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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
三章 神田剣鬼影払
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第六十二話


 翌日──源一郎と辰蔵は、神田の伊勢屋を訪れた。


 昼下がりの神田は活気に満ちていた。大通りには荷車が行き交い、店先では威勢の良い掛け声が響いている。職人たちが額の汗を拭いながら歩き、物売りの声が夏空に響く。打ち水をした石畳から立ち上る湿った空気が、僅かな涼を感じさせた。


 今日の源一郎は地味な着流し姿。髪も簡素に束ね、刀も脇差も腰には無く、背を丸め、手には辰蔵の荷物を抱えている。火盗改の与力ではなく、長谷川家の若様に付き従う荷物持ち──それが今日の役どころだった。


 対する辰蔵は紋付の羽織を着ていた。長谷川家の嫡男として、正式なお悔やみに伺う格好。いつもの道場での姿とは違い、背筋を伸ばし、顔つきも引き締まっている。


 ──伊勢屋は神田の表通りに面した、間口の広い店だった。喪中を示す印──店の入り口には、白い布が掛けられている。家人を亡くしてまだ日が浅いことを、その布が静かに告げていた。


「参るぞ」


 辰蔵が言った。源一郎は黙って一歩後ろに控え、辰蔵に従って店の中へ入った。


 店内に入ると、蝋の匂いがほのかに漂ってきた。独特の、甘い香り。棚には様々な和蝋燭が並んでいる。白蝋燭、赤蝋燭、絵蝋燭──大小さまざまな品が、整然と陳列されていた。奉公人たちが忙しそうに立ち働き、客の応対をしている。


 手代の一人が二人に気づき、近寄ってきた。


「いらっしゃいませ。何かお探しでございましょうか」

「長谷川辰蔵と申す。伊勢屋、喜兵衛殿の焼香に参った」


 辰蔵が名乗ると、奉公人の表情が変わった。


「これはこれは──長谷川様、ご丁寧に恐れ入ります。どうぞ、こちらへ」


 奉公人に案内され、二人は店の奥へと通された。土間を抜け、帳場の脇を通り、奥の座敷へ──途中、帳場に座っている男の姿が目に入った。


 四十ほどの、痩せた男だった。


 几帳面そうな顔立ちで、帳簿に向かって筆を走らせている。その姿勢は真っ直ぐで、手つきは慣れたものだ。長年この仕事をしてきたことが窺える。


 源一郎は荷物持ちらしく視線を伏せたまま、それでも視界の端で男の様子を観察した。男は客が通り過ぎても顔を上げることなく、帳簿に没頭している。


 ──あれが番頭の宗右衛門か。


 源一郎は心の中で呟いた。表向きは真面目な番頭そのものに見える。


 奥の座敷に通されると、二人の女が待っていた。一人は若い娘──お千代だろう。十七、八の年頃で、藍染めの単衣を着ている。辰蔵の姿を見ると、その目に驚きと、微かな安堵が浮かんだ。


「辰蔵様……」

「此度は、喜兵衛殿の急なお旅立ち、まことに心よりお悔やみ申し上げます」


 辰蔵は武士らしい落ち着いた口調で言った。


 もう一人は中年の女で、病み衰えた様子だった。顔色は悪く、頬は痩け、目の下には深い隈が刻まれている。布団から起き上がった姿勢で、脇息に凭れていたが、その身体は微かに震えていた。呼吸も浅く、時折苦しげに胸を押さえている。喜兵衛の妻、お房であろう。


「お房殿、ご挨拶が遅れましたことお詫び申し上げます。喜兵衛殿には幼き頃より大変お世話になりました」


 辰蔵が深く頭を下げた。源一郎も辰蔵の後ろで同様に礼をする。


「これは……辰蔵様……わざわざお越しくださり……」


 お房は力なく頭を下げようとした。だが、その動作の途中で激しく咳き込んだ。


「げほっ、げほっ……」

「おたあさん……!」


 乾いた咳が続く。お房は胸を押さえ、苦しげに身を折った。お千代が慌てて母の背中をさすった。


「大丈夫、おたあさん。無理をなさらないで……」

「す、すみません……お見苦しいところを……」


 お房は咳を抑えながら、弱々しく謝った。顔色は一層悪くなり、額には脂汗が滲んでいる。


「お房殿、どうぞ無理をなさらず、お体をお大事になさってください。お千代殿、お母上をお休ませした方がよろしいのでは」

「はい……申し訳ございません」


 辰蔵が労わるように言うと、お千代は母を支えながら女中を呼んだ。


「おたあさん、床にお戻りになってください。私が応対いたしますので」

「ごめんなさいね……辰蔵様に失礼を……」


 お房は咳を堪えながら、女中に支えられて座敷を出ていった。その足取りは覚束なく、背中は小さく丸まっている。


 お房が去った後、辰蔵はお千代に向き直った。


「お千代殿、お母上のご容態は」

「はい……元々お体が弱かったのですが、父が亡くなってから一層……食も細くなり、夜もあまり眠れていないようで……咳も、日に日にひどくなっております」

「心労も重なっておられるのでしょう」

「はい……父のこと、これからの店のこと……」


 お千代が俯き、声が僅かに震えた。その目には深い疲労と心配が滲んでいる。


「母にはまだ詳しいことは話しておりませんが、何かを感じ取っているようで……」

「どうか、お千代殿もご無理をなさらぬよう」

「ありがとうございます」


 お千代は小さく頭を下げた。


「まずは、ご焼香を」


 辰蔵が言った。お千代は頷いて、仏間へと二人を案内した。


 §


 仏間には、喜兵衛の位牌が安置されていた。新しい位牌だ。白木の戒名が、蝋燭の灯りを受けている。供えられた花は白い菊で、香の煙が細く立ち昇っていた。


 辰蔵が焼香を済ませ、手を合わせて目を閉じた。源一郎も辰蔵の後ろで同様に手を合わせる。


 ──焼香を終えると、三人は元の座敷に戻った。すると、お千代が茶を用意してくれた。辰蔵は茶を受け取りながら静かに口を開いた。


「お千代殿」

「はい」

「先日、お話しいただいた件──約束通り、渡辺殿にご相談いたしました」


 お千代の目が僅かに輝いた。


「渡辺様に……」

「はい。力を貸してくださるとのことです。それで──お千代殿のお話をもう少し詳しく伺いたいのですが、よろしいでしょうか」

「はい、もちろんです」


 お千代は頷いた。その目に希望の光が宿る。──源一郎は辰蔵の後ろに控えたまま黙って聞いている。お千代は辰蔵の後ろの付き人が、その渡辺だとは知らないままに。


「では、改めてお聞かせください。喜兵衛殿が亡くなった日のことを」

「──はい。あの日は、いつもと同じでした」


 お千代は記憶を辿るように、ゆっくりと話し始めた。


「父は朝から店に出て、帳簿を見て、取引先と話をして……夕餉は家族で食べました。母の薬を煎じて、それから……」


 お千代の声が僅かに震えた。


「床に就く前に、父は私に言いました。『明日は早起きだから、先に寝る』と。それが……最後に聞いた父の言葉です」

「……」

「朝になって、私が起こしに行きました。いつもなら、誰よりも早く起きる人だったのに……あの日は中々起きてこなくて」


 お千代の目に涙が滲んだ。


「布団をめくったら……父は冷たくなっていました。でも、顔は穏やかで……まるで、まだ眠っているかのようで……」

「苦しんだ様子は見られなかった?」

「はい。見られませんでした。顔を歪めた跡もなく、もがいた跡もなく……ただ、静かに眠っているだけのようでした」


 源一郎は黙って聞いていた──眠るように死んだ、苦しまずに、穏やかな顔で、という証言を。


「検僧の方は、何と」


 検僧──葬儀を行うに先立って、遺体の検分を行う僧侶のことだ。死者の髪を剃る儀式に立ち会いつつ、遺体に不審な傷や異常がないかを確認し──もし遺体に何らかの異常が見られた場合、その場で葬儀を止める権限も持っていた者達になる。


「はい、検分をしていただきましたが……異常は見られないとの判断でした。外傷もなく、毒を盛られた形跡もなく、頓死であろうと」

「そうでしたか……」

「私も、その時は……父が急に亡くなった悲しみで、それ以上のことは考えられませんでした。でも、あの遺言状が出てきてから……」


 お千代は悔しそうに唇を噛んだ。お千代の身の回りの状況は刻一刻と変化している。それも悪い方へと。


「お千代殿──喜兵衛殿がお亡くなりになった部屋を、見せていただくことは出来ますでしょうか」

「父の部屋を……?」


 お千代は少し戸惑ったようだったが、やがて頷いた。


「はい、ご案内いたします。父が亡くなってから、そのままにしてありますので……」


 §


 三人は喜兵衛の部屋へと向かった。


 廊下を歩きながら、源一郎は二人から少し離れた位置を保ちながらついて行く。


 喜兵衛の部屋は屋敷の奥まった場所にあった。中庭に面した十二畳ほどの部屋で、縁側からは庭木の緑が目に入る。


 辰蔵とお千代が部屋の中に入る。源一郎は廊下に留まり、敷居の外から部屋の中を観察した。


 ──部屋には喜兵衛の気配がまだ残っているような気がした。壁際の文机。その上には硯箱と筆立て。床の間には掛け軸が掛かり、花瓶、煙草盆、夏らしい蚊遣り香炉が並ぶ。主人が亡くなった日から、そのままの配置──時が止まったかのような部屋だった。


 源一郎は廊下から部屋の隅々に視線を走らせた。


 眠るような死──もし阿芙蓉のような薬を混ぜて焚いたのであれば、その跡が残っているかもしれない。源一郎は廊下に立ったまま香炉の方を注意深く観察した。


 だが──十日も前のことだ。部屋にそれらしき香の匂いも残っていない。夏場であり、昼夜を問わず窓を開け放ち、風を通していたのだろう。めぼしいものは何も見つからず、ただ部屋の片隅には麻の蚊帳が畳まれて置かれていた。


「父の部屋はそのままにしてあります。片付けようとも思ったのですが……どうしても手がつけられなくて」

「お気持ちは察します。喜兵衛殿のお持ち物は、どなたが管理しておられるのですか」

「私物は私と母が。ただ……帳簿や店の書類は番頭が自分で預かると言って幾つか持ち出しました」


 お千代の声が僅かに硬くなった。


「あまり良い気持ちはしませんでした。でも、店を回すために必要だと言われると断れなくて……」


 源一郎は廊下から、その会話を聞いていた。──番頭が喜兵衛の書類を管理している。遺言状も番頭が保管しているという。手掛かりとなりそうなものは番頭の手の中にある。


 辰蔵はしばらく部屋の中を見回していたが、やがてお千代に向き直った。


「お千代殿、ありがとうございました。部屋を見せていただき、感謝いたします」

「いえ……お役に立てたかどうか……」

「必ず真実を明らかにしてみせます」


 辰蔵は静かに、しかし力強く言った。


「お千代殿は、どうかご自身とお母上のお体を大切になさってください。何かあればすぐにお知らせください」

「……ありがとうございます、辰蔵様」


 お千代は深く頭を下げた。その目には涙が光っていたが、同時に希望も宿っていた。


 

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