば幻覚を見て錯乱することになるだろう。
お千代は毎日、昼九つ時頃に茶を飲む習慣がある。女中が淹れた茶を、奥の居間で一服するのが日課だ。宗右衛門はその習慣を当然のこととして把握していた。
──そろそろ、茶を飲んでいる頃合いか。
宗右衛門は帳面を繰る振りをしながら、奥の気配を窺っていたのだ。そして一服の時間帯からしばらくが過ぎた頃──それは起こった。
「いやあああああっ!」
甲高い悲鳴が響いた。店にいた客たちが一斉に何事かと商談を止める。奉公人や手代たちも驚きに手を止め、振り返った。
「な、何だ……?」
「店の奥から悲鳴が……」
宗右衛門は素早く立ち上がった。
「失礼致しました。私が見てまいりますので、どうぞ、そのまま話を続けていてください」
そう言い残し、奥へ向かう。だが、その足取りには焦りはない。全ては予定通りなのだから。
──奥の居間に着くと、そこには異様な光景が広がっていた。
お千代が畳の上で尻餅をつき、怯えるように後退りしている。着物の裾を乱した姿。白い襦袢が見えている。そして、特筆すべき点──目が異様だった。瞳孔が大きく開き、黒目がちの目がぎょろりと虚空を見据えていたのだ。
「どうした。店の方まで声が聞こえたぞ。お客様が気にしている。何があったのだ」
「そ、それが……お嬢様の様子が急におかしく……まるで気が狂ったように……」
「なに?」
「見ないで……見ないでよ……!誰なのよ、あなたたち……!」
宗右衛門が視線を向ける。お千代は壁際まで後退り、頭を抱えて震えていた。
「お嬢様、お嬢様っ、どうか落ち着いてくださいっ」
女中たちが狼狽しながらお千代を宥めようとする。だが、お千代は彼女たちの手を激しく振り払った。
「触らないでっ!あなたたち、私も殺す気なんでしょうっ!」
「わ、私も……?お、お嬢様、何を仰って……」
「分かっているのよっ!皆で私を殺そうとしているんでしょうっ!お父さまを殺したみたいに!店を奪おうとしているんでしょっ!」
女中たちが身を引く──お千代の目に恐れを成したのだ。大きな黒目。開ききった瞳孔が狂気を宿している。明らかに尋常ではない様子だ。
「聞こえる……聞こえるのよ……!皆、私の悪口を言ってるじゃない……!『あの娘は役立たずだ』、『店を継ぐ器じゃない』、『早く嫁げばいい』って……!」
「そのようなこと、誰も思ってなど……」
お千代は両耳を塞ぎ、悲鳴のような声を上げた。
「うるさいっ!黙ってっ!黙りなさいよおおおっ!」
騒ぎを聞きつけて、店の者たちが次々と駆けつけてきた。客たちも何事かと首を伸ばし、暖簾で仕切りられた向こう──店の奥の出来事を覗き込もうとしているようだ。
お千代は壁際に追い詰められた形で、虚空に向かって叫び続けていた。
「やめてっ……やめてよ……!命令しないでっ……!」
「お嬢様!お気を確かにっ……!」
その目は完全に焦点を失い、見えないものを見、聞こえない声を聞いているようだった。女中の一人がお千代に駆け寄ろうとした。途端、お千代の表情が怒りに満ちたものへと豹変した。
「来るなあああっ!」
絶叫と共に、お千代は手当たり次第に物を投げ始めた。茶碗が砕け、急須が転がる。中身が零れ、畳を汚す。店の者たちが怯んで後ずさった。
「お、お嬢様……」
「いったい、どうなさったのです……」
お千代は支離滅裂な言葉を喚き散らし続けた。
「お父さま……お父さま……悲しいわ……そんなこと言わないで……お前は要らない子だなんて……生まれてこなければよかっただなんて……」
「お、お嬢様、旦那様がそんなこと言う訳が……」
「嘘よっ!だって、聞こえるもの……!お父さまの声で……ほら、また……また命令してる……死ねって……死んでしまえって……!」
お千代は髪を掻き毟りながら、笑い出した。だが、その笑いはすぐに嗚咽に変わった。
「あはは……あははは……うっ……うぅぅ……」
笑いながら泣き、泣きながら叫ぶ。感情の制御が完全に利かなくなっていた。
「どうして……どうして……だれも、たすけてくれないの……わたしは、なにも、わるいことなんてしていないのに……」
突然、お千代は何かを見つけたように目を見開いた。開ききった瞳孔が虚空の一点を凝視している。
「……おとうさま……」
お千代の声が不意に静かになった。
「お嬢様には、亡くなった旦那様が見えている、のか……?」
「旦那様は……旦那様はもう……」
店の奉公人たちがざわめく──お千代は虚空に向かって手を伸ばした。
「あ……おとうさま……まって……いかないで……」
その手が空を掴み、お千代は崩れ落ちた。
「いやああああっ!いかないでえええっ!」
畳に突っ伏し、子供のように泣きじゃくる。その姿はまさに心を病み、正気を失った者のそれだった。
──頃合いだろう。
宗右衛門は深く息を吐き、前に出た。
「──皆、落ち着け」
宗右衛門の声は騒然とした場に静かに響いた。その落ち着いた態度に店の者たちの視線が集まる。
「心苦しいが……お嬢様は……心を病んでしまわれたのだろう……旦那様を亡くされた悲しみが、お嬢様の心を壊してしまわれた。お可哀想に……」
宗右衛門は沈痛な面持ちで言った。店の者たちの間に動揺と同情が広がる。
「心を……壊してしまわれた……」
「旦那様のことがよほど堪えておられたのだな……」
「本当にお可哀想に……」
お千代は床に突っ伏したまま、支離滅裂な言葉をブツブツと呟き続けていた。
「しんじちゃだめ……だれも……みんな……みんな、わたしがじゃまなのよ……」
宗右衛門は店の者たちに向き直った。
「……このような騒がしい場所では、お嬢様の養生によくなかろう。それに思い出深い場所というのは、様々な記憶を呼び起こすものだからな……今は静かな場所で休ませた方がよいと思う。女将の療養にも良くはない……双方、心労がかかるだけだ」
「しかし……静かな場所、と申しますと……」
「本所に隠居所がある。今は誰も使ってはおらんが……あそこなら人も少なく、お嬢様もゆっくりと休めるだろう。私が責任を持ってお連れする。不本意とは言え、お嬢様をここまで追い詰めてしまったことは、私にも責任があるからな……どうか私に任せておくれ」
店の者たちは顔を見合わせた。不安そうな表情──だが、誰も異を唱えなかった。目の前で錯乱するお千代を見れば、宗右衛門の提案は至極もっともに思えた。それに他によい考えなど持ち合わせてもおらず、今の番頭はお千代のことを心から案じているように見えたから。
「番頭さんの仰る通りだ……」
「お嬢様も静かな場所でゆっくり養生なされた方がお体のためだ……」
客たちも同情と好奇の入り混じった目でお千代を見ていた。しかし、この騒ぎはすぐに神田中に広まるだろう。伊勢屋の娘が心を病んだ、と。
──よい具合だ。
宗右衛門は内心で笑った。
「籠を呼んでくれ。お嬢様を隠居所へお連れするのでな。誰ぞ、お嬢様の荷物を整えてくれないか」
「は、はい、ただいま」
店の者たちが慌ただしく動き始めた。
お千代は女中たちに支えられ、ぐったりと力を失っていた。瞳孔の開いた目は虚ろに宙を見つめ、涙が零れる……時折、誰にも聞こえない声に反応して身を震わせている。もはや抵抗する力もないのだろう。その姿は……酷く憐憫の情を抱かせる。
──やがて、籠が用意された。
お千代は籠に乗せられ伊勢屋を後にした。宗右衛門が付き添い、宗右衛門に近しく従順な者達が警護として同行する。
店の者たちはその姿を見送った。誰もが沈痛な面持ちで、お千代の行く末を案じているように。
──宗右衛門は籠の傍を歩きながら、密かに口元を歪めた。
大勢の前で錯乱した。客も奉公人も、皆がお千代の狂態を目撃した。これで、お千代を隠居所に軟禁しても誰も疑わない。むしろ当然の処置だと思うだろう。
上手くいった──。
宗右衛門の胸には充足感が広がっていた。
§
──本所の隠居所に着いたのは、未の刻を過ぎた頃だった。
竪川沿いの人目につかない場所にある屋敷。店の者を帰して門を潜ると、既に手下たちが待ち構えていた。
「頭──」
「あ?」
「失礼しました。番頭さん、首尾はいかがです」
「上々だ。丁重にお運びしろよ。お嬢様は身体が動かせんようだからな。しばらくは此方で療養なされる」
へぇ、という短い返事。宗右衛門の指示で、お千代は男たちによって籠から降ろされ、屋敷の奥へと運ばれていった。ぐったりとしたまま時折うわ言を呟いている。
「……だれか……」
頬には涙の跡。その声は酷く弱々しい。
宗右衛門は屋敷の中を見回した──。大阪時代からの古参が五人。人斬りすら厭わない──金で雇った食い詰め浪人が七人。江戸で宗右衛門の裏稼業に加担するようになった男女が数人──合計十名以上の見張りが屋敷の内外を固めている。
弥平のように逃げられては困る。今度こそ獲物を逃がすわけにはいかない。宗右衛門は見合いの日取りを急がせ、それまでは療養の名目で囲い、お千代への面会の一切を断つつもりだった。
「見張りを怠るなよ。屋敷の周りにも目を光らせておけ」
「分かっている。雇われた以上、金の分の働きはする」
浪人たちは庭や門の周囲に散り、手下たちは屋敷の中で待機している。物々しい警備だが、これだけいれば万全だろう。
宗右衛門は奥の部屋へ向かった。八畳ほどの部屋に、お千代は押し込められていた。家具も何もない畳の間に呆然とへたり込んでいる。
店の女中は連れてきていない。店の手代たちは、お千代を屋敷に運び込んだ後、すぐに戻らせた。世話は他の者──女人の手下にでも任せればよいだろう。
──宗右衛門は部屋に入るとお千代の傍に膝をついた。
お千代の目は相変わらず瞳孔が開き、虚ろに天井を見つめている。唇が微かに動き、聞き取れない言葉を呟いている。
「お嬢様」
宗右衛門がお千代を呼ぶと体がびくりと震えた。
「……だ、れ……」
焦点の合わない目が、ゆっくりと宗右衛門の方を向いた。
「私ですよ。番頭の宗右衛門です」
お千代の目に明確な恐怖の色が浮かんだ。
「そう……え……もん……」
「そうです。分かりますか」
お千代は首を横に振った。弱々しく、だが必死に。拒絶するように。
「……いや……こないで……」
「少し、お嬢様にお聞きしたいことがあるのです」
宗右衛門は言葉の丁寧さとは裏腹に冷たい声で言った。それは最早、店で見せていた穏やかな番頭の仮面とは異なっていた。
「遺言状はどこにある?」
お千代の体が強張った。
「……ゆいごん、じょう……?」
「とぼける必要はありません。お嬢様は旦那様の部屋で何かを探していたでしょう。噂の遺言状を探していたのではありませんか?」
「……しらない……しらない……」
「──嘘をつくな」
お千代は朦朧としながらも首を横に振る。宗右衛門の声が低くなった。
「誰がお嬢様に入れ知恵をしたのです。あのボンクラ……長谷川辰蔵という若造なのですか」
辰蔵の名前を聞いた途端──お千代の目に一瞬、光が宿った。だが、すぐに光を失い虚ろに戻る。曼陀羅華の効果で未だ意識が定まらないのだろう。
「……たつぞう……さま……」
「やはりあの若造か。奴は何を嗅ぎ回っているのです。何を知っているのか答えなさい」
お千代は答えなかった。答えられないのか、答える気がないのか。ただ、小さく首を横に振るだけだった。
「……しら、ない……なにも……しらな……」
宗右衛門は舌打ちした。
曼陀羅華の効果で朦朧としている今なら、秘密を隠し通すのは難しい。正気を失いかけた人間は、理性の壁すら脆く崩れ去る。だが、お千代は本当に何も知らないのか、それとも何も考えられないほど意識が混濁しているのか──。
どちらにせよ、今は無理だろう。秘密を吐くまで根気よく繰り返し問い質すしかない。
「……まあええ」
宗右衛門は立ち上がった。
「お嬢様には見合いの日まで此処で過ごしていただきます。まぁ……信州に嫁ぐまでの辛抱ですよ」
お千代は答えなかった。虚ろな目で天井を見つめたまま、小さく震えている。そんなお千代を横目に、宗右衛門は部屋を出た。廊下には手下の一人が待っていた。
「おや、番頭さん。どうでした」
「何も吐かんな。今は毒が効きすぎているようだ。暫く様子を見る」
宗右衛門は苛立ちを滲ませながら言った。
「いいか──見張りは怠るな。また逃がすような真似したら……許さんからな」
「へぇ、わかってますよ」
§
──夕刻前。
西の空が茜色に染まり始める頃、宗右衛門は座敷へと足を向けた。見張りの配置を確認し、屋敷の警備に問題がないことを見届けた後のことだった。
座敷では数人の男たちが車座になり酒を飲んでいた。雇われの浪人たちも、手下たちと打ち解けた様子で杯を交わしている。まだ日は落ちきっていないが、長い一日の緊張を解すように、早めの酒盛りが始まっていた。
「おい……見張りもせず酒盛りとはどういう了見だ」
宗右衛門が眉を顰めて言うと、古参の手下が愛想笑いを浮かべた。
「まあまあ。そんな難しそうな顔せんで、番頭さんも一杯どうです?な、頭、一杯だけ一杯だけ」
「……」
宗右衛門は眉を顰め……暫し逡巡した後、腰を下ろした。差し出された杯を受け取り、酒を口に含む。張り詰めていた神経が僅かに緩む。溜息を一つ吐いた。
計画は順調に進んでいる。お千代を此処に連れてくることはできた。だが、肝心の情報がまだ得られていない。
──まあええ。焦ることはない。
宗右衛門は自分に言い聞かせた。もう、お千代は此処から逃げられはしないのだから。あとは、ゆっくりと秘密を聞き出せばいい。
──これで全て上手くいく筈や。
宗右衛門はそう信じようとした。だが……それでも胸の奥に燻る漠然とした不安は消えない。
店を引き継ぐのに、最大の障害となるお千代は押さえている。残る問題は弥平の行方に、もう一つの遺言状の噂の真偽──そして、裏で糸を引いていると思われる長谷川辰蔵の今後の出方だ。
「番頭さん、顔色えらい悪いやんか」
古参の手下が酒を注ぎながら、揶揄するように言った。
「ふん……疲れとるだけや。気にするな」
宗右衛門は杯を干し、もう一杯を求めた。
徐々に日が落ち、夜が迫り来ようとしている──。屋敷の外では、闇が静かに広がりつつあった。本所──七不思議で知られる土地。怪談話には事欠かない場所。
──宗右衛門は、まだ気づいていなかった。
物陰や軒下、草葉の其処彼処から──無数の人ならぬ者たちの目が屋敷の様子を窺っていることを。本所に棲む古狸たちは、じっと息を潜め……世が闇に染まるのを待っていた。




