第七十二話
神田の蝋燭問屋、伊勢屋──。
宗右衛門は帳場に座り、帳面に目を落としていた。
夏の盛りを過ぎつつあるとはいえ、まだ蒸し暑い。額に滲む汗を手拭いで拭いながら、宗右衛門は今日の売上を確認していた。悪くない数字だ。先代──喜兵衛が築いた信用と自分が十数年かけて広げた商売の成果が、この帳面には刻まれている。
──もうすぐだ。もうすぐ、全てが手に入る。
宗右衛門は密かに口元を緩め……すぐに引き結ぶ。帳面の数字を追いながら、宗右衛門は己が歩んできた道のりを思い返していた。
──十数年前、大阪を追われてこの江戸に流れ着いた時のことを思い出す。あの頃はまだ若かった。若さ故の万能感──血気盛んで成功ばかりする盗みの腕には絶対の自信があった。それは、ついには背中に自身の二つ名である影鰐の入れ墨を入れるほどに。
影鰐──水辺に棲み、人の影を食らう怪物。姿を見せず、気配を消し、ただ水面の影だけを狙う。その名の通り、宗右衛門は姿を見せずに大阪の商家を喰らっていった。
引き込みの手口で奉公人として入り込み、内側から手引きして仲間を招き入れる──。そして、主人の寝静まった深夜、蔵の鍵を開け、金目のものを根こそぎ奪う。必要とあらば人を殺すことも厭わなかった。
故に、上方において影鰐の名は畏れられ、若い頃の宗右衛門は酷く調子に乗っていた。
だが……万能感というものは、結局はまやかしでしかない。とうとう冷や水を浴びせ掛けられる出来事が起こった。仲間だった一人が女に入れ込み、その女が奉行所に密告したのだ。芋蔓式に追われる羽目になり、宗右衛門は命からがら大阪を逃れるしかなかった。他の仲間たちも散り散りになり、ある者は捕まり、またある者は行方知れずとなった。
──いくら腕が立っても、盗みを続けていればいつかは捕まる。
それが、宗右衛門が得た教訓だった。
──ならば、どうするか?商家に入り込み、主人の信頼を得て、今度は店を丸ごと盗んでやればいい。
その方がよほど賢いやり方だ。盗みを繰り返せば、いつかは足がつく。それに、一度の盗みで得られる金などたかが知れている。対して、金を生み続ける大店の主人として収まってしまえば、一生が安泰。何不自由なく悠々と暮らせる。
──故に、宗右衛門は伊勢屋に奉公人として入り込んだ。
当然のこと、最初は下働きからだった。しかし、宗右衛門は誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで働いた。竈の火を起こし、店の掃除をし、荷物を運んだ。どんな仕事も不満を堪え、嫌な顔一つせずにこなした。
そうした頑張りのお陰で、早くに手代に取り立てられた。帳面の付け方を学び、仕入れの駆け引きも覚えた。取引先との付き合いを広げ、蝋燭問屋の株仲間にもやり手の手代として顔を覚えられるまでになった。
そして──とうとう番頭の座まで上り詰めた。
番頭の座を己が物とするにあたっては、たった一つの座を奪い合う存在がいた。その者は真面目で堅実な善の心根を持つ男だったが、悪意に疎く脆い一面もあった。濡れ衣を着せるのは容易かった。そして、帳面の不正を仕組み、主人の前でそれを暴いてみせた。男は番頭の候補から外されたが、最後まで口煩く濡れ衣だと弁明していた──だから、共に江戸に逃げてきた部下たちに拉致させ、自死を装わせた。
そうして宗右衛門は番頭となり、店の実務を一手に握るに至った。
主人の喜兵衛は宗右衛門を信頼した。真面目に働き、店のことを誰よりも知っている。宗右衛門の言うことは正しく、金に対する嗅覚も鋭い──喜兵衛は何の疑いも抱かなかった。
十数年という歳月は流石に長かった。だが、その甲斐は確かにあった。
宗右衛門は帳面から顔を上げた。
帳場から店内を見やる。手代たちが忙しく働き、丁稚たちが走り回っている。良い光景だ──。この店の全てがもうすぐ自分のものになる。
──あと少しだ。
宗右衛門は、そう思った。
§
喜兵衛を殺したあの夜のことは、今でも鮮明に覚えている。
夏の盛り、蒸し暑い夜だった。喜兵衛は帳簿の細工に気づき始めていた。宗右衛門が少しずつ帳面を操作し、店の金を抜いていたことに。まだ確証はないようだったが、喜兵衛は何かがおかしいと感じているようだった。帳面を何度も捲り、しかし整合性が取れていることに首を傾げる──そんな姿を宗右衛門は目にしていた。
不審がられている──。このままでは、いずれ近い内に露見するだろう。
──決断は早い方がいい。
宗右衛門は以前から考えていた策を決行することにした。
策とは喜兵衛の寝酒への細工。喜兵衛は元来眠りが浅いことが多く、毎晩、直し──味醂に焼酎を加えた甘い酒を飲んでから床に就く。寝酒を運ぶのは女中だったが、酒蔵の鍵を預かっているのは宗右衛門であり細工は容易かった。
──宗右衛門は焼酎にあるものを混ぜた。
とある筋から手に入れた阿芙蓉──生阿片。鎮痛、下痢止め、鎮咳によく効く万能薬という触れ込みで購入した代物。曰く、強い酒に混ぜれば容易く溶け、摂取すれば眠りを深くする効果も得られる。それは、どんな物音がしても目を覚まさぬほどの、深い深い眠りに──と。
焼酎に細工したその日の夜、女中が喜兵衛の部屋に焼酎と味醂とを運んだ。
「旦那様、お休み前の寝酒をお持ちしました」
「おお、すまぬな。そこに置いておくれ」
喜兵衛は何の疑いもなく、女中が持ってきた酒を受けとった。
「今日も暑うございましたね。明日も暑くなるようでございます」
「まったくだ。この暑さでは、これを飲まんと眠れんわ」
「どうぞ、ごゆっくりお休みくださいませ」
「うむ。お前も早く休めよ」
女中が下がると、喜兵衛は直しを自身の好みに合わせて自ら作り、一息に飲み干した。
──宗右衛門は待った。
丑三つ時近くになり、足音を殺して喜兵衛の部屋に近づく。開け放たれた戸、敷居の前に膝を突き、蚊帳の中で眠る喜兵衛に声を掛ける。
「旦那様」
低く呼びかける。返事はない。
「旦那様、宗右衛門でございます。少々帳面のことで、お伺いしたき儀が」
少し声を張ってみても、何の反応もなかった。耳を澄ませば、ゆっくりとした寝息が聞こえる。敷居を跨ぎ、部屋の中に入る。喜兵衛は深く寝入ったまま、身じろぎひとつしない。
──効いている。
喜兵衛は自身がどうなるのかも知らず蚊帳の中で眠っていた。いや、眠っているというよりは、昏睡に近いのだろう。阿芙蓉の効果で呼吸中枢が抑制されているせいだ。どんな物音がしても目を覚まさない。宗右衛門が蚊帳のすぐ傍まで近づいても、気づくことがない──。
懐から小さな包みを取り出す。
曼陀羅華──朝鮮朝顔の種を乾燥させ、粉末にしたものだ。気違い茄子の異名を持ち、幻覚や精神を錯乱させる他、麻酔作用もある。蚊遣りに混ぜて燻せば毒煙となり、吸った者の呼吸は止まる──。阿芙蓉と会わせれば、深い眠りの中で静かに息を引き取り、自然死に見せかけられる。
そう、『聞いて』いた。
蚊帳の傍に置かれていた香炉を手に取った。蚊遣りを焚くための香炉だ。その中に乾燥した杉や蓬の葉と曼陀羅華の粉末を入れる。そして、火を付け香炉を蚊帳の中に入れた。
蚊帳という半分閉じた空間の中で毒煙が上がってゆく──。
しかし、喜兵衛はそれでも起きる様子がない。毒煙を吸い込んでも苦しむ様子もなく、もがく様子もなく、ただただ静かに呼吸が浅くなっていく。
宗右衛門は手拭いを口に当て、やや離れた場所からその様子を見つめていた。
やがて──毒煙が落ち着き、喜兵衛の胸の動きも完全に止まった。
宗右衛門は暫くその場に留まり、香炉を元の位置に戻すと喜兵衛が本当に死んだかを確かめてから部屋を出て行った──。
翌朝、喜兵衛の死体が発見された。
娘のお千代が起こしに行った時、喜兵衛は既に冷たくなっていた。医者が呼ばれ、検僧が来た──だが、誰も事件性を疑わなかった。外傷もなく、苦しんだ様子もない。寝ている最中に死んでいたのだから、中風や卒中──脳出血や脳卒中だろうと診断された。
思惑通り──。喜兵衛の死は病死として処理された。
宗右衛門は葬儀の場で涙を流してみせた。主人を亡くした悲しみに暮れる忠実な番頭。誰もが宗右衛門の悲しみを本物だと信じた。
全ては計画通りだった。




