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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
一章 深川夜盗捕物
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第五話

 九つを告げる鐘が遠くから響いてきた。


 深夜の時刻だ。人々は寝静まり、町は完全な静寂に包まれている。聞こえる音といえば、時折遠くで猫が鳴く声のみ。湿った夜気が肌に纏わりつき、月明かりが白く地面を照らしていた。


 源一郎は目を凝らして倉を見つめた。熊造も息を潜めて同じように倉を見ている。二人の呼吸が静かに揃う中、源一郎の視線は屋根の上に留まっていた。そこには防犯カメラ代わりの唐傘お化けが潜んでいる。人には見えぬ存在だが、源一郎にははっきりと見えていた。唐傘は静かに開いたまま、じっと何かを待っている。


 そして──。


 屋根の上にいた唐傘が何事かを知らせるためか、バサバサと慌ただしく閉じたり開いたりと合図を始めた。源一郎は小さく頷き、来たか、と内心で呟く。


 ややあって、三つの影が現れた。


 一つ、二つ、三つ。黒い着物を着た人影が、屋根の上をそろりそろりと並んで移動している。月明かりに照らされてその輪郭がぼんやりと浮かび上がる。動きは慎重で、音を立てないよう細心の注意を払っているのが分かる。足の運びも慣れたもので、何度もこの手口を繰り返してきたのだろう。


「来ましたね」


 熊造が小声で言った。その声には緊張と興奮が混ざっていた。


「ああ」


 源一郎は刀の柄に手をかけた。まだ抜くつもりはない。だが、いつでも抜けるように準備する。柄を握る手に力が入る。掌に伝わる刀の重みと冷たさ。それが心を落ち着かせる。


 三人の影は倉の屋根の上で立ち止まり、そして、何か作業を始めていた。恐らく瓦を外しているのだろう。慣れた手つきで音を立てないように、丁寧に瓦を外していく。月明かりの中でその動きが、意外なほどはっきりと見える。職人のような手際の良さだ。何度も同じことを繰り返してきた者特有の、無駄のない動作。


 瓦を外す音がかすかに聞こえる。猫が爪を研ぐような、ガリガリという小さな音。だが夜の静寂の中ではそれでも大きく聞こえる。三人は互いに合図を交わしながら作業を進めているようだ。一人が瓦を外し、もう一人がそれを受け取り、三人目が周囲を警戒する。見事な連携といえる。


 しばらくして三人は屋根の中へと消えた。屋根裏に入ったのだろう。一人ずつ慎重に中へと入っていく。体を縮めて狭い隙間に滑り込む姿が、影絵のように月明かりに映る。最後の一人が消えると、屋根の上には誰もいなくなった。


「入りましたね」

「ああ。だがもう少し待て」


 源一郎は熊造を制した。今捕まえても証拠が不十分だ。盗んだ現場を押さえる必要がある。確実に罪を立証するには反物を持って出てくるところを捕らえなければならない。それが与力としての仕事だ。感情ではなく、証拠で裁く。それが法というものだ。


 それに──源一郎は考えた。下手人たちが倉から出てきたところを捕まえる方が確実だ。屋根の上なら逃げ場も限られる。地上で捕まえようとすれば分散して入り組んだ路地に逃げ込まれる可能性もある。だが、屋根の上なら選択肢は少ない。前世で培った効率を求める思考が自然と働く。


 時間がゆっくりと流れる──。


 源一郎は呼吸を整えながら待った。夜風が頬を撫でる。どこかで犬が遠吠えをした。防音性能など皆無な長屋の方から赤子の泣き声が聞こえ、すぐに母親の優しい声でなだめられる。江戸の夜は決して静かなだけではない。生活の音が、常に何処かで鳴り響いていた。


 そして、屋根の上に再び影が現れた。


 三人だ。大きな包みが背負われている。中身は反物だろう──盗んだ反物を今から運び出すつもりだ。月明かりに照らされたその包みは、かなりの量に見える。一度にこれだけの量を盗み出すとは相当に大胆な連中だ。


「出てきましたね」

「ああ、行くぞ」


 源一郎と熊造は潜んでいた物陰から静かに倉へと近づいた。音を立てないように、影のように素早く移動する。足音を殺し呼吸を整える。石畳を踏む足の裏の感触を確かめながら、一歩一歩、確実に。武家の体術は、こういう時にこそ真価を発揮する。身体の重心を低く保ち、足の裏全体で地面を捉える。音を立てぬ歩法。それは渡辺家に代々伝わる技の一つでもあった。


 下手人たちは屋根の上で瓦を戻している。まだ源一郎たちに気づいていない。静かに、しかし素早く。侵入経路を元通りに戻す作業に集中しているのだろう。三人は互いに小声で何か話している。恐らくは今夜の成功を喜んでいる。だが、その喜びもあと僅かで終わる──


「若旦那……どうやって登りますか」


 熊造が失敗したと、焦りを滲ませた小声で尋ねた。倉の壁は高く足場も少ない。普通に登るのは難しい。梯子もこちら側にはない。


「俺が先に登る。お前は下で待て」

「えっ、しかし──」


 熊造が逡巡する。与力一人を先に行かせるのは部下として心苦しい。だが、源一郎はすでに動き始めていた。


 倉の壁のわずかな凹凸に指先をかける。そして──前世で趣味として嗜んでいたボルダリングの要領で、一気に駆け上がった。


 熊造はギョッと目を見開いた。


 源一郎の動きは人間離れしていた。壁をまるで平地のように駆け上がり、くるり、と身を翻すと、あっという間に軒を越えて屋根の上へと消えていった。その身のこなしは猫のように軽く、音一つ立てていない。瓦一枚すら動かさず、影のように屋根へと躍り出ていった。


「な、何でぃ、今のは……」


 熊造は呆然と呟いた。先代の藤治郎から、源一郎は剣の腕が立つと聞いていた。だがこれは──人の技ではない。それこそ、まるで妖怪のような身軽さだ。熊造の知る武士の中で、あんな動きができる者は一人だっていない。


 熊造は慌てて周囲を見渡すと倉の裏手に回った。そこに梯子が立てかけてある。それを使って屋根に上ることにした。源一郎にはとてもではないが追いつけない。自分にできるのは、若旦那の後を追い、捕縛の手伝いをすることだけだと。


 そして──。


 源一郎が屋根の上に躍り出た瞬間、ようやっと、下手人の一人がその存在に気づいた。


「誰だ!」


 男が叫んだ。吉蔵の声だ。その声には驚きと恐怖が混ざっている。まさか屋根の上に人がいるとは思わなかったのだろう、完全に油断していた。


「火付盗賊改方の者だ。大人しくしろ」


 源一郎は静かに言った。だがその声には有無を言わせぬ圧力がある。月明かりを背に立つ源一郎の姿は、まるで異形のようにすら見えただろう。江戸時代としては高い六尺近い長身が、夜空を背景に黒い影となって立っている。


 三人の男たちは一瞬固まった。月明かりに照らされたその顔には驚愕の表情が浮かんでいる。だが、すぐに我に返り逃げようとした。生存本能が理性を上回る。捕まれば死罪だ、ならば逃げるしかない──!


「まちやがれ!逃げるな!」


 遅れて屋根に上った熊造が叫んだ。


 だが、男たちは慌てたように反物を放り出して屋根を駆け出す。月明かりの下、黒い影が屋根の上を疾走する。瓦が足音を立て、何枚か滑り落ちていく。カラカラ、ガシャンッと乾いた音を立てて地面に落ち、砕けた音が響いた。


 §


 屋根から屋根へ男たちは跳び移っていく。


 深川の町家は密集しているため屋根も繋がっており、跳躍力があれば屋根伝いに逃げることができる。男たちは必死で走った。その背中には恐怖と絶望が滲んでいる。着物の裾が風になびき、髪が乱れる。息が荒く、足取りも乱れ始めていた。


 だが源一郎も負けていない。前世では味わえなかったこの身体能力。武士として鍛え上げられた肉体は屋根の上を軽々と駆け抜ける。渡辺家に伝わる体術。それが今、発揮される──。


 足の運びは正確で、体重移動も完璧。瓦の上を走るというのは非常に難しい。瓦は滑りやすく、足を踏み外せば転落する。だが源一郎の足は、まるで地面を走るかのように確実に瓦を捉えていた。


 月明かりが屋根を照らす。瓦が月光を反射して鈍く銀色に輝く。風が吹き抜け羽織の裾が翻る。髪が風になびく。前世では絶対に体験できなかった感覚。屋根の上を全力疾走するという非日常。これが江戸か、と源一郎は内心で興奮した。不便で、危険で、理不尽で──だが、この時代に確かに生きているという実感がある。


 前を行く三人の影。その一番後ろにいるのは若い手代だろう。動きが他の二人より遅い。体力がないのか、それとも高所のせいで恐怖に足がすくんでいるのか。肩で息をしているのが遠目にも分かる。


 源一郎は速度を上げ、一気に距離を詰めた。渡辺家家伝の体術は伊達ではない。足の運び方、体重の移動──幼い頃から叩き込まれた技が、その身体には染み付いている。


「待て!」


 源一郎の声に若い手代が振り返った。その顔には恐怖が浮かんでいる。若い顔だ。二十にもなっていないだろう。その若さで盗人になってしまったことに、哀れだと源一郎は思った。だが、法は法。情けをかけて見逃すことはできない。


 だから、掴まらないためには逃げるしかない。若い手代は必死で走り続ける。息が切れているのが分かる。肩が上下し足取りがおぼつかない。もう限界が近い。体力が尽きかけていた。


 そんな中──。


 瓦の上で足を滑らせた。


 若い手代が足を取られバランスを崩す。体が大きく傾き、屋根の端に向かって滑っていく。屋根瓦が次々と崩れ、足場が失われる。


「ひぃっ!」


 若い手代が屋根から落ちそうになった。だが、間一髪の所で源一郎が素早く手を伸ばしその腕を掴んだ。若い手代の体が宙に浮く。下を見れば地面まで三間以上ある。落ちれば怪我では済まない。打ち所が悪ければ死んでもおかしくない。


「捕まれ」


 源一郎の力強い声に、若い手代は必死で源一郎の腕に掴まった。その手は震えている。落下の恐怖を味わったのだろう。源一郎は若い手代を引き上げ、屋根の上に戻した。若い手代の体は想像以上に軽い。栄養が足りていないのかもしれない。骨ばった腕が、源一郎の手の中で震えていた。


「大人しくしろ。もう逃げられん」


 若い手代は力なく頷いた。恐怖と安堵が入り混じった表情で源一郎を見上げている。涙が頬を伝っている。まだ子供だと源一郎は思った。この子が盗人になったのには、きっと理由がある。だが、それを聞くのは改方の役宅でだ。


 遅れて熊造が追いついてきた。息を切らせながらも若い手代の腕を掴む。


「こいつは、あっしが」

「頼む」


 源一郎は再び走り出した。吉蔵と清次はまだ逃げている。あの二人が主犯だ。あの二人を捕らえなければ、この事件は終わらない。


 ──熊造は若い手代を縄で縛りながら考えていた。


 若旦那の動き。あれは尋常ではない。六尺ある大男が壁を駆け上がり、屋根をまるで天狗のように軽々と飛び回る。人が、あんなに素早く動けるものなのかと。


 だが、源一郎の父であり、熊造の元上役──藤治郎は言っていた。「源一郎は鬼切りの血を、色濃く引く男だ。常人とはそもそもが違う」と。


 熊造はその意味を今理解した。渡辺家の血。それは人ならざる力を宿しているのかもしれないと。人でない存在が視えているという話も、あるいは本当なのかもしれない。


「とんでもねぇ、お方だ……」


 熊造は呟き──そして源一郎が去った方向を見つめ、若旦那、どうか無事で、と心の中で祈った。


 吉蔵と清次は隣屋の屋根へと跳び移る。だが──その先は行き止まりだ。道を挟んで向こう側の建物までは距離がありすぎる。跳べない──二間以上ある。普通の人間には無理な距離だ。助走をつけても、あの距離は跳べない。


 吉蔵と清次は屋根の端で立ち往生していた。前にも後ろにも行けない。完全に追い詰められていた。二人は顔を見合わせる。その顔には絶望が浮かんでいた。


「──観念しろ」


 源一郎が二人に追いつき静かに言った。


 二人は振り返った。月明かりに照らされてその顔が見える。吉蔵の顔は疲労と絶望に歪んでいる。清次の顔には恐怖が浮かんでいる。二人とも汗びっしょりで息が荒い。着物が汗で体に張り付いている。


「……もう終わりか」


 吉蔵が力なく呟いた。その声には諦めと悔しさが混ざっている。積み上げてきた全てが、今この瞬間に崩れ去る。


「神妙にお縄につけ」


 源一郎は刀の柄に手をかけた。まだ抜いていない。抜く必要もないと思っている。できれば血を流すことなく、この事件を終わらせたかった。


「抵抗すれば斬らねばならん」

「斬れっ……!」


 吉蔵が突然叫んだ。その声は夜空に響く。


「どうせ俺たちは終わりだ!盗人として捕まれば死罪っ! ならばここで斬られた方がましだ!」


 吉蔵が懐から短刀を抜いた。月明かりが刃を照らす。清次も震える手で短刀を握り締めた。二人とも目が据わっている。追い詰められた獣の目には、もう理性など残ってはいなかった。


「くそっ、くそっ!来るな!来れば斬るぞ!」


 吉蔵の目は絶望に満ちている。もう何も失うものがない、そんな目。積み上げた人生の全てを賭博と盗みに費やし、今ここで終わろうとしている。その絶望が源一郎にも伝わってくる。哀れだと思う──だが、それでも役人として法は曲げられない。


 源一郎は溜息をついた。


「面倒なことだな」


 そしてゆっくりと刀を抜いた。


 月明かりが刀身を照らす。刀身が銀色に輝く。渡辺家伝来の刀。髭切の裏打ちだと伝えられている、その刀。その刃は美しく冷たく光り──刀を抜いた瞬間、空気が変わった。源一郎の周囲に、何か異質な気配が満ちる。


 吉蔵が短刀を振り上げて源一郎に向かってきた。必死の形相だ。もはや理性はない。ただこの場から逃れる一心で動いている。最後の抵抗、人間の生存をかけた戦い、死中に活を求める、最後の一撃。


 だが──。


 源一郎の刀が一閃した。


 その一振りは速い。あまりにも速い。吉蔵の目には何が起きたのか分からなかっただろう。剣が光の帯となって空間を切り裂く。渡辺家秘伝、鬼切流の剣技。その片鱗。月明かりに照らされた刀身が、一瞬、鬼火のように青白く輝いたように見えた。


 次の瞬間、吉蔵の短刀が宙を舞った。手から弾き飛ばされ屋根の向こうへと落ちていく。カランカランと乾いた音を立てて地面に落ちる音が聞こえる。


 吉蔵は呆然と自分の手を見た。傷一つない。だが短刀は消えている。痛みもない。ただ武器だけが消えた。何が起きたのか理解できずに、自分の手を何度も見返す。


「ひぃっ」


 その様子を目の当たりにした清次が、悲鳴を上げて短刀を取り落とした。源一郎の威圧と剣技を前に、完全に戦意を喪失したのだ。


「もう一度言う。大人しく縄につけ」


 源一郎の声は静かだが有無を言わさぬ力があった。その声には武士としての威厳と、与力としての権威、そして剣士としての気迫が込められている。刀を構えたまま、月明かりを背にして立つ源一郎の姿は、まるで鬼神のように見えていたことだろう。


 吉蔵は力なく膝をついた。清次も短刀を落として、その場に座り込む。二人とも完全に戦意を喪失していた。肩が落ち、頭が垂れる。全身から力が抜けている。


「……終わりだ」


 吉蔵が呟いた。諦めに満ちた声音。


「ああ、終わりだ」


 源一郎は刀を鞘に収めた。刀身に血は付いていない。人を傷つけることなく武器だけを奪う。それが源一郎の剣だった。血を流すことなく、相手を制する。それが渡辺家に伝わる鬼切流の真髄。


 遠くから熊造の声が聞こえた。若い手代を連れて、こちらに向かってくるのだろう。源一郎は二人を見下ろした。哀れな男たちだと思う。だが、法は法。盗みを行った彼らは裁かれなければならない。それが江戸の治安を守る役目を仰せつかった、火付盗賊改方の職務。


 夜風が吹き抜け、源一郎の髪を揺らした。月が雲に隠れ、一瞬、屋根の上が暗闇に包まれる。そしてまた月が姿を現し、白い光が屋根を照らした。


 長い夜が、ようやく終わろうとしていた。


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