第六十九話
伊勢屋を訪ねた後のこと──辰蔵は神田の書塾を訪れていた。
書の師匠の前に正座し、辰蔵は事の次第を打ち明けた。辰蔵と同じ師の教え子であるお千代の父君が亡くなり、遺言状が表に出てきたこと。しかし、内容が滅茶苦茶であり偽造ではないか疑っていること。そこで、筆跡を真似ることに長けた代筆屋を探していること。伊勢屋の詳しい事情は伏せたが、師は黙って聞いてくれた。
「──ほう……筆跡を真似る技に長けた者、か」
師は顎髭を撫でながら呟いた。六十を過ぎた老人だが、目は鋭く、書の道に生きてきた者特有の気迫がある。
「心当たりがないではないが……これは厄介な話だぞ」
「存じております」
「筆跡を真似るというのは、いわば人の意思を偽ることだ。まともな技ではない。そういう技を使う者は、表の世にはおらぬ」
師は渋い顔をした。
「だが……私の知る者で、それが可能な技量を持つ者はいる。何人か名を挙げてやろう。ただし、くれぐれも気をつけよ」
辰蔵は師へと深く頭を下げた。
§
書塾を出た辰蔵は、役宅への帰り道を歩きながら、師から聞いた名前を反芻していた。三人の名。いずれも界隈で代筆を生業としている者たちだという。
だが──。
辰蔵の足取りは重かった。
一人で動いてはならない。源一郎との約束が頭の中で繰り返される。火付盗賊改方頭取の嫡男として、自分の身に何かあれば父の立場を危うくする。それは分かっている。分かっているのだが──。
源一郎に相談したい。だが、源一郎はこの数日、役目で忙しく、なかなか捕まらなかった。
ならば父に相談して、同心か岡っ引きを借りるか。だが、そうすれば父にこの件を話さねばならない。お千代のこと、伊勢屋のこと、遺言状の偽造を疑っていること──まだ確証もないうちから父の耳に入れれば、余計な心配をかけることになる。それに、もし見当違いだった場合、火盗改方が商家の内情に首を突っ込んだという話にもなりかねない。
父には話せない。だから人を借りられない。しかし、一人では動けない……そのジレンマが辰蔵の足を重くしていた。
かといって、いつまでも待っていては代筆屋の足取りが遠のく。お千代の苦しむ顔が脳裏に浮かぶたびに、焦りが募ってゆく。
──せめて、話だけでも聞いておきたい。
聞き込みをするだけならば危険はないはず。代筆屋がいるかどうかを確かめ、怪しければ立ち去ればいい。そう自分に言い聞かせながら、辰蔵は歩き続けたのだった。
§
翌日、辰蔵は神田の誠道館を訪れた。
剣の稽古に打ち込めば、少しは気が紛れるかもしれない。そう思ったのだ。だが、竹刀を握っても、どうにも身が入らない。打ち込みの動きには力が入っておらず、足さばきも乱れている。
「長谷川」
稽古の合間、鷹取に声をかけられた。その声には咎めるような響きがあった。
「今日は集中できておらんな。何をぼんやりしている」
「申し訳ありません……」
「剣を握る時は、剣だけを見よ。他のことに気を取られていては、上達どころか怪我をするぞ」
鷹取の言葉は厳しかったが、正論だった。辰蔵は深く頭を下げた。
「肝に銘じます……」
「何か悩みがあるなら、片付けてから来い。中途半端な心持ちで道場に立つな」
「……はい」
辰蔵は再び頭を下げた。鷹取の言葉は正論だったが、この件を鷹取に相談することも憚られた。──稽古を終え、辰蔵が道場の隅で汗を拭いていると不意に声をかけられた。
「長谷川」
振り返ると、大柄な男が立っていた。
神谷伝兵衛──直心影流の遣い手で、今は鷹取の道場に下宿している浪人。師範代が忌引きで不在の間、門下生たちの指導を手伝っている。
「神谷さん」
「どうした、顔色が優れないな。先程の稽古も、らしくなかったようだが。やはり困り事があるのではないのか?」
神谷の声に感じる気遣いの響き。これで二度目──以前にも神谷からは困り事があれば言えと言われていた。
辰蔵は迷った。頼ってもよいものか。この事件のことを、他人に話してよいものか。だが、神谷は道場の仲間だ。面倒見が良く、その人品は悪いものではない。他流派だというのに信頼されている鷹取も認めた人物だ。
ならば、と。辰蔵は一呼吸おいて、意思を決めた──。
「……実は、少し困っていることが」
「ほう。では、外で聞こうか」
二人は道場を出て、近くの茶店に入った。
人目のない奥の席に座り、辰蔵は声を潜めて事の次第を話し始めた。伊勢屋の遺言状のこと。お千代という娘が窮地に立たされていること。偽造の疑いがあること。そして、筆跡を真似ることに長けた代筆屋を探そうとしていること。
神谷は黙って聞いていた。時折、真剣な表情で頷きながら。
「──なるほどな」
辰蔵が話し終えると、神谷は腕を組んだ。
「それで、悩んでいたのか」
「はい。書の師匠から何人か名前を聞きました。ですが……」
「一人で動くなと言われているのだったな」
「……はい」
辰蔵は俯いた。
「渡辺殿とそう約束しています。ですが、当の渡辺殿も役目で忙しく、なかなかお会いできません。父に相談すれば人を借りることもできますが、まだ確証もないうちからこの件を話すわけにもいかず……」
神谷は暫く考え込んでいた。やがて、小さく息をついた。
「──長谷川。よければ、俺が付き添おうか」
「え……」
「困っている者を見捨てるのは性に合わんでな。悩みを抱えていては剣もまともに振れんだろう」
神谷は軽く肩を竦めた。
「一人で動くなと言われているなら、俺がいれば約束は破っていないことになる」
「神谷さん……」
辰蔵の顔に安堵の色が広がった。
「ありがとうございます……!」
「礼は後だ」
神谷は茶を啜った。
「して、その代筆屋というのは、どこにいるのだ」
§
その日のうちに、二人は代筆屋を訪ね歩いた。
師から聞いた名前を頼りに、神田から日本橋、浅草へと足を運んだ。だが、ある者は堅気の仕事しかしていないと言い、ある者は筆跡を真似るような技は持っていないと首を振った。
そうして最後に辿り着いたのが、弥平という男だった。
「ここか……」
辰蔵は長屋の前で足を止めた。
神田の外れ、裏通りから更に路地を入った先にある裏長屋だった。
江戸の長屋には表長屋と裏長屋がある。表長屋は大通りに面し、店舗を兼ねた住居として商いを営む者や、比較的裕福な職人が住む。一方、裏長屋は路地の奥、人目につかぬ場所にひっそりと建てられた貧しい者たちの住処だ。
狭い路地の突き当たりに木戸があり、それをくぐると、両側に長屋が向かい合って建っている。間口九尺、奥行き二間ほどの棟割長屋が軒を連ね、十軒ほどの住居がひしめき合っていた。路地の真ん中には共同の井戸と、少し離れた場所に共同の厠。洗濯物が路地を横切るように干され、井戸端では女たちが洗い物をしている。子供たちの声がどこからか聞こえ、猫が一匹、日向で丸くなっていた。
どこにでもある、庶民の暮らしの風景だった。
「普通の長屋ですね……」
「しかし、こういう場所こそ、訳ありの者が身を隠すには都合が良い」
辰蔵が呟くと、神谷が頷く。二人は井戸端にいた女に声をかけた。
「御免。少しよろしいだろうか」
「へ、へぇ……お侍さま、何でございましょう……?」
女は手を止めて振り返った。四十がらみの、人の良さそうな顔をしている。武家の者が二人も現れたことに、少し緊張した様子だ。
「弥平という者の住まいを探しているのだが」
「弥平さん……?弥平さんの住まいなら、奥から二軒目ですよ」
女は長屋の奥を指した。
「ただ……」
「ただ?」
「もう随分と見てないんですよねえ。半月……いや、もっとかな。ある日ふらっと出て行ったきり、戻って来やしない」
女は首を傾げた。
「また賭場で何かやらかして、借金取りから逃げてるんじゃないかって皆で噂してますよ」
「『また』……そうですか。弥平殿とはどのような方かお聞きしてもよろしいか?」
辰蔵が訊ねると、女は少し考えてから口を開いた。
「まあ、悪い人じゃありませんけどね。頼めば代筆もしてくれるし。でも、どうにもだらしないっていうか……」
「だらしない?」
「へぇ。賭場に入り浸ってるって噂ですよ。借金取りが来ることもあるし、家賃も滞りがちだし。本人は書き物で身を立てようとしてたらしいけど、これが鳴かず飛ばずでねえ」
女は溜息をついた。
曰く、弥平という男は戯作者を目指していたのだという。戯作者──読本や洒落本、滑稽本などを書く作家のことだ。江戸の町人文化が花開く中、戯作者として名を成すことを夢見る者は少なくない。山東京伝や恋川春町のように、一世を風靡する者もいる。だが、大半は日の目を見ることなく筆を折る。弥平もその一人だったらしい。
戯作者としては芽が出ず、憂さ晴らしに賭博に手を出した。今は代筆屋として糊口を凌いでいるが、最近になって姿をあまり見かけることがなくなったという話だった──。
「いつまでも夢ばかり追いかけてばかりで、どうするつもりなんだか……真面目に働くのが一番だってのに。ほんと、しょうもないお人ですよ」
「そうでしたか……ありがとう」
辰蔵が礼を言うと、女は洗い物に戻っていった。辰蔵は神谷と顔を見合わせた。
「半月も帰っていない……」
「とりあえず部屋を見てみるか」
二人は長屋の奥へと進んだ。




