第六十一話
昼も過ぎた頃──午後の稽古の頃合いに、源一郎は誠道館を訪れた。
門をくぐると、道場からは木刀の打ち合う音が聞こえてくる。今日も神谷が門下生たちの指導をしているようだ。
源一郎は稽古着に着替え、道場に入った。神谷が軽く会釈をしてくる。源一郎もそれに返した。
──あの立ち合いの後、二人の間には奇妙な空気のようなものが生まれていた。互いの実力を認め合った者同士の、無言の了解とでも言うべきものか、はたまた互いに抱いている緊張の裏返しによるものか──。
そのどちらかは判然としないが、ある種の意識が互いに向きあっているのは間違いないことだろう。
その道場の隅では、辰蔵が素振りをしていた。その姿を見て、源一郎は僅かに目を細めた。
──着実に良くなっている。
以前より、構えに無駄がない。振り下ろす軌道も安定している。まだ荒削りな部分はあるが、教えたことを素直に吸収している。
辰蔵は源一郎の姿に気づくと、素振りの手を止めて駆け寄ってきた。その顔には、いつもの人懐っこい笑みはなく、強張った表情──緊張感が見て取れる。何か思い詰めたような気配が漂っていた。
「渡辺殿、お待ちしておりました」
「どうしたのです、辰蔵殿。何か顔色が優れないようですが」
「実は……折り入ってご相談したいことがあるのです」
「相談?」
辰蔵の潜めるような声に源一郎は片眉を上げた。辰蔵の表情は真剣だ。どうにも、ただの世間話ではないらしい。
「ここでは人目がありますので……少し、場所を変えてもよろしいでしょうか」
「……分かりました」
源一郎が頷く。二人は道場を出て、裏手の庭へと向かった。古い井戸があり、その脇に苔むした庭石が幾つか転がっている。木陰になっていて、道場からは見えにくい場所だ。
「それで、相談したいこととは」
源一郎は石に腰を下ろしながら訊ねた。辰蔵は暫く言葉を探すように黙っていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「──昨日、私の幼馴染の娘が道場を訪ねて参りました。神田の蝋燭問屋『伊勢屋』の一人娘で、お千代という者です」
「伊勢屋……」
源一郎は記憶を探った。江戸においては『伊勢屋、稲荷に、犬の糞』と呼ばれるほどに伊勢屋の名を持つ店は多かったが──神田の蝋燭問屋『伊勢屋』といえば、名の知れた店だ。盗賊が狙うのは得てして大店──火盗改の役目上、商家の名前は自然と耳に入ってくる。
「その伊勢屋の主人、喜兵衛殿が──半月ほど前に亡くなったのです」
「ほう、蝋燭問屋の主人が亡くなったのですか」
「はい。前の日まで元気だったのに……朝になったら、布団の中で冷たくなっていたと聞きました」
辰蔵の声が硬くなった。
「──眠るように亡くなっていたそうです。苦しんだ様子もなく、穏やかな顔だったそうで……」
「……」
源一郎の目が、俄に鋭くなった。──前日まで元気だったのに、眠るように死んだ。頓死など江戸にはありふれたものだが……どうしてか先だっての事件を思い出さずにはいられない──。
「そして、葬儀が終わり、いつまでも店を閉めてはいられないと、店を開けた日の夜に番頭が遺言状を持ってきたそうなのです」
辰蔵は懐から二通の書状を取り出した。
「伊勢屋の番頭曰く、『旦那様から、もしもの時はこれを開けるようにと預かっていた』と。その遺言状には──『店は番頭、宗右衛門に譲る』と書かれていました」
「番頭に店を譲る……」
「反対にお千代殿には何も残さず、母御には店の利益の一部を生活費として渡すだけ。娘はしかるべき縁談を探し、嫁がせると。それに正式なものである証として親類の押印がありました」
辰蔵は悔しげに唇を引き結んだ。
「しかし、お千代殿が言うには父がそのような遺言を残すはずがないと。『お前が安心して暮らせるように、店は必ず残してやる』と言ってくれていたと。だから、私に──遺言状が本物かどうか見てほしいと頼んできたのです」
源一郎は黙って二通の書状を受け取った。一通はお千代への手紙、もう一通は昨日お千代が持ち出した遺言状を──辰蔵が写した物だという。
源一郎は二通を見比べた。それは遺言状を写した物だと言うが両者の字の形は似ている。素人目には同一人物が書いたようにしか見えない。
「……私には字の真贋を見極めることは出来ませんな」
源一郎は書から顔を上げると正直に言った。
「字の形は似ている──しかし、それ以上のことは分かりません。辰蔵殿はどう見ているのです?」
「私の目には──」
辰蔵は遺言状の写しを指差した。
「これは件の遺言状の写しですが──遺言状は偽物に見えました」
「偽物ですか」
「はい。字の形は似せてありますが……本物とは違う。書き手の癖が異なるのです」
「……癖とは」
源一郎が目を細める。辰蔵は頷いて説明を続けた。
「書というのは、筆を動かす人の呼吸がそのまま紙に写るものだと私は思っています。喜兵衛殿の手紙──こちらを見ると、ゆっくりと呼吸しながら一字一字を丁寧に書いている様子が伝わってまいります。横画を引く時に息を吸い、縦画を下ろす時に吐く。句読点で一呼吸置いて、次の字や行に移る。そういう身体に染み付いた調子が、墨の濃淡にも表れているのです」
辰蔵は遺言状の写しを指差した。
「しかし、この遺言状は調子が違う。全体に呼吸が浅い。字を書く時に息を止めて、慎重に形を整えることに意識が向いている。例えばここ、『店』という字ですが──一画目から二画目への運びで、僅かに筆が止まった跡がございます」
源一郎は辰蔵が指差す箇所を見た。確かに、言われてみれば僅かな滲みがあるようにも見える。だが、源一郎にはそれが「筆が止まった跡」なのか、ただの墨の滲みなのか、判別がつかなかった。
「本人の癖であれば、こうはなりませぬ。これは他人の字を真似しようとして、次の画を確認するために止まった跡かと」
それに、と辰蔵は続けた。
「墨の濃淡にも不自然な点がございます。本人の字なら、一行の中で墨が薄くなる速度が一定になる。呼吸が一定だからです。ですが、この遺言状は墨の減り方が不規則で、意識して濃淡を作ろうとしてかえって不自然になっている」
辰蔵は署名の部分を指差した。
「署名もそうです。自分の名前というものは書き慣れておりますから、一番滑らかに一息で書けるはず。ところが、この署名は他の文字よりも僅かにぎこちない。他人の名を書き写そうとした跡に見えます」
源一郎は暫く黙って二通の書状を見比べていた。辰蔵の説明は筋が通っていて、説得力がある。だが、源一郎の目には──正直なところ、違いがほとんど分からない。
「……見事なものですな」
源一郎は感嘆を込めて言った。
「私には辰蔵殿のように見分けることは出来ません。言われてみても字の形が似ているとしか思えない……ですが、辰蔵殿がそこまで言うなら、そうなのでしょう」
「いえ、この程度、書を習えば誰でも──」
「謙遜なさることはない」
源一郎は辰蔵を真っ直ぐに見た。
「書の真贋を見極める目というのは、誰にでも持てるものではないのでしょう。長年の修練と、生まれ持った感性がなければ身につかない。しかし、辰蔵殿はそれを持っている。それは剣の才と同じくらい──いや、或いはそれ以上に有用な才なのかもしれません」
「渡辺殿……」
辰蔵は目を見開いた。
「辰蔵殿には、辰蔵殿にしか出来ぬことがある。今回のように、偽造を見抜ける。それにこれは遺言状を模写したものなのでしょう?──それも書き手の呼吸まで読み取って。それはもはや一つの『力』です」
源一郎の言葉に辰蔵の表情が微かに揺れた。嬉しさと、戸惑いと、そして自信のようなものが入り混じっている。
「……ありがとうございます」
辰蔵は深く頭を下げた。
「それで──お千代殿は父親が殺されたのではないかと疑っているのですね」
「はい」
「──前日まで元気だったのに、眠るように死んでいた。そして、偽造された遺言状が出てきた。お千代殿は番頭の宗右衛門が父を殺して店を乗っ取ろうとしていると疑っている」
「……」
源一郎は話を戻すと腕を組んだ。
とはいったものの、書の真贋については可能性の域を出ず、有効力は証明には及ばない。
それに──眠るように死んだ。その言葉がずっと頭の中で反響していた。先だっての事件で使われた痛み止めの嗅ぎ薬──阿芙蓉。あれを嗅がされたのであれば、眠るように命を刈ることもできる。苦しまずに、穏やかな顔のままで──。
「喜兵衛殿の亡骸はどうなったのですか」
望みは限りなく薄いが念のため源一郎は訊ねた。
「土葬されたと聞いています。夏場ですので、早々に……それに喜兵衛殿の部屋も既に片付けられてしまったと」
「そうですか……」
他殺を結びつける証拠がない──。亡骸を掘り起こして他に外傷などがないか調べることは出来るかもしれないが、それでは大事になる。部屋も片付けられてしまったのなら、当日の痕跡を探すのは難しい。
だが──遺言状が睨み通り偽物であるなら、そこには必ず何かしらの悪意がある。そしてそれを抱くのは『人』に他ならない。
そして気になることはもう一つ。
「──一つ厄介なことがあります」
「厄介なこと、ですか」
辰蔵が不安そうに訊ねた。
「町人地の揉め事は奉行所の管轄。本来、火盗改は盗賊や押し込みを取り締まる役目。遺言状の偽造や商家の乗っ取りとなると……本来は我らが口を出せる筋ではないということです」
「そんな……」
辰蔵の顔が曇った。
「では、お千代殿を助けることは……」
「お待ちください。まだ、諦めるとは言っていません」
源一郎は腕を組んだまま、暫し考え込んだ。
「……辰蔵殿は喜兵衛殿と面識がありましたか」
「はい。幼い頃、お千代殿と共に書の稽古に通っておりましたので。喜兵衛殿には何度かお会いしたことがあります。長谷川家も伊勢屋から蝋燭を買っています」
「それならば──お焼香に伺うのは自然なことですね」
源一郎の目に、ある考えが浮かんだ。
「辰蔵殿が伊勢屋へお悔やみに参るのです。その折に、私が同行します。火盗改の与力としてではなく、辰蔵殿の付き人として」
「なるほど……」
辰蔵の顔が明るくなった。
「そうすれば、伊勢屋に入り込み、お千代殿から直接話を聞くことが出来る……!火盗改の身分を明かさず、自然な流れで現場も確認できるという訳ですねっ」
「そういうことです。まずは話を聞き、現在の状況を見極めましょう。もし背後に盗賊か博徒の影でも見えれば、火盗改として動く大義名分も立ちます」
源一郎は立ち上がった。
「それに──遺言状の偽造だけでも重大な罪です。これほど精巧な遺言状を番頭が作ったとも考えにくい……もし本当に一件に殺しが絡んでいるなら、専門の盗賊や裏の人間の手を借りた可能性が高い。──だから、焦りは禁物です。まずは正体を隠し、火盗改が動いていることを悟らせないよう慎重に探りを入れることにしましょう」
「はい……!」
辰蔵は力強く頷いた。その目に希望が宿る。
「ありがとうございます、渡辺殿。あなたに相談して良かった。お千代殿もきっと喜んでくださる」
「礼を言うのは早いですよ。まだ何も分かっていないのですから」
源一郎は言った。だが、その目には既に父──平蔵にも似た鋭い光が宿っていた。
「辰蔵殿」
「はい」
「辰蔵殿の書を見る目が、今回の事件を暴く鍵になるやもしれません」
「はい」
辰蔵は深く頭を下げた。
「──今回の一件、必ずやお役に立ってみせます」
覚悟の籠もった声。そうして──二人は道場へと戻っていったのだった。




