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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
三章 神田剣鬼影払
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第七十四話


 ──全ては順調と思われた。


 しかしながら──宗右衛門は違和感を覚え始めていた。


 最初に気づいたのは奉公人たちの態度の変化だ。従順だった手代や丁稚たちが、どことなくよそよそしい。目を合わせようとしない者、宗右衛門のいない場所で何かを囁き合う者──。


 宗右衛門が帳場を離れて奥に向かおうとした時、手代たちが慌てて話を止めるのを見た。何を話していたのかまでは聞こえなかったが、その様子は明らかに不自然だった。


「どうした、何かあったのか」


 宗右衛門が問い質すと、古参の手代が慌てたように口を開いた。


「い、いえ……ただ、旦那様のことを思い出しておりまして……」

「旦那様?」

「は、はい……旦那様は生前、お嬢様に店を継がせたいと仰っておりました。番頭さんもご存知でしょう……」


 だから何だ、と宗右衛門は眉をひそめた。


「旦那様の遺言状には私が店を継ぐと書いてあるが」

「そうでございますね……ですが、生家を離れて嫁にやるというのは、あまりにもお可哀想で……どのような心変わりがあったのかと……」

「……ふん。私が店を継ぐのでは不満のようだな」

「そ、そんな、滅相もございませんっ」


 番頭さんが店を継ぐなら商いは安泰です、と手代は目を伏せた。だが、その態度には隠しきれぬ同情や憐憫──いや、遺言状への不信感があった。言葉では従っているふりをしながら、心の中では疑っている。そんな態度だった。


 宗右衛門は苛立ちを覚えた。


 ──十数年もこの店を支えてきた。誰よりも店のことを知っている。誰よりも店のために尽くしてきた。誰がこの店を盛り立ててきたと思っている。誰がこの店を陰に日向に守ってきたと思っている。喜兵衛?違う。この私だ!それなのに、お千代を跡取りにだと?いったい何を考えているのだ……!どちらを歓迎すべきかなど、決まりきっているではないかっ。


 宗右衛門は心の中で毒づいた。


 どうせ、風向きが変われば手のひらを返す日和見の連中だ。もしも、お千代が店を継いで苦労し始めれば後悔する。情に流され、先が見えていない。そういう人間ばかり。可哀想だと口では生温いことを言いつつ、結局は自分が得をする方につく──。


 宗右衛門はそういう人間を下に見ていた。だが同時にそういう人間は扱いやすいとも思っている。金と力さえ見せれば簡単に従う。疑っていても自分が店の主人になれば、また従順になる。


 ──だが、不愉快なことに変わりはない。


 おそらく、奉公人たちが絆され始めた切っ掛けは……あの火盗改の息子──長谷川辰蔵がお千代を訪ねて来たことだろう。


 あの若者と会ってからお千代は公然と店を継ぎたいと言うようになったのだから。


 ──余計なことを吹き込みやがって……


 宗右衛門は辰蔵への苛立ちを募らせた。


§


 その夜、宗右衛門は株仲間の会合の帰り──本所の隠居所を訪れた。


 竪川沿いの、人目につかない場所にある古い屋敷。伊勢屋が火事の際の避難場所として所有しているものだが、普段は人が寄り付かず、稀に影鰐一味の密談場所となることもあった。


 本所──七不思議で知られる土地だ。


 置行堀、送り提灯、送り拍子木、足洗い屋敷、片葉の芦、落葉なき椎、狸囃子──。怪談話には事欠かない。


 だからこそ、人目を避けるには都合が良かった。夜になれば人通りも少なく、怪しげな者が出入りしていたり奇妙なことがあっても「本所だから」で済んでしまう。密談の場としてはこれ以上ない立地だった。


 宗右衛門が門を潜り屋敷の奥へ進むと、座敷で五人ばかりの男たちが車座になって酒を飲んでいた。


 かつて大阪で共に働いた手下たちだ。影鰐の一味として数々の盗みを働いた古い仲間。江戸に逃げてからは、それぞれ別の道を歩んでいた。


 足を洗って堅気になった者もいた。小さな店を開いたり、嫁を貰って地道に暮らしている者もいる。だが、そういう連中は宗右衛門の呼びかけには応じなかった。江戸の生活に慣れ、毒気が抜けてしまったのだろう。


 しかし──今ここに集まっているのは宗右衛門の呼びかけに応じた者たちだ。堅気の暮らしに飽きた者、金に困っている者、あるいは昔の血が騒ぐ者──。いずれも盗みを忌避しない連中だった。盗みのスリルと興奮、成功したときの快楽、金への欲望。それが彼らをここに集めていた。


「──頭」


 男たちが顔を上げた。酒の匂いが漂っている。


「代筆屋……弥平はどうしている」

「奥で大人しくしてますよ」


 男の一人が顎で奥を示し、宗右衛門は奥の部屋を覗いた。


 六畳ほどの部屋に、弥平が寝転んでいた。弥平の前に置かれた膳には飯と汁物、漬物──箸を動かしながら酷く怠惰に、そして退屈そうな顔をしている。


 縛られてはいないが、部屋から出ることは許されていない軟禁状態だった。


 弥平は宗右衛門の姿を見ると、卑屈な笑みを浮かべた。


「おや、宗右衛門さん。お越しでしたか」

「変わりはないか」

「へぇ、おかげさまで。飯も食わせてもらってますし、寝る場所もある。金も貰えるし、文句はありませんや」


 弥平は箸を置いて、にやりと笑った。


「ただ、まあ……退屈でしてねぇ。たまには外の空気を吸いたいもんです。賭場にも行きてぇし」

「馬鹿か」


 宗右衛門は即座に言った。


「お前が外に出れば、誰に見られるか分からん。外で余計なことを喋られても困る。用が済むまではここにいろ」

「……へぇ、分かってますよ」


 弥平は肩を竦めた。だが、その目の奥には不満の色が滲んでいた。


 弥平は戯作者崩れであり、賭博で借金を抱え、取り立てから逃げていた。それを宗右衛門は金で雇い、偽の遺言状を書かせたのだ。他にも──通行手形、借用書、鑑札──宗右衛門が元締めとして仲介し、偽造の仕事を与えてやっていた。


 ──しかし、便利な駒である一方、信用はできない。


 金次第で誰にでも寝返る。賭場に行けば、酒の勢いで余計なことも喋りかねない。だから軟禁している。逃げられては困るし、余計なことを喋られても困る。優秀な偽筆者を必要としていたため保護していたが、本来は飼うにしても遠慮したい人物だ。


「おとなしくしていろ。用が済んだら出してやる。金もたっぷり払う」

「へへへ……分かっておりやす」


 弥平は愛想笑いを浮かべた。だが、その顔には「早く賭場に行きてぇ」という欲望が露骨に浮かんでいた。


 宗右衛門は弥平から目を離し部屋を出た。男たちの元に戻ると一人が口を開く。


「頭、あの代筆屋、本当に大丈夫ですかい。賭場に行きてぇ行きてぇってうるせぇんですよ」

「よく見張っておけ。金を渡しておけば、おとなしくしている筈だ」

「へぇ……」


 男は納得していない様子だったが、それ以上は言わなかった。


「他に変わったことはあるか」


 宗右衛門が訊ねると、男の一人が妙な顔をした。


「いや、特には……ただ、この屋敷、少し気味が悪くねぇですかい」

「気味が悪い?」

「ここ最近、夜中に変な音がするんですよ。誰もいねぇってのに話し声がしたり……」


 別の男が続けた。


「──俺も聞いた。何だか、ぼそぼそと声がするような……何を言っているかは分からねぇんですが。誰かいるのかと思って探りに行ったら狸が数匹いるだけで」

「アホ言ってんじゃねぇよ」


 宗右衛門は一喝した。


「七不思議の噂なんぞに惑わされるな。そんなものは臆病者が作り上げた戯言に過ぎねぇ。不気味がる必要がどこにある」

「ですがね、頭……」

「黙りやがれ」


 宗右衛門は冷たい目で男たちを睨んだ。男たちは口を噤んだ。


 ──愚か者どもが。


 宗右衛門は内心で舌打ちした。妖怪だの怨霊だの……そんなものを恐れているから、いつまでもうだつが上がらない。


 人を殺しても祟られることはない。神仏に罰せられることもない。目に見えないものこそ否定はしないが──宗右衛門はそれらを恐れてはいなかった。


「狸が話をしてたからって何だってんだ。狐狸が化かすってなら、捕まえて食うくらいしてみやがれ。お前らは上方で恐れられた影鰐の一味だろうが」


 ──宗右衛門はそう言い残し、隠居所を後にした。


 夜の本所は静かだった。月明かりが堀割の水面に揺れ、そこかしこから虫の声が聞こえる。人通りはない。武家屋敷の多い本所は夜になると本当に静かだった。


 宗右衛門は籠に揺られながら考えを巡らせていた。


 最近になって感じる妙な違和感。まるで誰かが裏で動き、事態を動かそうとしているような──。


 だが、まだ慌てることはない。全ては計画通りに進んでいる。お千代は見合いの席に出ると言った。お房の体も日に日に弱っている。もう長くはない。縁談がまとまれば、江戸から追い出せる。


 ──大丈夫だ。このまま計画通りに進めればいい。


 その予感を無視して、宗右衛門はそう自分に言い聞かせた。


§


 翌日──宗右衛門の耳に奇妙な噂が届いた。


「──遺言状がもう一つあるらしい。二つある遺言状の内、一つは偽物なんだと」


 そして、その遺言状には娘のお千代に全てを継がせると書いてある──。そうした噂が神田界隈で密かに囁かれていた。


 宗右衛門は一笑に付した。馬鹿馬鹿しい、本物の遺言状など存在しない。現にお千代は遺言状が存在することを全く知らなかったのだから。


 ──だが、噂は消えなかった。


 それどころか日を追うごとに広まっていく。人の口に戸は立てられない──。得意先の商人が世間話のついでに口にする。仕入先の問屋が帳場で何気なく触れる。神田の町を歩けば、あちこちで囁き声が聞こえた。


「伊勢屋の遺言状はもう一つあるらしい」

「宗右衛門さんが出したのは偽物らしいぜ」

「いやいや、もう一つの方が偽造なんだろう」

「中には娘が継ぐって書いてあるとか」

「娘に店を残してやりてぇ気持ちは分かるがよ……それが本当なら店は大丈夫なのか?」

「だけどよ、自分の身内に店を残してやらねぇってのは、あんまりじゃねぇか」


 噂は止まらない。株仲間の商人たちの間でも、その噂は囁かれ始めた──。


「──宗右衛門さん。あんたぁ、本当に店を継げるのかい?」


 ある日、日本橋の蝋燭問屋の店主が訪ねてきて、気色悪い上目遣いをして言った。


「何のことです」

「いやいや、遺言状がもう一つあるって噂でしょう。もし本当なら、あんたの立場はどうなるかなってね。神田の大店、伊勢屋の看板が傾くとなると悲しいやら、嬉しいやら……」


 男の目には好奇心と──仄暗い嘲りがあった。その言い様に宗右衛門は顔を赤くしたが、何とか怒りを抑えながら答えた。


「根も葉もない噂ですよ。旦那様の遺言状は私が預かっています。それが全てです」

「そうかい、そうかい。まあ、そうだろうな。まさか、宗右衛門さんの持つ遺言状が偽物、なんてある訳ないしねぇ」


 男は曖昧に笑い、世間話をすると帰っていった。


 だが、宗右衛門には分かった。株仲間たちが店の窮地を喜んでいるのだと。油断のならない宗右衛門よりは、娘のお千代の方がやりやすいと。


 宗右衛門は歯噛みした。此奴らは決して甘く見ることはできない。伊勢屋を貶め踏み台とし、自身の店を盛り上げる機会を虎視眈々と狙っているのだ。


 ──誰や。誰がこないな噂を流しよったんや。


 感情が昂り、宗右衛門の言葉に播磨の訛りが混じる。普段は江戸言葉で通しているが、心の奥底では播磨で生まれ育った頃の荒々しい言葉が消えていない。怒りや焦りを感じると抑えていた気性がふと、顔を出す。


 宗右衛門は深呼吸をして、心を落ち着けた。


 ──落ち着け。まだ何も決まっていない。噂は噂だ。


 そう自分に言い聞かせた。


§


 さらに翌日──。


 両国で小間物屋を営む男が伊勢屋を訪ねてきた。喜兵衛の従兄弟で偽の遺言状の保証人となった男だ。


「そ、宗右衛門さん……話があるんだが……」


 男の顔は青ざめていた。苛立つことばかりだ。宗右衛門は男を奥の部屋に通し人払いをした。


「何だ、騒々しい」

「遺言状がもう一つあるって噂、聞きましたか……?」

「ああ、聞いた。根も葉もない噂だ」

「本当にそうなのでしょうか……?」

「──は?何だ。何が言いたい」


 男の声は震えていた。額には脂汗が滲んでいる。


「もしも喜兵衛が本物の遺言状を残してて、それが出てきたら、俺はどうなります……?偽の遺言状に署名したことがバレたら、俺も罪に問われますよね……?入牢どころか、遠島になるかもしれないっ……」

「落ち着け」


 宗右衛門は低い声で言った。


「本物の遺言状など存在しない。あったとしても、表に出てくるはずがない。お千代は何も知らない。黙っていれば、何も起こらん」

「ですが……偽造が明るみになったら……」

「黙っとれ言うとるやろがっ……!」


 思わず播磨の言葉が出た。男はその剣幕に肩をビクつかせ──宗右衛門は苛立ちを込めて睨みつけた。


「ええか、今さら抜けられる思ったら大間違いやど。おどりゃあ、もう偽モンの遺言状に判押してもうとるんや。ワシと同じ穴の狢ぁ。一緒に沈むんか、一緒に浮くんか。どっちかしかあらへんぞ……!」


 男は怯えた目で宗右衛門を見つめた。顔は蒼白で、唇が震えている。だが、反論はできなかった。


「おどれの店の借金、誰が被ってやった思うとる。わしがおらんかったら、今ごろ夜逃げしとるわ。恩ばぁ仇で返す気か、あぁ?」

「ひっ……い、いえ、忘れていませんが……」

「ボケが、黙っとれ。アホが一丁前に余計なこと考えんなや。噂に踊らされる奴ぁ、何ちゅうか知っとるか──マヌケって言うんや。噂なんぞ放っとけ、そのうち消える」


 男は肩を落として頷いた。宗右衛門が怒りを鎮めるために一息いれる。


「わ、分かりました……」

「……分かっているだろうな。お前には私に協力するしか道はない。裏切ればお前は店を失い、家族が路頭に迷うことになるぞ。裏切り者の行く末は、良くて長屋暮らしに日雇い仕事、悪くて遠島──息子は丁稚奉公、娘は身売りして遊郭行きか。それが嫌なら余計なことは考えるな」


 男は何度も頷き──キョロキョロと挙動不審な様子で帰っていった。宗右衛門は一人残り、歯噛みする。


 ──腰抜けが。いざとなったら、こちらを売って自分だけ助かろうとする魂胆やろ。


 この男は最初から信頼などしていなかった。借金を肩代わりしてやった恩があるとはいえ、所詮は脅して署名させただけの小者だ。使い道もない。追い詰められれば、保身のために何でも喋るだろう。


 宗右衛門は従兄弟の男を始末することも考えた。口封じだ。あの男が怯えて余計なことを喋れば、全てが露見する。


 だが、今それをすれば、却って疑いを招く。喜兵衛が死に、その従兄弟も死ぬ。さすがに、誰かが不審に思うだろう。今は我慢するしかなかった。


 ──その苛立つ話ばかりが続き、機嫌の悪い宗右衛門に店の奉公人達は怯えていた。


 そして、それから暫くして……嫌な予感が当たってしまった。最悪な報せが届いたのだ。


 その夜、宗右衛門宛の文が届き、慌てて隠居所を訪れると男たちは顔色を青くしていた。


「頭、やべぇぞ……!」

「何だ」

「弥平が……弥平が、逃げやがった──」

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