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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
三章 神田剣鬼影払
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第六十五話


 門前に掲げられた火付盗賊改の木札──麻布にある役宅が夏の朝陽を浴びて静かに佇んでいる。詰所には既に同心たちが出仕しており、書類を捌く者、報告を取りまとめる者の姿が見える。源一郎は彼らに挨拶をしながら屋敷奥の書院へと向かった。


 廊下を歩みながら、源一郎は昨日の出来事を反芻していた。


 ──昨日、辰蔵から受けた相談のこと。神田の蝋燭問屋『伊勢屋』の主人が急死し、遺言状に疑惑があるという話。今後、火盗改の管轄になるかどうかは分からないが、辰蔵が動くことを決めた以上、その父君である平蔵の耳には入れておくべきだろうと判断したためだ。


 障子戸の開け放たれた書院の手前で足を止め、廊下側から中にいるであろう平蔵に声をかけた。


「渡辺です」

「入れ」


 書院の中を覗くと平蔵は文机に向かって書類に目を通していた。源一郎の姿を認めると、筆を置いて顔を上げる。厳しい顔つきの中に、どこか疲れの色が見えるのは気のせいだろうか。火盗改の長として、日々多くの案件を抱えているのだ──それも当然であろうが。


 源一郎は敷居を跨ぐと平蔵の前に座した。


「いかがした。何か問題か?」

「いえ、少々お耳に入れたき儀がございまして」

「ほう?何だ」

「昨日、ご子息の辰蔵殿から相談を受けたことについてです」


 その言葉に平蔵の眉が僅かに動く。


「……辰蔵から?」

「はい」


 源一郎は頷き、事の経緯を話した。


 辰蔵の幼馴染であるお千代という娘が道場を訪ねてきたこと。神田の蝋燭問屋『伊勢屋』の主人喜兵衛が急死し、事前に喜兵衛から渡されていたという遺言状を番頭が出してきたこと。その遺言状の内容と普段の喜兵衛の言動との差に違和感を覚えたお千代が、書に通じる辰蔵に真贋の見極めを頼んだこと。


「辰蔵殿は二つの書──お千代殿への手紙と、持ち出した遺言状を見比べて遺言状が偽造であると判断したようです」

「……ふむ。辰蔵がなぁ」


 平蔵は静かに頷いた。その表情は泰然としているが、目の奥には伺い知れない何かがある。


「私見になりますが、辰蔵殿の目は確かなものでした。字の形だけでなく、筆の運び、墨の濃淡、書く者の呼吸まで読み取っております。あれほどの鑑識眼を持つ者はそうはいないかと」


 これは世辞ではない。辰蔵の書への造詣は、源一郎の想像を超えていた。剣の才には恵まれなかったかもしれないが、別の道で光るものを持っていた。


「今回の一件、私は──辰蔵殿の鑑識眼を信じてみようかと思っています」

「……」


 平蔵は何も言わなかった。だが、その沈黙には何か意味があるように感じられた。


 源一郎はさらに続けた。焼香を装い、辰蔵と二人で伊勢屋の様子を見に行ったこと。店の空気、番頭の様子、使用人たちの表情──観察したことを簡潔に報告する。


 平蔵は源一郎の話を聞いても、しばらく黙っていた──。庭から風が吹き込み、書院の中を通り抜けていく。蝉の声が遠くに聞こえる。静かな時間が流れ──やがて、平蔵く深く息を吐いた。


「──そうか……あやつは俺には何も言わなんだ」


 その声には父親の悲哀──微かな寂しさが滲んでいた。


「辰蔵め……急に伊勢屋に焼香に行くのだと言い出してな。何かを抱えている様子はすぐに見て取れたが……気になって事情を聞いても『何でもない』と言うばかり。父には話せんことでもあるのかと思っておったが……」


 平蔵は苦笑した。


「お前もグルであったか」

「恐れながら……」


 揶揄うような響きの言葉に源一郎も苦笑しつつ、言葉を選びながら言った。


「辰蔵殿は父上に認められたいのではないでしょうか」

「ほう……俺に認められたいとな」

「剣においては、父御である頭取の足元にも及ばぬと辰蔵殿は分かっておられます。ならばこそ、自分の力で何かを成し遂げたいのではないかと。未熟なまま父に頼るのではなく、己の力量で事を成してから報告したいのではないかと」


 平蔵は源一郎の言葉を聞きながら、どこか遠くを見るような目をする。


「……そうか」

「申し訳ありません。お家の事情。出過ぎたことを申しました」

「いや」


 平蔵は首を振った。その口元には微かな笑みが浮かんでいる。


「思えば、俺も……若い頃はそうだったか」

「は……頭取も、ですか」

「ああ」


 平蔵は腕を組み、懐かしむように目を細めた。


「──俺は、妾の子でな。長谷川家の男子は俺だけだったが……何をやっても認めてもらえんと思っておった。だから親父の前ではいつも肩に力が入った。褒めて欲しい、認められたい……素直にそう言えればよかったのだろうが、言えんのだ。武家とは、男というのは面倒な生き物よ」


 静かな声音。遠い昔の記憶を掘り返しているような、どこか懐かしげな響き。


「昔の俺と同じことを、あやつもしておるのかもしれん」

「……」

「血を分けた息子に認める認めないなどない──ただ少しでも高い壁でありたいと願うのは父親の業か、悲しき性なのであろうな──。俺もあやつの前では、つい肩肘が張ってしまう。父子の関係とは、かくも難しいものよ」


 平蔵は深く息を吐いた。


 それは溜息というよりも、長年胸に溜め込んでいた何かを吐き出すような──そんな息。火盗改の長として、常に威厳を保たねばならない男が、一瞬だけ見せた親の顔──。


 やがて、平蔵は表情を改めて源一郎を見た。


「──相分かった。俺は見守るとしよう」

「頭取」

「あやつが自分の力で何かを成し遂げようとしているなら、口を出すのは野暮というものだ。父親には見守ることしか出来ぬ時もあるのだろう」


 平蔵の目が真剣になった。その声は静かだったが、どこか吹っ切れたような響きがある。長年、心のどこかで引っかかっていた糸が、ふっと解けたような──そんな印象。


「──だがな、源一郎。すまんが、何かあれば力を貸してやってくれ。あやつはまだ若く経験も浅い。一人で抱え込んで、取り返しのつかんことになってしまっては困る。お前ならば歳も近い。話もしやすかろう」

「は、承知いたしました」


 平蔵が視線を切って目礼し──源一郎は願いを受け取るとそれよりも深く頭を下げた。それは上役への敬意であると同時に、一人の親の願いを確かに受け止めたという誓いでもあった。


 書院の中に、しばし静寂が流れた。庭の木々が風に揺れ、葉擦れの音が微かに聞こえる。蝉の声だけが、変わらず夏の空気を震わせていた。


「──それで、伊勢屋の件だが」


 咳払いをした平蔵が話題を切り替え、源一郎が頭を上げる。平蔵の表情は、もう先ほどまでの憂いを滲ませるものではなかった。火盗改の頭取として、事件に向き合う鋭い目だ。


「主人が急死したと言ったな。どのような死に様だったのだ」

「前日まで元気だったそうですが、朝になると布団の中で冷たくなっていたと。眠るように亡くなっており、苦しんだ様子もなかったとのことです。遺体に不審な外傷がなかったのは葬儀前に寺社の検僧が確認しております」

「ふむ……眠るように、か。しかし──」


 平蔵の目が鋭くなる。先の山王祭にかかわる事件の一端で、故意か過失か──阿芙蓉を原料とした痛み止めが自白剤や毒として悪用されたことは平蔵も知っている。


「はい。どうにも……死に方が先の事件を思い起こさせます」

「……うむ。しかし、頓死など珍しくもないのも事実。それとも何か、他に殺しの証拠はあるのか?」

「ありません」


 源一郎は正直に答えた。


「遺体は既に土葬され、部屋も片付けられています。現状では何も手がかりがない状態です」

「ならば、何とも言えんな……それにだ、この一件、町人地での出来事であろう。仮に殺しであったとしても単独犯では火盗改はお役御免であるぞ」


 平蔵の言葉は正論だった。火付盗賊改方の管轄は火付け、盗賊、博打の取り締まりである。町人同士の単純な殺人であれば火盗改の出る幕では無い。


「はい──承知しております。しかし、現状、遺言状の偽造が真実だとすると、『何者か』が店を乗っ取ろうとしていることは確か。少なくとも単独で出来る謀ではありません」


 源一郎の目に力が込もる。


「──背後に盗賊の影は見えそうか」

「それも今のところは何とも。ただ、店に様子見に行った際に番頭の目を見ましたが──堅気ではないかと」

「ふむ……」


 平蔵はしばらく黙っていた。


 文机の上に置かれた書類にちらりと視線を落とす。日々、多くの案件が持ち込まれる火盗改として、どこまで関わるべきか──その判断を下そうとしているのだろう。やがて、平蔵はゆっくりと頷いた。


「何か分かったら、報告しろ。盗賊が絡んでいるようなら、火盗改として動く必要も出てくるやもしれん」

「は、承知いたしました」


 源一郎は頭を下げ、書院を後にしたのだった。



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