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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
三章 神田剣鬼影払
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第六十六話


 亥の刻──およそ夜の十時を過ぎた頃。


 江戸の町は既に寝静まっていた。店という店は格子戸を閉め、行灯の灯りも消え、町木戸も閉じられた後のことである。昼間の賑わいが嘘のように、神田の通りには人っ子一人いない。ただ夏虫の声だけが絶え間なく響き、時折、遠くで野良犬の遠吠えが聞こえるばかりだ。


 夏の夜風が肌を撫で、空には薄雲の向こうに月が浮かんでいる。


 源一郎は神田伊勢屋の近辺を歩いていた。提灯片手に足音を殺し、影を縫うように路地を進む。与力の身分ではあるが、こうして夜中にこっそりと動くのは如何にも怪しい。だが、今夜会おうとしている相手は、昼日中に会いに行ける者たちではない。


 伊勢屋の前を通り過ぎ、そのまま裏手の路地へと入る。


 ──路地の奥まで進むと、古い井戸があった。その傍らに苔むした稲荷を祀った祠がある。朱塗りの鳥居は色褪せ、狛狐の耳は片方が欠けていた。打ち捨てられたような小さな祠だが、こうした場所にこそ、人ならざる者たちは棲みついている。


 源一郎はその祠の前で足を止めた。


「──そこにいるんだろう?」


 小声で呼びかけると、暫く静寂が続いた。


 闘蟋蟀の声が絶え間なく響いている。やがて──祠の影から、小さな光が浮かび上がった。


 ──姥ヶ火である。


 青白い火の玉が、ゆらゆらと宙に漂っている。炎の中に老婆の顔のような模様が浮かんでいた。姥ヶ火は、老女の執念や未練が火の玉となったものだと言われている。だが、目の前のそれは恨みがましい気配など微塵もない。ただ、穏やかに揺れていた。


「おやまぁ……誰かが呼んでいると思って来てみれば」


 姥ヶ火が嬉しそうに揺れた。


「渡辺の坊じゃないかね。こぉんなに大きくなって……」


 源一郎が初めてこの姥ヶ火に出会ったのは、まだ五つか六つの頃だった。本所の屋敷の近くにある古井戸の傍で、青白い光がゆらゆらと揺れているのを見た。怖がるどころか、幼い源一郎は興味深げにその光に近づいていった──それが、この姥ヶ火との出会いだった。


「ついこないだまでは子どもだっただろうに。人は成長するのが早いねぇ」

「久しぶりだな、婆様。変わりないようでなにより」

「わしゃあ火の玉じゃからね。変わりようもないさ。それより若様、すっかり立派な与力様になりなすって。お父上もさぞかしお喜びだろうねぇ」

「どうだろうな。あの世で呆れているかもしれん」


 源一郎は苦笑した。姥ヶ火は源一郎の幼い頃を知っている。源一郎は小賢しいクソガキだったので、父には大層な心労を掛けた──姥ヶ火はその源一郎が大人になったと言っているのだろう。


「ところで婆様、最近このあたりはどうだ。変わりはないか」

「変わりねぇ……と言いたいところだが」


 姥ヶ火が少し沈んだ声になった。


「このところ、ちぃと空気が悪くてねぇ。何やら陰気なもんが漂っておるよ」

「陰気なもの?」

「人の念というのかねぇ。恨みとも違う、何か……じっとりと暗いもんがこの辺りに澱んでおるねぇ」


 源一郎は眉を顰めた。伊勢屋で起きていることと関係しているのだろうか。


「実はな、婆様。少し聞きたいことがあるんだが」

「何だい、何だい。わしに聞きたいこととは」


 姥ヶ火がゆらゆらと揺れた。その青白い光が源一郎の顔を照らす。


「この辺りの蝋燭問屋、伊勢屋なんだが……店主が亡くなったのは知っているか?」

「伊勢屋の店主?ああ、知ってるとも。死んだのは確か半月ほど前だったかね」

「店主の喜兵衛が亡くなった夜のことを知りたいのだ」


 姥ヶ火は老婆の顔を蹙め、暫く考え込むように揺れていた。


「わしは見ておらんね……こうしてふらふらと漂うておるだけじゃし、店の中のことまでは分からんのさ」

「そうか……」

「──ああ、そうだそうだ」


 姥ヶ火が思い出したように声を上げた。


「あの店には古い硯の付喪神がおるよ。先々代の頃から使われておる硯でね。陸奥国で作られて、元は何処かの大名の元にいたらしいんだが……彼奴なら何か知っておるかもしれん」


 付喪神──長く使われた器物には魂が宿るという。百年を超えて大切にされた道具は、やがて意思を持つようになる。そうした存在を付喪神と呼ぶ。硯のような文房具は、特に付喪神になりやすいと言われている。文字を書くという行為には人の念が籠もりやすいからだ。


「硯の付喪神か」

「うむ。それに店先には古い提灯に憑いた妖がおるし、奥座敷には影女もおるよ」


 提灯お化け──古い提灯が変じた妖怪だ。破れた提灯に大きな一つ目と長い舌が生え、カラカラと笑いながら宙を漂う。見た目こそおどろおどろしいが、人を脅かす程度で害することは滅多にない。


 そして影女──これは壁や障子に映る女の影である。実体を持たず、ただ影だけが動く。月の光や行灯の灯りに照らされた時だけ、その姿を現す。主に古い屋敷や店に棲みつき、家の中で起きることを静かに見守っているという。


 源一郎は目を細めた。


「その者たちに会いたい。だが俺は勝手に店に入るわけにはいかんのだ……何とか会えるように取り計らってもらえないか?」

「ふむ……それなら、わしが声をかけてやろうかね。店の裏に来るように伝えてやるよ」

「助かるよ、婆様。礼に今度良い油を持ってくるから」


 姥ヶ火は油を好む。菜種油や魚油を供えると喜ぶのだ。これは源一郎が幼い頃から知っていることだった。


「ほほほ、坊はよく分かっておいでだ。なに、この婆に任せておきな」


 そう言って姥ヶ火は身を蛍火のように小さくすると、ゆらゆらと揺れながら伊勢屋の方へと漂って行くのだった。その青白い光が路地の闇に溶けていく。やがて、完全に見えなくなった。


 §


 ──暫くして、源一郎は伊勢屋の裏手へと回った。


 店は既に閉まっている。格子戸は固く閉じられ、行灯の灯りも消えていた。奉公人たちは寝所に引き上げた頃合いだろう。塀の向こうからは人の気配も感じられない。ただ、虫の声だけが夜の静寂を満たしている。


 源一郎が塀の傍で待っていると──


 三つの影が塀の上や隙間から現れた。


 一つは、古びた提灯に大きな目と口が現れた姿。


 提灯お化けだ。破れかけた和紙の提灯から、ぎょろりとした一つ目がこちらを見つめている。口はにんまりと裂け、長い舌がだらりと垂れ下がっていた。江戸の民からすれば恐ろしげなのだろうが、源一郎には可笑しげに見える。


「やぁやぁ、お客さんかい」


 提灯お化けが陽気な声を上げた。カラカラと笑いながら、宙をふわふわと漂っている。


 一つは、女の姿をした黒い影。


 影女だ。顔も手足も影で出来ており、輪郭だけがぼんやりと人の形を成している。長い髪だけが風もないのに揺れていた。月明かりに照らされて、塀の上にその影が伸びている。実体はない。ただ影だけが、そこにいる。


「……あなたが、呼んだの?」


 影女が囁いた。その声は風が木の葉を擦る音のように掠れている。


 そして最後の一つは小さな老人のような姿。


 一見、身ぎれいな少し裕福な老人のように見えるが、全身からは墨の匂いが漂っていた。──この老人が硯の付喪神だろう。


「って、姥ヶ火の婆様から言われて来てみれば、菖蒲のとこの源一郎さんかぁ」


 提灯お化けが言った。その大きな一つ目がぐるりと動いて源一郎を見る。


「……渡辺の綱の末裔の……?それで、そんなお人が私たちに何を聞きたいのですか……?」


 影女が囁いた。その声は耳元で囁かれているようで、どこか遠くから聞こえてくるようでもあった。


 残る硯の付喪神は──ただ静かに佇んでいた。老人のような顔に刻まれた皺が長い年月を物語っている。


 源一郎は三体の妖怪を見回した。提灯お化けにしろ、影女にしろ、付喪神にしろ──どれも人を害する妖怪ではない。ただ、長い時を経て、人の営みの傍で生きてきた者たちだ。彼らは店の中で起きることを見守ってきた証人でもある。


 これだけ揃えば何かしらの情報を得られそうだった。


「ありがとう、集まってくれて。早速だが、伊勢屋の番頭、宗右衛門という男のことについて聞きたいのだが──」


 その名を聞いた途端、三体の妖怪の空気が変わった。


「宗右衛門ねぇ……」


 提灯お化けの一つ目がぎょろりと動いた。先ほどまでの陽気さが消え、どこか嫌煙するような色が浮かんでいる。


「あやつか」


 硯の付喪神の声にも苦みが混じる。皺だらけの顔が、さらに険しくなったように見えた。源一郎は眉を上げた。三体とも宗右衛門に対しては良い感情を持っていないらしい。


「何か知っているようだな。教えてはくれないか」

「えぇ……いいですよぉ。あの男は世間じゃ真面目で有能な番頭面してますがね──」


 提灯お化けが声を潜めた。長い舌をちろちろと動かしながら、辺りを窺うような仕草をする。妖怪だというのに人間臭い仕草だ。


「──七、八年ほど前のことですかね。その時分、宗右衛門はまだ手代でした。番頭が年で引退するってことで、奴は次の座を狙っておったんですよ。ねぇ?」

「うむ……当時は宗右衛門の他に、番頭になれそうな者がもう一人おってな」


 硯の付喪神がそれに付け加える。


「そのもう一人は仕事もできて、宗右衛門よりも長く店に勤めた喜兵衛の覚えもめでたい男じゃった。このままでは番頭の座が取られると、内心、宗右衛門は焦っておったのじゃろうな……ある時、店で番頭の跡目をめぐって事件が起こったのじゃ──」

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