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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
三章 神田剣鬼影払
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第六十四話


 ──日が落ち、深川の夜が始まろうとしていた。


 大川を渡り、永代橋を越えれば、そこはもう深川だ。掘割沿いには船が並び、提灯の灯りが水面に揺れている。木場からは材木を運ぶ筏が戻り、岸では一日の仕事を終えた職人たちが汗を拭いていた。


 深川は「粋」と「いなせ」の町だ。岡場所や富岡八幡宮の門前町として栄え、漁師や職人、そして粋で勝気な、芸は売っても身体は売らない──辰巳芸者たちが集う。日が暮れれば、仕事を終えた男たちが一杯やろうと居酒屋に繰り出し、三味線の音がどこからか聞こえてくる。


 源一郎は掘割に沿って歩き、柳の木の向かいに店を構える居酒屋の前で足を止めた。


 ──「辰巳屋」。


 煤けた紺色の暖簾に、太い筆文字で「酒肴」とだけ書かれている。中からは威勢のいい笑い声と、醤油と出汁の香ばしい匂いが漂ってきた。


 源一郎は暖簾をくぐった。


 店内は土間に頑丈な長机と床几が並び、奥の調理場──土釜からは湯気が上がっている。客は船頭や職人が多く、中には非番であろう男物の羽織を引っ掛けた辰巳芸者の姿もあった。皆、冷やを傾けながら、賑やかに喋っている。


「おや、渡辺様。珍しいお客が来たね」


 奥から声がした。三十路を少し過ぎた、キリッとした美人の女が現れる。お銀──この店の女主人だ。元辰巳芸者であり、酔客のくだらない絡みは「野暮なこと言いなさんな」と一喝して黙らせる度胸の持ち主である。


「女将、熊造はいるか」

「奥にいるよ。今日は珍しく静かに飲んでるけど」


 お銀は奥の席を顎でしゃくった。


「何か頼んどくれよ」

「深川煮を一つ。それと、冷やを」

「あいよ」


 お銀は注文を受けると奥へと戻っていった。


 源一郎は店の奥へと進んだ。隅の席に、見覚えのある男が背を丸めて座っていた。


 ──熊造だ。


 四十前後の、がっしりした体躯の男。顔には古傷があり、目つきは鋭い。元は博徒だったが、源一郎の父──藤治郎の代から素十手を預けられ、火盗改の岡っ引きとして働いている人物。


 その実態は──深川の船宿「熊屋」の親方。川沿いの船宿はあらゆる人間が出入りする情報の要所。船頭たちを束ね、深川の顔役として街の揉め事を仲介する──そんな男だからこそ、江戸の裏社会にも表社会にも顔が広い。


「こりゃあ、若旦那。こんな所に来るとは珍しい」


 熊造は源一郎の姿を認めると、立ち上がろうとした。だが、源一郎は手で制し、熊造の向かいに腰を下ろした。


「ここなら人目を気にせず話せるな。少し頼みたいことがあってな」

「頼みたいことですかい」


 熊造の目が鋭くなった。仕事の話だと察したのだろう。


「何でござんしょう」


 お銀が深川煮と冷やを運んできた。ぷりぷりのバカ貝を味噌でさっと煮立てた、深川名物の一品だ。源一郎は礼を言って受け取り、お銀が去るのを待ってから口を開いた。


「神田の蝋燭問屋『伊勢屋』を知っているか」

「伊勢屋……ああ、聞いたことがありやす。神田じゃ名の知れた大店で」

「その主人、喜兵衛が半月ほど前に急死した」

「へえ……」


 熊造は眉を寄せた。


「急死ってぇと」

「前日まで元気だったのに、朝になったら布団の中で冷たくなっていたそうだ。眠るように、穏やかな顔で」

「そいつだけ聞くと大往生ってやつに思えますが……」


 熊造は怪訝そうに眉根を寄せた。


「──ですが、若旦那。それが何か臭うってんでしょう?」

「喜兵衛が死に、いつまでも店を閉めていられないと忌み明けを待たずに店を開けた夜、伊勢屋の番頭が遺言状を持ってきた。『店は番頭に譲る』という内容のな──それに加えて、その遺言状には保証人として喜兵衛の親類の押印が添えられていたという」

「番頭に店を……?その喜兵衛何某には跡取りがいなかったんで?」

「一人娘がいる。だが、遺言状には娘には縁談を探し嫁がせるとも書かれていた」


 熊造は顔をしかめた。婿を迎えるでもなく、嫁がせる。それはまるで──厄介払いするかのようにも見える。


「そいつは……いくら何でも不自然ですなァ。しかし、遺言状に保証人が付いてるとなりゃ、ひっくり返すのは面倒でしょうな」

「実際そうだろうな。しかし、娘が違和感を抱き、その遺言状について相談したのだ。相手は書家もかくやという字の先生でな、偽造の可能性が高いとのことだ」

「ははぁ……」


 熊造は低く唸った。


「つまり、番頭が主人を殺して、店を乗っ取ろうとしてるってことですかい。ご丁寧に遺言状の保証人までつけて」

「断定は出来ん。だが、その可能性はある」


 源一郎は冷やを一口含んだ。喉を通る酒が心地よい。


「そこで、頼みがある」

「へぇ、何なりと」

「番頭の宗右衛門という男の素性を調べてほしい。伊勢屋に勤めて長いらしいが、その前のことは分からん。どこの生まれで、どういう経緯で伊勢屋に来たのか。そして──」


 源一郎は声を落とした。


「──最近、怪しい連中との付き合いがないか。金回りが良くなっていないか。そういったことを探ってくれ」

「へい、承知しやした」


 熊造は頷いた。


「それと、もう一つ」


 源一郎は続けた。


「喜兵衛が死ぬ前に、何か揉め事を抱えていなかったかも調べてほしい。取引先との諍い、借金、恨みを買うようなこと──何でもいい。伊勢屋の周辺で、何か噂が立っていないか」

「分かりやした。神田の方にも知り合いがおりやすから、当たってみやしょう」


 熊造は請け負った。それから少し考えるような顔をした。


「若旦那、あっしからも一つ聞いてもいいですかい」

「何だ」

「殺しを疑うにゃあ……眠るように死んだってぇのが少し引っかかるんですが。何か、心当たりでも?」


 源一郎は黙って熊造を見た。熊造の勘は鋭い。毒殺を疑いつつ、源一郎の様子に何かを感じ取っているのだろう。


「……心当たりがないわけではない。だが、今の段階では何とも言えん」


 源一郎はそう言った。阿芙蓉のことはおいそれと話せない。あれは富士講の一件にも繋がっている。寺社奉行方の吟味物調役、堀田からも気をつけるように言われた案件だ。


 それに──毒殺とするならば、方法は他にも考えられる。まだ阿芙蓉が絡んでいると決まった訳でもない。


「まずは番頭の素性と、喜兵衛の周辺を洗ってくれ。それで何か見えてくるかもしれん」

「へい。任せておくんなせい」


 熊造は力強く頷いた。


 源一郎は深川煮に箸をつけた。バカ貝の旨味が口の中に広がる。味噌の塩気と貝の甘みが絶妙に絡み合い、酒が進む味だった。


「若旦那、もう一つ聞いてもいいですかい」

「何だ」

「この一件、火盗改として動くんですかい?町人地の揉め事となると、本来は奉行所の管轄でしょうに」


 熊造が訊ねた。さすがに、そのあたりの機微は心得ているようだった。


「──その通りだ。今はまだ、火盗改としては動けん」


 源一郎ははっきりと答えた。


「遺言状の偽造だけなら奉行所の仕事だ。だが、番頭が精巧な偽造書を作れるとも思えん。背後に誰かがいる可能性がある。もしその背後に盗賊の影が見えれば……話は別になる」

「なるほど……つまり、背後にいるだろう何者かの尻尾を掴めば、火盗改として堂々と乗り出せるかもしれんってわけで」

「そういうことだ」


 源一郎は冷やを飲み干した。


「急ぎではないが、出来るだけ早く頼む。相手に動きを悟られる前に尻尾を掴みたい」

「へい。二、三日もありゃ何か掴んでみせやすよ」

「任せたぞ」


 熊造は自信ありげに言った。


§


 ──源一郎が話を切り上げ立ち上がろうとした時、熊造が手を挙げて制した。


「まあまあ、若旦那。そう急ぎなさんで」


 熊造は徳利を持ち上げ、源一郎の猪口に酒を注いだ。


「せっかく来なすったんだ。もう一杯くらい付き合っておくんなせぇ。こういう店じゃ、さっさと帰る方がかえって目立ちやすぜ」


 一理あった。それに今夜はもう動く気にもなれなかった。伊勢屋の一件を始め、お鈴の事情に、勧請の手配……抱えている案件は多い。だが、焦って動いても碌なことにはならないと分かっていた。そのまま源一郎は腰を下ろし直す。


「……そうだな。今夜は付き合おうか」


 熊造は嬉しそうに目を細めた。古傷のある顔が、酒のせいかほんのり赤らんでいる。


「そうこなくっちゃ。おい、お銀!冷やをもう一本頼まあ!それと、何か肴を見繕ってくれい!」


 奥から「あいよ」と威勢のいい声が返ってきた。


 程なくして、お銀が徳利と小皿を盆に載せて現れた。小皿には塩を振った焼き蛤と、酢味噌を添えた分葱のぬたが盛られている。深川らしい、素朴だが酒の進む肴だ。


「渡辺様がこの店で腰を据えて飲むなんて、珍しいこともあるもんだねぇ」


 お銀は源一郎の向かいに腰を下ろし、自分の猪口も取り出した。女主人が客と同席するのは、この手の店では珍しくない。気心の知れた客との酒は、女将にとっても息抜きになる。


「何、熊の奴に用事かい」

「ああ、少し頼みごとをな」

「ふぅん」


 お銀は詮索する様子もなく、手酌で冷やを注いだ。猪口を傾ける仕草に、かつて座敷で鳴らした芸者の名残がある。余計なことは聞かない、客の事情には深入りしない──そういう心得が、自然と身についているのだろう。


「この店も繁盛しているようだな」


 源一郎は店内を見回しながら言った。土間の長机には隙間なく客が座り、笑い声と話し声が絶えない。壁際では船頭らしき男たちが肩を組んで何やら歌い、奥の席では職人風の若者が辰巳芸者に酒を注いでいた。深川の夜は、こうして更けていくのだろう──。


「えぇ、おかげさまでね」


 お銀は少し誇らしげに答えた。切れ長の目元に柔らかな笑みが浮かぶ。


「深川煮が評判でさぁ。『ここの貝は旨い』って、あちこちで噂が立ってるもんだからねぇ」

「……そりゃあ、ウチの熊屋の船乗りどもが、アンタんとこを贔屓にしてるからでしょうよ。其処彼処で言いふらしゃあ、噂にもなりますよって」


 熊造が口を挟んだ。お銀は軽く睨みつけた。


「何さ。あんたの子分どもは食い意地が張ってるだけじゃないか。毎晩毎晩、バカ貝を何杯食う気だい」

「へへ、まあまあ……旨いもんは旨いんだから仕方ねぇでしょうが。あっしだって、一応客だぜ?」


 熊造は頭を掻いた。その仕草に、どこか気安さがあった。強面の顔役が、この女の前では形無しだ。


 源一郎は二人のやり取りを眺めながら、猪口を傾けた。冷やが喉を滑り落ち、腹の底がじんわりと温まる。熊造とお銀の間には、単なる常連と女将という以上の空気が流れている。腐れ縁とでも言うべきか──互いを知り尽くした者同士の、遠慮のない物言い。独特の距離感だった。


「渡辺様」


 お銀が源一郎に向き直った。笑みが消え、どこか真剣な眼差しになる。


「先代の旦那様にはよくしていただいたよ。この人がこうして堅気の顔で商いできてるのも、先代のおかげさね」

「……父上のことか」

「ああ。あたしが店を出す時も、口利きしてくださった」


 源一郎は少し驚いた。父、藤治郎がそこまでしていたとは知らなかった。父は寡黙な男で、自分のしたことを息子にも語ることは滅多になかった。


「父上は俺には何も言わなかったな」

「そうなのかい?私らはお世話になったけど。まぁ、親子ってのはそういうもんなのかねぇ」


 お銀は懐かしそうに目を細めた。遠い記憶を辿るように、視線を宙に泳がせる。


「黙って人を助けて、恩に着せない。粋な御仁だった」


 熊造が深く頷いた。


「まったくで。あっしも先代には頭が上がりやせん。博打で身を持ち崩しかけた時、見捨てずに拾ってくだすった。あの恩がなけりゃ、今頃どこぞの川で浮いてたかもしれやせんや」


 熊造が笑い、猪口を呷る。


「だからこそ、若旦那の頼みとあらば何でもやりやすぜ。先代への恩は若旦那に返すと決めてますからねぇ」


 源一郎は黙って酒を飲んだ。父の影は思わぬところに残っている。火盗改与力として江戸の闇に向き合いながら、同時に多くの人間を救っていた。その姿を息子である自分はほとんど知らなかった。


「さて、と」


 お銀が立ち上がりかけた。だが、熊造が「おいおい、どこ行くんでぇ」と引き止めた。


「せっかくだ。もう少し付き合いねぇ。店は女中に任せときゃいいだろうよ」

「何さ、あんたに指図される覚えはないよ」


 お銀は憎まれ口を叩いたが結局は腰を下ろした。熊造が機嫌良さげに徳利を持ち上げ、お銀の猪口に酒を注ぐ。お銀はそれを黙って受け取り、一口含む。その仕草を見ながら源一郎が口を開いた。


「二人は長いのか」


 何気なく訊ねた言葉に、熊造が一瞬きまり悪そうな顔をした。お銀は相も変わらず涼しい顔で猪口を傾けている。


「へえ、まあ……腐れ縁ってやつで」

「腐れ縁か」


 熊造は頭を掻きながら答えた。


「昔、あっしが博打でにっちもさっちもいかなくなって、飲んだくれてた頃──この人に随分と叱られやしてね」

「叱られた?」

「ええ。そりゃあもう、凄まじい剣幕でしたぜ」


 熊造は苦笑した。


「『いつまで馬鹿やってんだい、この甲斐性なし。あんたみたいな奴は川に沈んじまいな』──ってね。往来のど真ん中で啖呵を切られやしたよ」


 お銀が鼻を鳴らした。


「当たり前さね。有り金全部すって、借金まで作って。見てらんなかったよ。病のお袋さんだっているってのに、このボンクラはって」

「へへ……面目ねえ」


 熊造は照れくさそうに笑った。強面の顔役が、まるで叱られた子供のように背を丸める。


「で、それで目が覚めたと」

「まあ、半分はそうでさあね。啖呵を切られて、頭から水をぶっかけられたような心地でしたよ」


 熊造は遠い目をした。提灯の灯りが、その横顔を照らしている。


「残りの半分は──まぁ、色々あったんでさぁ」


 熊造は言葉を濁した。ちらりとお銀の方を見る。お銀は素知らぬ顔で酒を飲んでいた。だが、その耳がかすかに赤くなっているように、源一郎には見えた。


 それ以上は訊かなかった。何があったのか……それを聞き出すのは野暮というものだ。


 ──三人は暫く、黙って酒を酌み交わした。店内の喧騒が、心地よい波のように響いている。時折、お銀が立って客の相手をし、戻ってきてはまた猪口を傾ける。熊造は機嫌よく焼き蛤をつまみ、源一郎は静かに冷やを味わった。


 仕事の話は、もうしなかった。今夜はただ、酒を飲む。それでいい。


「──若旦那」

「何だ」

「若旦那も、そろそろ身を固めたらどうです。二十も半ばでしょう。先代も草葉の陰で心配なさってるんでは」


 熊造がふと、何の気なしに言った。源一郎が苦笑する。


「余計なお世話だ」

「へへ、そいつは失敬いたしやした。若旦那はまだ遊びてぇお年頃と」


 熊造はそう言って笑い、お銀の口元もかすかに綻んでいた──。深川の夜は更けていく。掘割を行き交う舟の灯りが、窓の外で揺れていた。どこかで三味線の音が聞こえ、男と女の笑い声が響いている。


 ──悪くない夜だ。


 源一郎はそう思った。


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