第六十七話
「事件とは──?」
訝しげに源一郎が訊ねると、今度は提灯お化けが答えた。一つ目がぐるりと回り、大きな口がへの字に歪む。
「店の中で、そのもう一人の番頭候補が帳簿を改竄していたという噂が立ったんですよ。原材料を中抜きして横流ししていたとか、値引きを小さく報告して実際には高く売った差額を懐に入れていたとか……それが喜兵衛の耳にも入って、候補から外されたんです」
「謀か……それを宗右衛門がやったと?」
「はい。それに、私、見ました。ある日の夜中──宗右衛門が帳場で隠れて何かしていたのを。いえ、帳簿を開いて何かを書き加えていたのを確かに」
影女が囁くようにして続けた。その声は風に消え入りそうなほど小さかったが、不思議とよく通る。──彼女は壁や障子に映る影。夜、行灯や月の灯りに照らされた時に影として姿を現す。だからこそ、夜中に何が行われていたかを見ていたのだろう。
「ふむ……して、その後、番頭候補はどうなったのだ」
「……その者は、ある日、店から出たきり戻らなくなって──その数日後に川に浮かんでいるのが見つかりました」
影女が静かに言った。
「……話の流れからすると自ら命を絶った、という訳ではあるまいな」
「……本当のところはわかりませんが」
提灯お化けが長い舌をちろちろと動かす。
「──ただ、遺体にゃあ暴行を受けた痕があったとも聞きます。わたしらなんかは物盗りを装った殺しじゃないかと噂していましたね」
「その者は濡れ衣だと喜兵衛に談判して、候補を外れてからも調べておったからのぅ。死体になって見つかるのは、あまりにも出来すぎておろう」
気になる証言だった。濡れ衣を着せられ、番頭候補から外された男。その男が真相を調べている最中に死んだ。偶然にしては、あまりにも都合が良すぎる。
「つまり──宗右衛門が帳簿を細工して濡れ衣を着せた。そして、その男は殺された可能性があると」
「恐らくは、だがのぅ──。あやつは、そういうことを平気でやる人間よ。目的のためなら、手段を選ばん。人の命すら、何とも思うておらんのじゃろう」
「そう思うのは何故だ?」
「それはあの男、表じゃ真面目で気のいい顔をしてますがね──」
提灯お化けが付け加える。大きな一つ目が、じっと源一郎を見つめていた。
「奉公人を叱る時の目が、それはもう恐ろしいんですよ。口元に笑みは浮かんでいる。だけど冷たくて、底が見えねぇ目だ。わたしゃあ、あの目を見る度にぞっとしますよ」
「……あの男の目は人を人として見ていない。まるで、物を見るような目……」
彼らの言葉を源一郎は黙って聞いていた。三体の妖怪の証言が一致している。宗右衛門という男は表の顔と裏の顔を使い分ける油断のならない人物のようだ。
伊勢屋を訪れた時のことを思い出す。番頭の宗右衛門は、表向きは丁寧で礼儀正しかった。だが、その目の奥には何か──冷たいものがあった。
「──もう一つ聞きたい。喜兵衛が亡くなった後、遺言状が出てきた。喜兵衛は遺言状を書いていたのか」
三体の妖怪が再び顔を見合わせた。提灯お化けがカラカラと笑い、影女が黙って頷き、硯の付喪神が口を開いた。
「宗右衛門の出した遺言状は偽物じゃ」
付喪神ははっきりと断言した。その声には確信が籠もっている。
「断言できる理由を聞かせてくれ」
「それは、わしは喜兵衛が書いた本物の遺言状の隠し場所を知っておるからじゃ」
源一郎が目を細める。
「本物の遺言状だと?……それは何処にあるのだ?」
「うむ……お主が義を通すというのであれば教えてもよいが……」
「元よりそのつもりだ。本物の遺言状は然るべき者──娘のお千代殿に渡るように取り図ろう」
「……信じてよいのじゃな」
「無論。天地神明に誓って」
「ならば……お主に喜兵衛の遺言状を託そう。このままでは店が邪な者に乗っ取られてしまう。それに書とは書いた者の意思が宿るもの──その意思の一切が顧みられないのは気分が悪いからのぅ」
「付喪神。して、隠し場所は?」
「そうはやるな──遺言状は仏壇にある須弥壇の中に隠されておる。普段は誰も開けたりせん、隠し収納じゃ。喜兵衛の遊び心じゃの……」
付喪神が言った。
須弥壇とは仏壇の中央にある段のことだ。本尊を安置するための台座であり、仏壇の中でも最も重要な場所とされている。そして、この須弥壇の中には空洞がある。仏具を収めたり、位牌を安置したりするための空間。大切なものを隠すには、うってつけの場所とも言える。
「遺言状には名主の署名がある──それで正式なものと分かるじゃろう」
そして、名主の署名がある──それは大きな意味を持つ。江戸の町人が遺言状を残す場合、町内の名主に署名をもらうことで、その遺言状が正式なものであることを証明する。名主は町の行政を担う存在であり、その署名は公的な効力を持つ。つまり、名主の署名がある遺言状は、奉行所でも有効な証拠として認められるということだ。
「娘に店を継がせると、確かにそう書いてあった。それを時が来るまではと、隠し収納にしまっておったんじゃ。まさか本人も急死するとは思わなかったのであろうがの」
「なるほどな……もしもの時のために残しておいたのか」
「うむ。わしは喜兵衛がそれを書くのを見ておった。あやつはわしで墨を磨り、丁寧に丁寧に書いておったよ。一字一字、心を込めてのぅ」
付喪神の声が優しくなる。硯として、主人の想いを受け止めてきた故の想いなのであろう。
「それを我欲のために偽造するとは……到底許せることではない」
「本物の遺言状があることを、宗右衛門は知らないのか」
「知らんのであろうな。喜兵衛は店の中の誰にも言っておらなんだからの。恐らく──知っておるのは儂と名主だけであろうな」
源一郎は深く頷いた。
これは大きな手がかりだ。仏壇の中に本物の遺言状が隠されている──。それがあれば番頭が持ち出した遺言状が偽物であることを証明できるだろう。しかも名主の署名があるならば、奉行所へと訴え出たとしても正式な証拠と認められる。
つまり──宗右衛門は一気に追い詰められることになる。
「本物の遺言状があるのは朗報だ。……しかし、店の者は番頭の遺言状に何も違和感を持たなかったのか?」
「……皆、分かっていたと思いますよ」
提灯お化けが声を落とした。大きな一つ目が悲しげに瞬いた。
「喜兵衛がそんな遺言を書くはずがないって。娘を可愛がっていたのは誰もが知ってたことです。ですけどねぇ……」
「……皆、黙っていました。番頭の顔色を窺いながら、疑念から目を逸らして。おかしいと思っても口に出せないのですよ。……何をされるか分からないから」
「実務のほとんどを握っている番頭がこれから店の主になろうとしている。今逆らえば追い出される。苛められる。だから……誰も何も言えないんですよ」
「番頭の後継を争った相手が死んだこともあるしのぅ」
硯の付喪神が苦々しげに言った。
「あの男に逆らった者がどうなったか、皆、知っておる。確証はなくとも、結果的に宗右衛門が濡れ衣を着せて死に追いやったのだと皆が感じておろう。優秀なのは確かであろうが……彼奴は容赦のない男じゃとな」
「奉公人たちは内心で宗右衛門を疑っているが、声を上げられないということか……」
「そういうことです。そこに娘のお千代だけが声を上げた。だけど、番頭は『旦那様のご遺志』の一点張り。お千代も店の仕事を全て分かっているとは言えませんからね……店の中での立場はあまり強くない」
源一郎は黙って聞いていた。
店の者たちは皆、遺言状がおかしいと感じている。だが、宗右衛門を恐れて誰も声を上げられない。それに、お千代だけが異を唱えたが、実務を握る番頭に太刀打ちできないでいる──どうにも難儀な話だった。




