第七十三話
喜兵衛の死後暫くしてから、宗右衛門は用意していた偽の遺言状を表に出した。
店の主がいなくなれば、次は誰が店の跡を継ぐのかという空気が自ずと湧き上がってくる。当然だ──蝋燭問屋ともなれば莫大な金が動くのだから。
──遺言状は代筆屋に書かせた。喜兵衛の筆跡を完璧に真似させ、店は番頭の宗右衛門に継がせると記してある。加えて、保証人には喜兵衛の従兄弟の署名。
その従兄弟は商才がないのなら店を畳めと、喜兵衛に何度目かの借金を断られた哀れな男だった。そこに目をつけた宗右衛門が手を差し伸べ、苦しい店の払いを肩代わりしてやる代わりに黙って署名しろ、さもなくばお前の店は潰れ家族が路頭に迷うぞ、と軽く脅した。それだけで簡単に得られた署名だ。
──遺言状が表に出ると……当然ながら、その遺言状を見て喜兵衛の娘は異を唱えた。
父がそのような遺言を残すはずがない、何かの間違いだと。だが、遺言状にあるのは紛れもなく喜兵衛の筆跡であり、正式な保証人の署名も添えてある。娘一人の言い分では遺言状は覆しようもない。
店の奉公人たちも、内心では疑問を抱いていた。喜兵衛が娘を可愛がっていたことは誰もが知っている。娘に店を継がせたいと言っていたことも。……だが、実際には誰も声を上げなかった。
宗右衛門は実務の取りまとめ役──嫌われてしまえば店から出て行かざるをえなくなるのは目に見えている。それに皆が噂したものだ──。以前に番頭の候補だった男が濡れ衣を着せられ、全てを失い自死に追い込まれたのは宗右衛門による謀だと。それなのに誰が声を上げることなどできようか。
──宗右衛門は、ふと店の奥に視線をやった。
娘が手代たちと何やら話し込んでいる。その姿を見て宗右衛門は微かに眉をひそめた。
喜兵衛の一人娘──お千代。
宗右衛門はこの娘が嫌いだった。
生まれた時から何不自由なく育ち、親の財産に守られ、苦労を知らずにのうのうと生きている。商いの厳しさも、世の理不尽も何一つ分かっていない。それでいて父親譲りの店を継ぎたいなどと簡単に言い出す。
──馬鹿が。
宗右衛門は心の中で吐き捨てた。
お前に何ができる?帳面の読み方も、仕入れの駆け引きも、株仲間との付き合いも、何一つ知らぬ小娘が。店を継いだところで、すぐに経営を傾けるのは目に見えている。仕入先には足元を見られ、得意先には値切られ、株仲間には上手く利用されるだけ。あっという間に伊勢屋が築いた信用を食い潰すに違いない。
同業の株仲間たちが、どれほど狡猾で油断ならないか。宗右衛門は十数年かけて、それを身をもって学んできた。
彼らは弱みを見せた者を容赦なく食い物にする。若い娘が店を継ぐ?寄ってたかって言葉巧みに利用するに決まっている。原料を高く売りつけ、製品を安く買い叩き、質が落ちたなどと噂を流す。あの手この手で伊勢屋の利益を吸い上げようとする。
お千代にそれを見抜き、跳ね返す力があるとは到底思えなかった。
──だが、己ならば違う。
宗右衛門が店を継げば、伊勢屋は間違いなく繁盛する。原料の仕入れを見直し、株仲間との談合で価格を操作し、利益を最大化する公算すらある。十数年かけて学んだ商いの術を、全て注ぎ込むつもりだった。同業者たちも、『善人ではない』宗右衛門が相手では報復を恐れて手出しができない。
──だから、目障りなのだ。お千代という存在は目の上のたんこぶのような物だ。
だが、宗右衛門はお千代をすぐにでも始末するつもりはなかった。
理由は単純──小娘一人、どうとでもなる。縁談を成立させて江戸から追い出せば、それで済む話。今すぐ殺す必要などない──それに喜兵衛の死の直後に娘が死ねば、さすがに大きな騒動になる。宗右衛門が望む展開とは、お千代が認めた上で伊勢屋を託すという、周囲も納得する流れであったから。
だから、お千代への対処は後回しにしていた。それよりもだ──。注視しておくべき相手がいた。
お千代の母親──喜兵衛の妻、お房だ。
§
以前のお房は女将として店に立ち、客との会話を広げる役目を担った伊勢屋の看板と言えた。
しかし、今となっては床に伏せることが多く、ここ数年は寝たり起きたりの生活を送っている。顔色は青白く、頬は痩け、声にも力がない。病人の姿そのものと言える。
──だが、それは病が原因ではなかろう。宗右衛門はそう睨んでいた。
お房は店に立っていた頃から白粉を好んで使っていた。その白粉が少しずつ彼女の体を蝕んでいるのだと宗右衛門は考えていたのだ。
鉛白──白粉の原料となる鉛の粉。肌に塗れば美しく白く見えるが、その毒は少しずつ体に溜まっていく。宗右衛門は大阪で盗みを働いていた頃、廓の遊女たちが若くして体を壊し、早世するのを何度も見てきた。白粉を塗る時間の長い人気のある女郎ほど早く衰え、三十を待たずに亡くなる者も珍しくなかった。芝居町でも同じだ。歌舞伎役者や女形が若くして病に倒れるのも、舞台で塗りたくる白粉のせいだと一部では囁かれていた。
──お房はそれを知らずに、己の手で命を蝕んだ。
宗右衛門自身が手を下す必要などない。ただ黙って待ってさえいれば、お房は勝手に弱っていく。食欲が落ち、体力が衰え、やがて起き上がることすら難しくなるだろう。そして、ある日静かに息を引き取る──病死としか見えぬ死に方で。
何も細工する必要などないのだ。お房は勝手に死んでいく。宗右衛門はただ、その時を待てばいい。
──重要なのは、お房が死ねば、お千代は完全に孤立するということだ。
父を亡くし、母を亡くし、頼る者もいない天涯孤独の娘。心が折れ、店を継ぐ気力も失せるだろう。そうなれば縁談を持ちかけるのも容易い。江戸を離れ、遠い土地に嫁いでしまえば二度と戻ってくることもない。
故に、宗右衛門はお房の死を待っていた。もう長くはないはずだ。体調は日に日に悪化している。食事も喉を通らず、起き上がることすら難しい。残された時間はあと、どれくらい。数週間、いや、もっと早いかもしれぬ。
それまでは慌てる必要はない。待っていれば、勝手に好機は転がり込んでくる。
そう思っていた。
§
「──お断りします」
しかしながら、お千代は宗右衛門の持ってきた縁談の話を一蹴した。
宗右衛門が持ちかけた縁談──信州の油問屋の跡取り息子との折角の見合いの話。お千代は相手に会うことすら拒んだのだ。
「私は父の跡を継ぎたいのです。この伊勢屋を守りたい」
お千代は静かに、しかし毅然とした態度でそう言った。
宗右衛門は内心で舌打ちした。小娘が、と。だが、表向きは穏やかな笑みを崩さなかった。
「お嬢様、見知らぬ相手との縁談。不安になる気持ちは分かります。ですが、女の身で商いを続けるのは難しゅうございます。他にはない良い縁談ですから、もう一度お考えになっては……」
「いいえ。私の考えは変わりません」
お千代の目には以前にはなかった強い光があった。
──誰かに吹き込まれたな。
宗右衛門はそう確信した。先日訪れた若い武士──調べてみれば、正体はあの鬼の平蔵の子息であり……その子息に対し、お千代が何事か縋るように話し込んでいるのを宗右衛門は見かけた。
──あのボンクラが。
宗右衛門は内心で毒づいた。親の七光りで何でも出来ると思い込んでいる若造。己では何一つ成し遂げていないくせに、父親の武名を笠に着て偉そうにしている。生まれた時から恵まれた環境にいて、苦労を知らずに育った。そういう人間が宗右衛門は一番嫌いだった。
宗右衛門自身は何も持たずに生まれた。播磨の貧しい農村で生まれ、幼い頃から飢えと寒さに苦しんだ。親は子を捨てて蒸発し、宗右衛門は一人で生き延びるしかなかった。
──盗みを覚えたのは生きるため。誰も助けてくれない世の中で、己の力だけを頼りに這い上がってきた。幼い頃から心身に染み付いている生き残りの欲求──その想いは最早強迫観念となり、宗右衛門を突き動かす原動力にも、曇り眼鏡ともなっている。
だから生まれながらに恵まれた者が許せない。苦労もせず、親の財産でのうのうと生きている者どもが。そういう連中を見ると、腸が煮えくり返るような怒りを覚える。
──だが、ここで怒りを見せるわけにはいかぬ。宗右衛門は穏やかな笑みを保ったまま、言葉を続けた。
「お嬢様、失礼ながら申し上げます。商いのことを、どれほどご存知でいらっしゃいますか」
「それは……」
お千代の表情が僅かに揺らいだ。
「帳面の付け方、仕入れの駆け引き、株仲間との付き合い……。旦那様はそうしたことを長年かけて学ばれました。私も十数年この店で働いて、ようやく商いの何たるかが分かるようになりました」
宗右衛門は静かに、しかし確実に逃げ道を塞ぐように言葉を紡いだ。
「店を継がれたいというお気持ちは、立派なことでございます。ですが、商いはお嬢様が思っているよりも甘くはございません。仕入先は足元を見ます。得意先は値切ります。株仲間は隙あらば此方を利用しようとします。失礼ながら……お嬢様は、そうした者たちと渡り合えましょうか」
「……」
お千代は黙った。宗右衛門の言葉が正鵠を射ていることは、お千代自身にも分かっているのだろう。経験も知識もない、店に出ていた訳でもない若い娘が海千山千の商人たちを相手にできるはずがない。
「女将──お母様のことも、お考えください」
宗右衛門はわざとお房の名を出した。お千代の弱点。母親思いの娘はこの一言で簡単に揺らぐ。
「お母様は長く床に伏せておられます。お嬢様が店のことで苦労されている姿を見れば、お母様のお体にも障りましょう」
お千代の顔が僅かに強張った。
「お母様のお体は日に日に弱っておられます。お嬢様が心労を抱えれば、お母様もご心配なさる。それが、お体に良いはずがございません」
宗右衛門は穏やかな声で続けた。だが、その言葉の裏には冷たい計算があった。
「お嬢様が良い縁談をお決めになれば、お母様もさぞご安心するでしょう。そこで初めて養生に専念できます。お嬢様のご縁談を丸く収めることが、何よりの薬になるかと存じます」
お千代の目に迷いが浮かんだ。
母親を人質に取られた形だ。お千代がどれほど店を継ぎたいと願っても、母親の健康を引き合いに出されれば強くは出られない。
「すぐにお返事をいただく必要はございません。ただ見合いの席に出るだけでも、お考えいただけませんか。それでお気に召さなければ改めて断れば良いのでございます」
宗右衛門は穏やかに微笑んだ。
「……」
お千代は暫く黙っていた。その目には葛藤の色が浮かんでいた。店を継ぎたいという思いと母親への心配と。二つの思いが、お千代の中でせめぎ合っている。
やがて──お千代は小さく息をついた。
「……分かりました」
その声には諦めの響きがある。
「見合いの席には出ます。ただ、それで決めるかどうかは私が判断します」
「もちろんでございます」
宗右衛門は深々と頭を下げた。しかし……
──やはり、小娘だ。
内心では冷笑していた。少し脅してから親身になる振りをして宥めれば、すぐに折れる。商売人として評価に値しない。こんな娘が己の計画を邪魔できるはずがない。
お千代は悩む表情のまま部屋を出て行った。その背中を見送りながら宗右衛門は目頭を揉む。
お千代の縁談がまとまれば、一段落つく。見合いの席に出させれば、後は無理にでも話を進めるだけ。見合いの宴席の後──見合い相手の男と一緒に、同じ部屋にでも放り込んでしまえばいい。信州の商家は有力な蝋燭問屋との繋がりを強く欲している──。話がまとまれば、お千代には恨まれるだろうが、江戸には二度と戻ってはこられない。
──そうなってしまえば、後はどうにでもなる。
そこまで想像し──宗右衛門は自身が伊勢屋の主になる未来が近づいて来ていることを、ひしひしと感じていた。




