表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
三章 神田剣鬼影払
62/76

第六十話


 辰蔵は目を細めた。字の形は似せてある。だが、筆の運びが違う。墨の吸い方が違う。何より──。


「……息遣いが、違う。違和感がある」

「息遣い……?」


 辰蔵は呟いた。お千代が不思議そうに訊ねる。


「書というのは……筆を動かす人の呼吸が、そのまま紙に写るものだと私は思っています」


 辰蔵はお千代への手紙の方を指差した。


「喜兵衛殿はゆっくりと呼吸しながら、一字一字を丁寧に書いています。無意識に横画を引く時に息を吸い、縦画を下ろす時に息を吐く。句読点で一呼吸置いて、次の字や行に移る。そういう身体に染み付いた呼吸の癖が、墨の濃淡に表れています」


 次に遺言状の方を指差す。


「ですが、この遺言状は……呼吸がゆっくりと浅い。字を書く時に息を止めて、ぶれを抑え、形を整えようとしている。そして──」


 辰蔵は一つの字を指差した。遺言状と手紙に共通して書いてある「店」という字。


「この字を見てください。一画目の入りから二画目への運びで、僅かに筆が止まっています」

「止まっている……?」


 お千代の目には、その違いが分からない。同じ字にしか見えない。だが、辰蔵は確かに何かを見ている。書を見る目がお千代とは違うのだ。


「えぇ。本人の癖なら、こうはならない。これは……他人の字を真似しようとして、次の画を確認するために止まった跡です」


 お千代には全く同じようにしか見えなかったが、辰蔵には違って見えるのだろう。辰蔵はそのまま続けた。


「それに墨の濃淡も不自然です。本人の字なら一行の中で墨が薄くなっていく速度が一定になる。それは一定の筆の運びと息遣いがあるからです。ですが、この遺言状は……墨の減り方が不規則です。意識して濃淡を作ろうとして、かえって不自然になっている」


 辰蔵は「伊勢屋喜兵衛」と書かれた署名の部分を指差した。


「署名も見てください。普通、自分の名前は何度も書き慣れているものですから、一番滑らかに、一息で書けるはずです。ところが、この署名は……他の文字と同じくらい、ぎこちない」

「……」

「自分の名前を書く時に、こんなに力が入る人がいるでしょうか。よほど緊張していたか……あるいは自分の名前ではないから書き慣れていないか」


 辰蔵は顔を上げた。その目には確信の色が宿っている。


「お千代殿、これは──お父上の自筆ではないかもしれません」


 言葉を選びながら、ゆっくりと告げる。お千代は暫く黙っていた。その顔から血の気が引いていく。同時に──その目に、微かな光が宿った。それは怒りか、安堵か、それとも両方か。


「やはり……やはり、そうなのですね。私の感じていたことは間違いではなかったのですね」

「確証はありませんが……私の目には、そう見えます」


 お千代の声は震えていたが、どこか確信に満ちている。辰蔵は慎重に言葉を選んだ。


「字の形を似せることは、腕の良い書き手なら出来ます。ですが、書の呼吸まで読み取って完璧に真似ることは……難しいものです。そして、この遺言状を書いた人は──模倣の腕は良いが、達人と言えるほどではない」

「では……これは偽物……父は……本当は、こんなものを書いていなかった」

「その可能性が高いと思います」


 お千代の声が低くなり、その言葉に辰蔵は頷いた。だが、すぐに眉を寄せる。


「ただし……これは書の真贋の可能性を見極めただけで、相続の問題を解決できる訳ではありません」

「それは……どういう意味ですか」

「偽物だとすれば、誰かがお父上の字を真似て、この遺言状を偽造したということになります。そして、それを持ってきたのは番頭の宗右衛門殿──。しかも、亡くなって暫くした後に偽の遺言状を出してきた。そのような偶然は……」


 辰蔵は言い淀んだ。その先を口にすることの重さが言葉を躊躇わせた。


「っ、宗右衛門っ……!あの者が、父をっ……!?」

「待ってください、お千代殿!落ち着いて!」

「ですが、店を開けるまで待ったのは、父の遺言状が無いと確信したからなのではないのですかっ……!初めから店を乗っ取るつもりでっ……」


 辰蔵は慌てて言った。


「まだ決めつけるのは早いのです。その番頭が悪人だとまだ決まったわけではありません。長く勤めた方なのでしょう?偽造はまだしも、喜兵衛殿の死が本当に偶然ということもあり得ます」

「でも……!」


 お千代の目に激しい感情が燃え上がった。悲しみと怒りが入り混じった炎が、その瞳の奥で揺れている。


「父はっ。前の日まで元気だったのに、突然……!もし、これが偽物なら……父の死も、本当に頓死なのですか?本当は誰かに殺されたということなのではないのですかっ?」

「お千代殿……」

「私は……私は……」


 お千代の声が詰まった。


「父の死に顔を忘れられないのです。穏やかで、まるで眠っているようで……でも、私には分かります。父は死ぬつもりなどなかったはずだと。まだまだ生きたかったはずだと」


 涙がお千代の頬を伝った。堰を切ったように、言葉が溢れ出す。


「もし誰かに殺されたのなら……父の無念を晴らしたい。真実を知りたいのです」


 辰蔵はお千代の目を真っ直ぐに見つめた。


 ──お千代殿。この人は、本気だ。父を亡くした悲しみの中で、それでも真実を求めている。店を奪われようとしている恐怖の中で、それでも立ち向かおうとしている。


 辰蔵の胸に熱いものが込み上げてきた。この人の力になりたい。この人を助けたい。そう思った。


「……お千代殿──私には……私には、剣の才がありません。きっと父上のようにはなれない。悔しいけれど、それが現実です。両番筋の家の生まれの癖に剣が苦手であるなど……不肖の息子で申し訳なくなることだってある」

「……」

「でも、父上がもしも喜兵衛殿と同じ立場であったのなら、私はお千代殿と同じことをするでしょう。もし本当に父上が誰かに殺されたとするのなら……私も、何としてでも真実を明らかにしようとします」


 辰蔵は立ち上がった。その目には決意の光が宿っていた。


「この一件──私に任せてください。ちょうど身の回りに親身に動いて下さる方がいます」

「良い方……?」

「はい」


 辰蔵の目が真剣な光を帯びた。確信を持って答える。自身の目に狂いはないと。


「渡辺殿──火付盗賊改方の与力で、父上の部下。この道場にも稽古に来ておられ、剣の腕も見識も確かな方です。もし本当に悪事が隠されているなら……渡辺殿なら正義の徴のもと、必ず真実を暴いてくださる。渡辺殿は父上の次に尊敬できるお方ですので」

「火付盗賊改方……」


 お千代は息を呑んだ。火盗改といえば、江戸の治安を守る精鋭の役人たちだ。盗賊や押し込みを取り締まり、悪事を働く者を容赦なく捕らえる。民衆にとっては恐ろしくも、盗賊を刈り取る頼りになる者達──。その名を聞いて、お千代の目に一筋の希望が灯った。


「──お千代殿、私に任せて貰っても構いませんか?」

「私一人では、どうにもできない。でも、渡辺殿の力を借りられれば……きっと、真実が分かるはずです」


 辰蔵は真剣な目で言った。対して、お千代は暫く黙っていた。強い陽射しが部屋の中を照らしている。二通の書状が文机の上で光を受けている。蝉の声が遠くで響いていた。


 やがて、お千代は顔を上げた。涙に濡れた目には決意の色が浮かんでいる。


「……よろしくお願いします」


 お千代は深く頭を下げた。


「辰蔵様、力を貸してください。私一人では何も出来ない。でも……父の無念をこのまま放っておくことは出来ないのです」

「承知いたしました。必ずや、お力になります」


 辰蔵は頷いた。その言葉は自分自身への誓いでもあった。


 ──剣の才はない。父のようにはなれない。だが、今ここで自分に出来ることがある。お千代を助けることが出来る。書の才を人のために使うことが出来る。


 辰蔵は懐紙と矢立を取り出すと、遺言状の内容をサラサラと書き留めた。その筆の運びは淀みなく、流れるように紙の上を走る。特にその懐紙に書かれた字は、遺言状のものと相違が見られないほどに精巧なもの──。お千代は目を丸くして、辰蔵の手元を眺めた。


 これほどの腕があれば、辰蔵自身が偽造を見抜けるのも当然だと、お千代は思った。それから辰蔵は遺言状を丁寧に折り畳み、お千代へと返す。


「この遺言状はお返しします。黙って持ち出したのでしょう?番頭に持ち出したことが知られれば、面倒なことになります」

「……はい。番頭が出掛けている隙に、厳重に保管していたものを何とか持ち出したものです」

「……危ない橋を渡りましたね」

「でも、確かめずにはいられなかったのです」


 お千代は頷いて、遺言状を懐へと仕舞い込んだ。その声には、強い意志が籠っている。父の死に疑念を抱き、一人で証拠を探し、辰蔵を訪ねてきた。その勇気と覚悟を辰蔵は感じ取った。


「手紙の方は少しお借りしてもよろしいですか?渡辺殿は明日にでも道場に来られるかもしれません。その時に相談してみます」

「はい……お願いします」


 お千代は涙を拭い顔を上げた。その目にはまだ不安が残っていたが、同時に微かな希望の光も宿っていた。


 §


 道場の門前で辰蔵はお千代を見送った。


「──では、お帰りは気をつけて。何かあったら、すぐに知らせてください」

「ありがとうございます、辰蔵様」


 お千代は深く一礼して伊勢屋のある通りへと歩いていった。その後ろ姿は小さく、不安気に見える。少しでも力を与えたく、辰蔵はお千代の姿が見えなくなるまで見送っていた。


 ──お千代殿は一人で戦おうとしている。父を亡くし、店を奪われようとし、真実も分からないまま……それでも、立ち向かおうとしている。


 辰蔵は拳を握りしめた。


 ──私にも、何か出来るはずだ。剣の才はなくても、書のことなら分かる。そして、渡辺殿の力を借りられれば、きっと……


「長谷川」


 声がして振り返ると神谷が立っていた。いつの間にか門の傍まで来ていたらしい。


「知り合いだったのか」

「えぇ……幼馴染です。同じ書の先生に習った仲で」

「そうか」


 神谷は穏やかに微笑んだ。その笑顔には力強くありながら、人懐っこい温かさがあった。


「何やら困りごとのようだったな。力になれることがあれば遠慮なく俺にも言えよ」

「ありがとうございます、神谷さん」


 辰蔵は頭を下げた。神谷は本当に面倒見の良い人だ。こうして門下生の一人に過ぎない自分にも気を遣ってくれる。


 だが──辰蔵は今の段階で神谷に話すことはしなかった。まだ何も分からないのだ。偽造の可能性があるというだけで喜兵衛の死の証拠になるわけでもない。それに、この件は源一郎に相談すると決めていた。まずは、そちらが先だと。


「稽古に戻ります」


 辰蔵は言って道場の中へ入っていった。木刀を手に取り素振りを始める。だが、頭の中は先ほどのことで一杯だった。雑念を抱えたまま木刀を振り下ろす──。


 伊勢屋の主人が突然死んだ。遺言状には店を番頭に譲ると書かれていた。しかし、その遺言状は偽物の可能性が高い。つまり──「誰か」が喜兵衛殿を殺し、店を乗っ取ろうとしている。


 そして、その「誰か」とは──おそらく番頭の宗右衛門だ。長年仕えていた男が主人を裏切った。殺し、遺言状を偽造し、店の全てを奪おうとしている。辰蔵はもう一度木刀を振り下ろした。


 ──許せない。


 そんな悪事が許されていいはずがない。辰蔵は心の内に巡る怒りに歯を食いしばった。


 ──渡辺殿に相談しよう。そして、真実を暴こう。お千代殿のために。喜兵衛殿の無念を晴らすために。


 道場に辰蔵の素振りの音が響いていた。木刀が風を切る音。足が板張りを踏む音。その音はやがて稽古の喧噪にかき消されていった。


 だが、辰蔵の胸の中には──静かに灯った決意の炎が燃え続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ