第六十三話
「──では、お千代殿。いずれまた参ります」
「はい、お待ちしております」
お千代に見送られ、二人は座敷を出た。
──店の中を通り抜ける時、源一郎はそれとなく周囲を観察した。
奉公人たちは皆、忙しそうに働いている。客の応対、品物の整理、帳簿の記入──店は喪中とはいえ、商売は止められない。その様子に特に不審な点は見当たらなかった。
帳場の前を通り過ぎる時、番頭の宗右衛門が顔を上げるのが見えた──。その目元は柔和で、しかし真面目な番頭らしい表情を浮かべている。辰蔵が軽く会釈をすると、宗右衛門も丁寧に頭を下げた。
真面目で、有能で、外面も良い──。長年に渡り店を支えてきた男。喜兵衛が信頼を置き番頭としていたのも頷ける。奉公人たちへの指示も的確で、喜兵衛不在とあっても店は滞りなく回っているように見えた。
だが──。
店の入り口に差し掛かった時だった。源一郎は背中に視線を感じた。振り返ることはしなかった。だが、その視線の正体は分かっていた。
店を出る間際、源一郎は何気なく振り返るふりをして帳場の方を見た。宗右衛門が辰蔵の背中を見ていた。
その目は──先ほどの穏やかな目ではない。
光のない、伽藍堂の虚無。観察するような、あるいは警戒するような──人の良い仮面の下に隠された、別の顔。
宗右衛門は源一郎の視線に気づくと、すぐに目を逸らし、帳簿に目を落とした。何事もなかったかのように。だが、その一瞬で十分だった。
──この男は本性を隠している。源一郎は確信した。証拠はない。だが、いやに鋭い直感がそう告げていた。不信に満ち、人を騙すことに何ら罪悪感を抱かない者の目。何かを企んでいる者の目だと。
店を出ると、夏の陽射しが二人を包んだ。通りを少し歩き、人目のない路地に入ってから辰蔵が口を開いた。
「──渡辺殿、いかがでしたか」
「部屋はそのままでしたが、綺麗に片付けられています。仮に喜兵衛殿が殺害されたとして、証拠になるようなものは残されていないでしょうね」
源一郎は声を潜めて答えた。
「やはり……」
「──ただ、収穫はありました」
源一郎がそういうと、辰蔵が源一郎の目を見た。
「店を出た際、辰蔵殿の背を見ていた時の番頭の目──あれは明らかに何かを警戒していました」
「番頭が、私を……?」
「火盗改の頭取の嫡男が、焼香に来た。それを警戒しているのでしょう」
「では、やはり……」
「まだ断定は出来ませんが……調べる価値は出てきたと思います」
源一郎は歩き出した。
「──辰蔵殿、今日のところはこれで。私の方で番頭の素性、喜兵衛殿が揉め事を抱えていなかったか調べてみましょう。あの男の背後に何があるのか──それが分かれば道筋も見えてくるかもしれない」
「お待ち下さい、渡辺殿!」
辰蔵が引き止め、少し考え込むように俯く──それから意を決したように再び顔を上げた。
「……一つ思いついたことがあるのです」
「何でしょう」
「私には書を習っていた頃の先生方と幾らかの伝手がございます。その伝手を辿れば、遺言状を書いた者──恐らくは代筆屋が見つかるかもしれません」
源一郎は眉を上げた。
「代筆屋……」
「はい。精巧な書の偽造を番頭が行えるとは思えません。必ず、腕の立つ者に書かせているはず。そして、市井において筆跡を真似られるほどの腕を持つのは、代筆屋──。となれば数はいくらか限られます。書の世界は狭いもの──どこかで名前が挙がるやもしれません」
源一郎は頷いた。確かに辰蔵ならではの着眼点だ。書の世界に通じている者でなければ思いつかない。
「なるほど……良い考えかと。しかし……」
源一郎は言葉を濁した。辰蔵の熱意は分かる。だが──。
「辰蔵殿。代筆屋を探すということは、相手の懐に手を突っ込むようなものです」
「……」
「仮に番頭が遺言状を偽造し、喜兵衛殿の死にも関わっているとすれば──その手口を知る代筆屋は、番頭にとって最大の弱みとなる。辰蔵殿がそれを探っていると知られれば相手も黙っていないでしょう」
辰蔵の表情が強張った。だが、すぐに首を横に振った。
「承知しております。しかし──」
「辰蔵殿は火盗改頭取のご嫡男。万が一のことがあれば、御父上にも累が及ぶ」
源一郎の声が低くなり、辰蔵へと言葉にし難い圧がかかる。
「私は火盗改の与力として、幾らかの危険は覚悟の上。しかし辰蔵殿を修羅場に巻き込むわけには参りません。ここは私に任せていただけませんか」
辰蔵は黙って源一郎を見つめていた。その目に様々な感情が去来するのが見えた。悔しさ、焦り、そして──決意。
「……渡辺殿」
源一郎の圧に耐える辰蔵は歯を食いしばり──しかし揺るぎない声で言った。
「私は……私は、お千代殿に約束したのです。必ず真実を明らかにすると……!」
「……」
「あの方は今、孤立無援の中で戦っておられるっ。父を亡くし、母は病に伏し、店は番頭に牛耳られようとしている……頼れる者は、私と渡辺殿しかおりませんっ」
辰蔵の声に熱がこもった。
「私には剣の腕はありません。火盗改の権限もない。しかし──書の世界であれば、私にも出来ることがあるっ。私にしか出来ないことが……!」
「……」
「無謀なことはいたしません。ただ、書の師に会い、世間話として代筆屋のことを尋ねるだけです。周囲に怪しまれるようなことは──」
「それでも、相手の耳に入らぬとは限りません」
源一郎は首を横に振った。だが、辰蔵は引かなかった。
「渡辺殿──!」
辰蔵は真っ直ぐに源一郎を見た。
「私とて長谷川の家に生まれた者っ!父が火盗改の頭取として、日々どのような覚悟で務めを果たしているか見ております!」
その目に少年の面影はもはやなかった。覚悟の光──源一郎はそれを辰蔵の目の中に見た。
「お千代殿のために何も出来ずに傍観しているなど──私には出来ません。たとえ危険があろうとも……私はお千代殿をお助けしたい……!」
辰蔵の目を見つめ返す。──若い。青い。だが、その目には本物の覚悟があった。守りたい者のために、自らの身を投げ出す覚悟が。ふと、源一郎の脳裏に前世の若い自分の姿がよぎった──。
源一郎は深く息を吐いた。
「……分かりました。ただし、条件があります」
辰蔵の顔に希望の光が差し、源一郎は厳しい目で辰蔵を見据えた。
「決して一人で動かぬこと。何か分かれば、必ず私に知らせること。そして──少しでも身の危険を感じたら、すぐに引くこと。約束していただけますか」
「はい!」
辰蔵は力強く頷いた。
「必ずお約束いたします。慎重に、目立たぬように調べます」
「いいですか──くれぐれも気をつけてください。代筆屋を探していると知られれば相手も警戒します。相手が強硬な手段に出るかもしれないことも考慮しなければなりません」
「しょ、承知いたしました」
再度、身も竦むような圧を掛ける──。鋭い目で源一郎が言うと辰蔵は気圧されながらも頷いた。
──辰蔵と別れ、神田の通りを歩きながら源一郎は考えを巡らせていた。
まずは番頭の素性を調べる必要がある。あの男の背後に何かいるのか。熊造に頼もう。あの男の持つ情報網なら番頭の裏の顔も見えてくるかもしれない。
眠るように死んだ喜兵衛。偽造された遺言状。店を乗っ取ろうとしている番頭。ぼやけていた事件の輪郭が少しずつ見え始めている。源一郎は足を速め、熊造の根城とする深川への道を歩き始めた
──。




