第六十八話
「──最後にもう一つ聞きたい」
源一郎は言った。
「喜兵衛が亡くなった夜のことだ。もし殺しが宗右衛門によるものだとしたら、何か仕掛けがあった筈だ。いつもと違う動きをしていたのを見た者はいないか」
「……見ました」
影女が答え、源一郎がその先を促す。
「夜中に宗右衛門が喜兵衛の部屋に来ていました」
「ほう……奴は何をしに喜兵衛の部屋に来ていたのだ」
「喜兵衛の部屋に足音を殺して忍び込んできて──蚊帳の外にあった香炉を、喜兵衛のいる蚊帳の中に入れていました。香炉に『何か』を加えてから」
香炉に何かを入れた──つまりは燻した『何か』の煙を吸わせることで、殺害したということか。
源一郎は考えを巡らせた──。
未来ではとんと見掛けなくなっていたが──夏の江戸の人々は蚊帳を吊って眠っていた。蚊帳とは麻や木綿、絹で作られた薄い幕のことで、四隅を天井から吊るして寝床を覆い、蚊や虫の侵入を防ぐものだ。蚊帳の中は外界から遮断された空間となり、夏の夜を快適に過ごすことができる。
そして、蚊を追い払うために蚊遣りを焚くこともある。この時代、蚊取り線香の除虫菊はまだ日本に伝わっていない。その前身である蚊遣りとは、蓬や杉の葉などを香炉や火皿で燻し、その煙で蚊を追い払うものだ。普通は蚊帳の外で焚き、煙で蚊を追い払ってから蚊帳に入る。だが──。
蚊帳の中で煙を焚けば、どうなるか。
夏場、江戸の家屋は戸という戸を開け放っている。湿気と熱気を逃がすためだ。そんな中で煙を焚いても、煙は四方に拡散してしまう。しかし──目の細かい蚊帳の中なら話は別だ。通気性のある薄い幕とはいえ、意外と風は遮られ煙の拡散は妨げられる。当然のこと──蚊帳の中で眠っている者は、その煙を吸い続けることになる。
──しかし、そこで一つ疑問が浮かぶ。
「でもおかしかった。喜兵衛は……起きなかった」
「起きなかった?」
「普段なら、ちょっとした物音でも目を覚ます人だった。でも、あの夜は……番頭がすぐ傍まで来ても身じろぎ一つしていなかった。まして、蚊帳の中で煙を焚かれても起きない。まるで──煙に気づかないほどに『深い眠り』に落ちているように」
源一郎の目が鋭くなった。普通であれば、蚊帳の中で煙を焚かれれば息苦しくて目が覚める筈なのに……それはつまり、意図的に喜兵衛を深い眠りに落としていたということだろうか。だが、どうやって──?
「ふむ……あやつは眠りが浅くての」
源一郎が訝しんでいると、硯の付喪神が口を開いた。
「夏場には直しの寝酒をしてから眠るのじゃ」
「直しの寝酒……」
直しとは、味醂に焼酎を加えた甘い酒のことを言う。庶民の間では夏の暑気払いや、寝付きを良くするための寝酒として飲まれている。甘くて飲みやすいが、度数は高い。未来におけるリキュールに似たものだ。
お千代は寝酒のことは言っていなかった。いや、それが普通のことであると、彼女の頭にはあるのだろう。だが、もしも焼酎に『眠りを深くする薬』が混ぜられていたとしたら──。
「喜兵衛は毎晩、直しを飲んでおったのか」
「うむ。夏場は特にな。暑さで眠れんと言うてのぅ。それと、味醂と酒を用意するのは女中じゃが……酒を保管しておる蔵の鍵は番頭である宗右衛門が持っておる筈じゃ」
「宗右衛門が、な……」
源一郎は眉を顰めた。番頭は酒蔵に自由に出入りすることができる。喜兵衛の酒に薬を混入させることは可能だ。
そして、妖怪たちの証言をまとめると、宗右衛門が喜兵衛を殺したことを示している。二段構えの計画──直しに眠り薬を混ぜて深い眠りに落とし、その後、蚊遣りの原料となる草木に毒を混ぜ蚊帳の中で燻す。蚊帳という半分閉じた空間の中で、喜兵衛は毒煙を吸い続け──そして、眠ったまま、何も知らぬうちに息絶えた。
貴重な証言。だが──それも結局は、人の目には見えない妖怪の言葉だ。証拠にはならない。現状、あくまで源一郎が直感が正しいと確信を得ただけに過ぎない。しかし、店の者を取り調べることなく、内情を知ることが出来たのは大きい。宗右衛門はまだ火盗改が動こうとしていることを掴んではいない筈だ──。
「ありがとう、話を聞かせてくれて。そして、お前たちに約束しよう──本物の遺言状をお千代殿へと渡し、必ずや悪事を白日の下にさらすと」
源一郎が言うと三体の妖怪は頷いた。
「源一郎さんの活躍、期待してますよ!」
提灯お化けが大きな口を開けて笑った。カラカラという笑い声が夜の闇に響く。先ほどまでの暗い雰囲気が嘘のように、陽気な声だった。
「お役に立てたのなら良かった。頑張ってくださいね」
影女は一礼した。その影の髪が、風もないのにふわりと揺れる。
「頼むぞ、若いの。喜兵衛の無念を晴らしてやってくれ」
「承知」
硯の付喪神は好々爺のように微笑んでいる。皺だらけの顔に、期待の念が浮かんでいた。
そして、話が終わると、それぞれ塀の向こう──影の中、闇の奥へと消えていき……後には、源一郎一人が残されたのだった。
§
──夜空には丸い月が浮かんでいた。夏の夜風が肌を撫で、草葉の陰から虫の音が聞こえてくる。
源一郎は路地を歩きながら、考えを巡らせていた。
妖怪たちの証言により見えてきた犯行の手法。蚊遣りを利用した毒殺。周到な計画だ──夏場に蚊遣りを焚くのは当たり前のこと。ましてや外傷も苦悶の表情もない。眠るように死んでいたとなるならば、検僧が見ても事件性を疑うことは難しく、殺害を立証することも困難。
そして、宗右衛門は用意していた偽の遺言状を用いて店の乗っ取りを進めた。成り上がり──主人を殺し、その遺産と立場を奪うために。
しかし一方で──宗右衛門にも誤算があったようだ。
宗右衛門は本物の遺言状が存在していることを知らない。喜兵衛が密かに名主の署名を得て、仏壇の須弥壇に隠していたことを。
それが表に出れば、全てが覆る。本物の遺言状──喜兵衛殺しの立証は難しく、言い逃れの道は多くある。ならば、それを餌に動揺を誘い、宗右衛門の裏の顔を引き出すことができないか、そう歩きながら考えていた時だった。
──足元を、何かが横切った。
三毛猫──どこか見覚えのある猫だった。
その姿は普通の猫と何ら変わらない。だが、源一郎の目には微かな違和感が映った。月明かりや源一郎の持つ提灯の灯りに照らされているのに、その猫には影がない。生きている猫ではない──猫の霊?
その猫は源一郎の足元をすり抜けると、足音もなく路地の奥の暗闇へと消えゆく。
源一郎は足を止めた。
思い出す──。猫の霊などさして珍しくもない。しかし、どうしてこんなにも気になるのか……そして、フッと──違和感と記憶とが繋がる。アレは道場で見かけた──神谷の傍にいた猫だと。
神谷の足元にまとわりついていた三毛猫。最初、霊であると気づくことが出来ず、訝しげにされてしまった出来事……その時の猫がここにいる。
路地の奥を見通そうとする。建物の影──亥の刻を過ぎた江戸の夜は月明かりがあっても暗い。一見してその闇の中に人影は見当たらない。だが、誰かが息を潜めている気配がした。それは源一郎の様子を伺っているようで──。
源一郎は暫くその場に立っていた。しかし、潜めた気配は一向に現れない。
──気のせいか。いや、そうではあるまい。あの猫霊が現れたということは、神谷が近くにいるのであろう。
──だが、何故ここに?そして何故、身を隠している。もしや……監視されているのか。菖蒲が言っていた……本所の屋敷の様子を探っているという者が神谷なのか?
源一郎の視線が鋭くなる──。神谷伝兵衛。直心影流の遣い手で、仕官先を探しているという浪人。鷹取の道場に下宿している男。鷹取が言っていたことでもあるが、素性は定かではない。だとするならば、考えられるその正体は恐らく──。
すぐにでも正体を曝きたくなる衝動をグッと堪える。だが、今は深入りするべきではない。まずは、この事件を片付けるのが先だろう。
源一郎は路地裏の闇から踵を返し、再び考えを巡らせながら、夜の江戸を歩いてゆくのだった。
亥の刻は子の刻へ──。蟋蟀の声が一段と高くなっていた。




