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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
三章 神田剣鬼影払
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第七十話


 弥平の部屋は、奥から二軒目という話だった。辰蔵が戸口の前に立ち声をかける。


「御免。弥平殿、おられるか」


 返事はない。


「やはり留守のようですね……」


 辰蔵は戸に手をかけた。鍵はかかっていない。裏長屋の戸に鍵などという洒落たものはない。軽く押すと、軋んだ音を立てて戸が開いた。


「失礼する」


 中に入ると、むっとした空気が鼻を突いた。


 狭い部屋だ。四畳半ほどの板の間に、小さな土間が続いている。窓は閉め切られ、薄暗い。埃っぽい匂いと、古い墨の匂いが混じり合っている。天井は低く、背の高い者なら頭がつかえそうだ。裏長屋の一室としては、ごく普通の造りだと言える。


 ──部屋の中は散らかり放題だった。


 文机の上には紙が山のように積まれ、書きかけの書状があちこちに置かれている。硯箱は蓋が開いたまま、墨が乾いてこびりついていた。布団は敷きっぱなし、膳の上には食後の椀が残っている。壁際には読本や草紙が乱雑に積み上げられ、その隣には空の徳利が転がっていた。


 片付けるという習慣がないのか、あるいは急に出て行ったのか──生活の跡が、そのまま残されていた。


「随分と散らかっているな……戯作者を目指していたとは思えん」


 中を覗いた神谷が眉を寄せた。


「物書きには往々にして、そのような所があるそうですよ。自分で生活する力がないので飢えてしまったり、真面目に生きることを野暮と考えてみたり……」

「……理解できん」


 辰蔵は散らばった紙を拾い上げた。書き損じの紙だ。代筆の練習だろうか、様々な筆跡で文字が書かれている。商家の手紙、届け出の書類、借用書もある──依頼に応じて、様々な文書を代筆していたのだろう。


 その中の一枚に、辰蔵の目が留まった。


「……これは」


 辰蔵は紙を手に取り、じっと見つめた。


 書かれているのは、ありふれた文章だ。だが、その筆跡には──見覚えがあった。墨の濃淡。筆の運び。文字の癖。あの遺言状の写しと──同じだ。


 辰蔵は別の紙を拾い上げ、見比べた。やはり同じだ。微妙な癖、呼吸の乱れ、筆の運び──辰蔵にはそれがはっきりと見て取れた。


「どうした、長谷川」

「……間違いありません。この男です」


 辰蔵は確信を込めて言った。


「この弥平という代筆屋が偽の遺言状を書いた張本人です」

「確かなのか?」

「はい。筆跡の癖が一致しています。人の筆跡には必ず癖がある。意識しても隠しきれない、呼吸のようなものが──。この男が書いたに違いありません」


 神谷は辰蔵の手元を覗き込んだ。


「どうやって判別しているのやら……」

「一度、書を学んでみれば分かるようになりますよ」


 辰蔵は部屋を見回した。散らかった部屋、空の徳利、積み上げられた草紙。賭博で身を持ち崩し、代筆で糊口を凌ぐ男の暮らし。


「しかし、当の弥平はどこに行ってしまったのでしょうか……」

「半月以上も帰っていないということは、どこかに隠れているのか……はたまた連れ去られ、監禁されているのか……」

「もしそうなら、弥平は危険な状況にある。早く見つけなければ……」


 辰蔵は唇を噛んだ。借金の方に脅され偽の遺言状を書かされた。そういう筋書きが辰蔵の頭に浮かぶ。


 一方、神谷は黙って部屋を見回していた。散らかった部屋、賭博癖、借金──その目には辰蔵とは別の考えが浮かんでいるようだった。


 例えば──この男は本当に被害者なのか、という。


 賭博で借金を抱え、金に困っている男。時として、そういった人間は悪事に誘われやすい。脅されて仕方なく、というより、金のために自ら手を貸したのではないか。そして、分け前を貰って姿を消した──。そんな考えが過っているのだろうか。


 しかし──事実は未だわからない。神谷はただ黙したまま、何も口にすることはなかったのだった。


 §


 長屋を出ると、夕暮れの空が広がっていた。


 茜色の光が、長屋の軒を染めている。路地の向こうから、夕餉の支度をする煙が漂ってくる。どこかで子供が泣き、母親が宥める声が聞こえた。


「これから、屋敷に戻ります──。渡辺殿に報告して、次の手を相談しなければ」

「そうだな」


 神谷は頷いた。それから、ふと思い出したように口を開いた。


「──ところで、長谷川」

「はい」

「渡辺殿という方は、どのような人柄なのだ?」


 辰蔵は少し首を傾げた。


「渡辺殿、ですか……」

「道場で立ち合ったが、大した剣士だ。あれほどの腕を持つ者は日の本広しと言えどもそういるものではないだろうよ」

「やはり、それほどの腕なのですね!あの方の剣は……何というか、底が知れませんから」


 辰蔵の声に、自然と熱が入った。


「並外れた腕だからな。だが、一刀流ではない、独特の流れがあるような気がした。まるで、異なる術理の上に一刀流があるかのような……」

「あぁ──それは鬼切流、というそうですよ」

「ほぅ……鬼切流……聞いたことがないな?」


 神谷は興味深そうに呟いた。


「渡辺家に代々伝わる剣術だとか。一刀流は家伝の剣術だけでは駄目だと、ご父君に言われ道場に通わされたという話を聞きました。確か一刀流は十五ほどで免許皆伝を得たと」

「十五で免許皆伝……それは凄まじいな」


 神谷は顎に手を当てた。


「俺はあまり話したことはないのだが……普段はどのような方なのだ?」

「普段はのんびりしていて、穏やかな方です。でも、いざという時は……」


 辰蔵は言葉を選んだ。


「……怖い方です」

「怖い?」

「はい。普段は優しいのですが、刀を抜くと……何というか、別人のようになられるのです。同心の者達も、渡辺殿の剣を見た時は肝を冷やしたと言っていました」


 神谷は黙って聞いていた。


「この間の山王祭の事件でも、渡辺殿は盗賊を相手に八面六臂のご活躍だったとか。複数の手練れを相手に、傷一つ負わなかったそうです」

「複数の手練れを相手に……それは凄い。時に──長谷川は、渡辺殿が探索をどのようになさるか知っているか?」


 探索──犯人捜査のことを、神谷が何気なく訊ねる。


「え、探索ですか……」

「うむ。聞き込みをしたり、下手人を追ったり。火盗改の与力というのは、どのように動くものなのか。興味があってな」


 辰蔵は少し考えた。


「私はお役目のことは詳しくありませんが……渡辺殿は与力ですから、同心の部下や岡っ引きの者と組んで動くことが多いようですよ。岡っ引きの伝手で下手人の居場所を探り、火盗改の同心たちと一緒に捕縛に向かうと聞いています」

「なるほどな……まだ若いというのに人の差配もそつなく熟すと。時に、これは噂なのだが──渡辺殿は独り言が多いと聞いた。そうして集めた風聞を頭の中でまとめているのか……変わっているな」

「独り言ですか。……確かに誰もいないところで何かと話していたという話を聞くことがありますね」


 辰蔵は苦笑した。


「もっとも、私は直接見たことはありませんが。何でも、渡辺殿は『人の見えぬものが見える』などという噂もありますよ」

「ふむ……人の見えぬもの、か」


 神谷は興味深そうに目を細めた。


「皆にからかわれているのでしょう。それか、大きな事件を解決した手腕へのやっかみです。あれほどの剣士が、そんな狐憑きのような……」


 辰蔵はそんな馬鹿なと笑って首を振った。人ならざるものが見える──そのようなことがあるはずがない。渡辺殿は確かに変わった所があるが、優れた人は時に周囲から理解されにくいものなのだと辰蔵は言った。


「なるほどな……」


 神谷は何かを考えているようだった。やがて、軽く息をついた。


「さて──これでめぼしい代筆屋は巡り終えた訳だがこれからどうするつもりだ?」


 そう問われ、辰蔵は少し考える素振りをした。


「とりあえず渡辺殿に報告しようかと。神谷さん、今日はありがとうございました」

「そうか、それがいい。俺も出来ることがあれば協力する。何かあれば道場に言伝を頼め」

「はい。今日は本当に助かりました」


 辰蔵は深く頭を下げると、神谷は軽く手を振って夕暮れの町へと消えていった。


 ──その背中を見送りながら、辰蔵は握りしめた紙を見つめた。


 弥平という男が偽の遺言状を書いた。だが、弥平は行方知れず。誰かに連れ去られたか、監禁されているか……


 番頭の宗右衛門。あの男が全ての黒幕なのだろうか。


 辰蔵は足を速め、役宅への帰路を急いだ。夕暮れの江戸の町は、一日の終わりを迎えようとしていた。商家は店仕舞いを始め、職人たちが家路を急いでいる。どこからか、夕餉の支度の匂いが漂ってきた。


 ──弥平を見つけなければ。そして、真実を明らかにしなければ。


 お千代の顔が、辰蔵の脳裏に浮かんだ。父を亡くし、偽の遺言状に苦しめられている娘。あの人を救うためにも、この事件の真相を暴かなければならない。


 辰蔵は人波をかき分けながら、屋敷への道を歩き続けた。

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