第五十九話
──誠道館に神谷伝兵衛が姿を見せるようになってから、幾日か過ぎていた。
その日も神田の空には入道雲が湧き上がり、蝉時雨が道場の板塀を震わせていた。葉月も半ばを過ぎ暑さは一向に衰える気配がない。
辰蔵は道場の隅で、木刀を構えていた。正眼の構え。足は肩幅に開き、膝を僅かに曲げる。呼吸を整え、気を丹田に落とす。──源一郎に教わった通りに。
以前の辰蔵なら肩に力が入っていた。だが、今は違う。源一郎から「力を抜け、呼吸を意識しろ」と何度も言われた。その言葉を思い出しながら、辰蔵は静かに息を吐いた。
木刀を振り下ろす。上段から正眼へ──。以前より腕の軌道が安定している。力任せではなく、しかし身体の重心はブレない。まだぎこちなさは残るが形にはなってきた。
「長谷川、いいぞ。そのまま続けろ」
師範代の代わりに指導に入っている神谷の声が飛んできた。辰蔵の素振りを見ていたらしい。
「以前より、形が整ってきた。基本に忠実で、無駄を無くすことが重要だ。その調子で続ければ、もっと良くなる」
「ありがとうございますっ」
辰蔵は素直に頭を下げた。褒められると、やはり嬉しい。剣の才がないと自覚しているからこそ、少しでも上達したと言われると励みになる。
道場には十人ほどの門下生が集まっていた。道場主である鷹取重蔵は師範席で書き物をしていたが、用事が済み次第、稽古に参加するのだろう。相変わらず人付き合いを好まない御仁だったが、神谷のおかげで道場は活気づいていた。
「──では、次は組太刀をやろう。二人一組になれ」
神谷の声で、門下生たちが動き始めた。辰蔵も近くの若い商家出の息子と組を作る。
──木刀を構え、向かい合う。息を吸い、吐く。
「始め」
神谷の合図で、辰蔵は一歩踏み込んだ。相手の木刀を受け、流し、打ち返す。基本の型だ。
以前なら、ここで腕がぶれていた。だが、今日は違う。源一郎に教わった「力を抜く」という感覚を意識する。相手の力を殺さず、流す。そして、その流れのまま打ち返す──。
「おわっ」
相手の商家の息子が驚いたような声を上げた。辰蔵の木刀が、綺麗に相手の頭上に掲げられた鬼籠手を捉えた。
「長谷川、今のは良かった」
神谷が声をかけてきた。
「受けから打ちへの流れが自然だった。その感覚を忘れないように」
「は、はい」
辰蔵は頬を紅潮させて頷いた。
──まだまだ、渡辺殿の足元にも及ばない。
だが、確かに上達している。少しずつ、剣というものが分かってきた気がする。才能がなくても正しく学べば、上達したいという意思があれば、それなりにはなれる。源一郎はそう教えてくれた。
その時だった──道場の入口に、人影が現れた。
一人の娘だった──。藍染めの木綿の単衣に、白地に紺の麻の葉模様の帯。髪は島田髷に結い上げ、簪は銀製のもの。商家の娘らしい身なりだが──その顔色は蒼白で、目元には深い疲労の影が落ちている。
娘は道場の敷居の前で立ち止まり、恐る恐る中を覗き込んでいた。何かを探すように、門下生たちの顔を一人一人見ている。
──お千代殿?
辰蔵は目を見開いた。見覚えのある顔だったからだ。神田の蝋燭問屋「伊勢屋」の一人娘であるお千代。──辰蔵の幼馴染だった。
「……っ、辰蔵様」
お千代が辰蔵を見つけた。その目に、微かな安堵が浮かんだ。だが、すぐに不安の色が戻る。辰蔵は木刀を下ろし、神谷の方を見た。神谷は頷いて、手で促す仕草をした。
「いけ、長谷川。婦女子を待たせるものではないぞ。それにあの様子……ただ事ではなさそうだ」
「すみません」
辰蔵は神谷と稽古の相手に一礼して、稽古から抜けた。お千代の傍に歩み寄る。
「お千代殿、どうしたんです。何かあったのですか」
近くで見ると、お千代の様子は痛々しかった。目の下には化粧では隠せない隈があり、髪も所々乱れている。辰蔵の知るお千代というのは、もっと身なりに気を遣う女子だったのに。
「……辰蔵様、少しだけ……お時間をいただけませんか」
その声は小さく、震えていた。お千代が周囲を見回す。道場の門前には、通りを行き交う人々がいる。声が聞こえてしまうことを気にしているように見えた。
「わかりました──お千代殿。あちらで話しませんか」
「……はい」
辰蔵は道場の脇にある小さな庭を指差した。植え込みの陰になっていて、通りからは見えず、道場の門弟もいない場所だ。
すると、お千代が頷き二人は庭の隅へと移動した。紫陽花の葉がこんもりと茂っている。
「お千代殿、顔色が悪いようですが……大丈夫ですか?何かあったのですか?」
辰蔵は心配そうに訊ねた。お千代は俯いたまま、暫く黙っていた。それから、ゆっくりと顔を上げる。
「辰蔵様……父が……亡くなったのは、ご存知ですか」
「……えっ」
辰蔵は息を呑んだ。
「喜兵衛殿が……?いったい、いつです」
「十日ほど前のことになります」
喜兵衛──神田の大店、蝋燭問屋の主人だ。長谷川家とも繋がりのある店。辰蔵の驚きに対し、お千代の声は感情を押し殺したように平坦だった。
「すみません、お千代殿。私、知らなくて……」
「いいえ……」
「でも、何で急に。先月に会った時は元気そうでしたが」
「……亡くなる前の晩まで、いつも通りでした。店の帳簿を見て、私と夕餉を食べて、母の薬を煎じて……それから、床に就いて」
お千代は続けた。
「朝になって、中々起きて来ないから私が起こしに行ったら……布団の中で冷たくなっていたんです」
「そんな……」
辰蔵は絶句した。喜兵衛は四十代後半で、まだ老け込むような歳でもない。商売熱心で朝から晩まで店に出ていた。病気の噂なども聞いたことがない。
「何か持病があったのですか」
「いいえ、特には……ただやすらかな顔で、眠るように亡くなっていました」
お千代は淡々と答えた。
「苦しんだ様子もなく、穏やかな顔で……良い最期だったと、皆は言います」
「……」
「葬儀には大勢の方が来てくださいました。父は人望がございましたから……取引先の方々も、近所の方々も、皆さん残念そうに涙を流してくださって」
お千代の声が僅かに震えた。
「私も……泣きました。たくさん泣いて、泣いて、泣いて……気がついたら葬儀が終わっていて」
「お千代殿……」
辰蔵は黙って聞いていた。お千代の言葉が、ぽつりぽつりと零れ落ちていく。
「それでも、店をいつまでも閉めている訳にはいかないと、早々に精進落としをして……お客様を迎えられるようにして……」
「……」
「四十九日を待たずに店を開けました。父なら、そうしただろうと思ったから。お客様に迷惑をかけるな、といつも言っていたから」
お千代は顔を伏せた。悲しみに耐える顔だ。
「──でも店を開けた日の夜でした。番頭の宗右衛門が、一通の書状を持ってきたのは」
「書状……?」
「父の遺言状だと言いました」
お千代の声が硬くなる。その目に写るものは──。
「『旦那様から、もしもの時はこれを開けるようにと預かっていた』と。宗右衛門は遺言状の証人もいると、そう言ったんです……」
「遺言状……」
辰蔵は眉を寄せた。
「その遺言状には、何と書かれていたのですか」
「……これです」
お千代は暫く黙っていた。それから、懐から一通の書状を取り出した。辰蔵は静かに書状を受け取り、開いた。丁寧な楷書で次のように書かれている。
『一、店は番頭、宗右衛門に譲る
一、女房、房には店から出る利益の一部を生活費として渡すこと
一、娘、お千代はしかるべき縁談を探し嫁がせること』
「……」
そして、端には伊勢屋喜兵衛の押印に、保証人である親類の押印がある。辰蔵は言葉を失った。店を──番頭に譲る?お千代には、何も残さない?
「辰蔵様……」
お千代が顔を上げた。その目には涙が滲んでいた。だが、それ以上に強い光が感じられた。
「私……どうしても、納得がいかないことがあるのです」
「……」
「父は私のことを何より大切にしてくれました。『お前が安心して暮らせるように、店は必ず残してやる』と、いつも言ってくれていた」
お千代の声が震えた。
「それなのに……店を番頭に譲る?私には何も残さない?しかるべき縁談を探し嫁がせる?……そんなの父の言葉じゃない。父はそんな人じゃない」
「お千代殿……」
「だから……」
お千代は懐からもう一通の書状を取り出した。
「これを持ってきたんです。父が以前、私に宛てた手紙です。成人した時にくれた手紙──二つを見比べて……確かめてほしいのです」
辰蔵はその書状も受け取った。お千代は真剣な目で辰蔵を見つめる。
「辰蔵様は書の達人です。同じ先生に習っていた頃から、私なんかよりずっとずっと上手だった。今では書家顔負けの腕前だとお聞きしますっ」
「いや、私はそんな……」
「お願いですっ!この遺言状が、本物かどうか……父が本当に書いたものかどうか、見ていただけませんかっ」
お千代が深く頭を下げる。辰蔵は二通の書状を手にしたまま、暫く黙っていた。蝉の鳴き声が響いている。紫陽花の葉が風に揺れている。
──お千代殿は、お父上を亡くしたばかりだ。
悲しみが癒えぬ内に、店という家まで奪われようとしている。それも父の遺言という形で。本当に父の意志なら、どれほど辛いことか。しかし、もし偽物なら──。
「……分かりました。私でよければ見させていただきます」
「……ありがとうございます」
辰蔵は頷いた。お千代の目から涙が一筋零れ落ちる。
「こちらへ」
辰蔵はお千代を道場の脇へ案内した。稽古場の隣には、住み込みの門弟たちが使う小部屋がある。今の刻限なら誰もいないはずだ。
障子を開けると、六畳ほどの質素な部屋があった。畳は日に焼けて色褪せ、壁には木刀掛けが施されている。窓からは日が差し込んでいた。部屋の隅には文机が一つ置かれている。門弟たちが手紙を書いたり、帳面をつけたりするのに使うものだろう。
「ここなら、人目を気にせず話せます」
辰蔵は文机の前に座り、二通の書状を広げた。お千代は傍らに正座して、固唾を呑んで見守っている。辰蔵はまず一通目を手に取った。お千代への手紙だ。
──この字は確かに喜兵衛殿の字だ。
辰蔵は喜兵衛の字を知っている。書の手習いに通っていた時、お千代の父とも何度か顔を合わせていた。それに長谷川家は伊勢屋から灯りの元となる蝋燭を仕入れている。季節ごとの挨拶を貰うこともある。その時に見た字──商人らしい実直さの中に、どこか温かみのある字だった。
総じて筆の運びは流麗だが、時折ぎこちなさが見られる。それは下手なのではなく、丁寧だということだ。一字一字を大切に書いている。句読点で一呼吸置くことや、次の行に移る時には毎回新たに墨をつけている。習慣づいた呼吸の跡が墨の濃淡に表れている。
辰蔵は次に、二通目を手に取った。遺言状と称するものだ。
字の形は似ている。横画の角度、縦画の太さ、句読点の打ち方──表面的には一通目と同じに見える。
だが──辰蔵には分かった。
──これは違うと。




