第五十八話
──勝負は決した。道場の真ん中で大の字になった神谷は動けなかった。荒い息のまま、呆然としていた。
神谷は理解せざるを得なかった。道場師範である鷹取にも勝るという剣の腕──しかも、源一郎は神谷の組討にも対応し、返すまでして見せた。終わってみれば手も足もでない。そんな手合わせであった。
「……参りました」
神谷は立ち上がると、竹刀を納め深く頭を下げた。
道場が静まり返っている。門下生たちは言葉を失っていた。あの神谷がまるで相手にならなかった。
ただ、門下生たちは理解していた──。この道場に来始めた頃の源一郎の剣は今以上に苛烈で、容赦がなく──しかし、その強さは焼き焦がれるほどの憧憬を抱かせてしまうことを。
「お見事でした」
源一郎も竹刀を納めると穏やかに言った。
「直心影流の心技体、見事なものです。呼吸法も足運びも、よく練られている。一刀に込められた気迫は、正面から受けられる者は少ないでしょう」
「いや……私の方こそ、勉強になりました」
神谷は顔を上げた。その表情には、悔しさよりも、むしろ清々しさがあった。そして、その目の奥に映る光は──。
「渡辺殿の剣の冴えは……あれほどの切り落としは見たことがない。私の動きが全て読まれているかのようだった」
「たまたま噛み合っただけですとも」
「ご謙遜を」
神谷は苦笑した。謙遜ではないことくらい分かっている。だが、それを追及しても詮無いことだ。門下生たちがざわめき始めた。緊張が解けたのだろう。辰蔵が目を輝かせて源一郎を見ている。
「渡辺殿、凄かったです!」
「ありがとう。見ることも鍛錬になりますから。身体の動かし方を何度も頭で思い浮かべて、それから実際に身体を動かすといいですよ」
「はい!やってみます!」
辰蔵は元気よく答えた。
§
その後、源一郎は鷹取に断ると道場の隅で一人、素振りを始めた。
門下生たちは鷹取の指導のもと、通常の稽古に戻っている。神谷も門下生たちに混じって稽古を続けていた。
源一郎は木刀を構え、ゆっくりと振り下ろした。
──神谷の剣は悪くなかった。
直心影流の呼吸法。あの独特のリズムは、確かに剣に力を与えている。特に「一刀両断」の威力は見事だった。全身の力を一点に集中させる技術。
源一郎は神谷の動きを思い出しながら木刀を振った。上段からの振り下ろし。呼吸を合わせ、全身で気を練る。だが、ただの模倣ではない。自分の剣に取り込むために、動きを一つ一つ分解し、改善し、精錬していく。
──呼吸のタイミングは良い。だが、もう少し肩の力を抜いた方が速度が出る。
もう一度、振り下ろす。
──足の運びも悪くない。だが、踏み込みの角度を変えれば、腰の入れ方を工夫すれば、より深く間合いに入れる。
何度も、何度も、繰り返す。
神谷の技術を模倣し、改善し、精錬する。やがて、それは神谷の剣ではなく、源一郎自身の剣になっていく。他流派の技術を吸収し、自分のものとして消化する。鬼切流を基盤としながら、一刀流、そして直心影流の技術までも取り込んでゆく。
──気づけば、かなりの時間が経っていた。
稽古が終わり、門下生たちが三々五々帰り始めている。源一郎は木刀を収め、汗を拭った。
「渡辺殿」
声がして振り返ると、神谷が立っていた。
「──お疲れ様でした。今日の立ち合い、改めて礼を言わせていただきたい」
「いえ、こちらこそ良い稽古になりました」
「ご謙遜を。──しかし、渡辺殿の剣は本当に……あれほどの使い手とは思いもしませんでした。それに……たった一度の立ち合いで直心影流の技を見取るとは……正直、素振りを見ていて夏だというのに寒気を覚え申した」
神谷は苦笑したように言った。
「火盗改の与力と聞いて、どれほどのものかと思っておりましたが……度肝を抜かれました。鷹取先生も強いが、渡辺殿は……何と言うか、底が知れませんな」
「流石に買い被りというものです」
「いやいや、どれも本当のことだ」
神谷は真剣な目で言った。
「私は諸国を巡り、多くの剣客と立ち合ってきました。だが、渡辺殿のような剣士は初めて。まさに……鬼切……剣鬼の名が相応しい」
「……」
「渡辺殿と立ち合えたことは、私にとっては幸運そのもの。これからも幾ばくかでも剣を合わせていただけるとありがたい」
源一郎は少し驚いた。道場破りとして現れた男が、こうも素直に頭を下げるとは思わなかった。
「こちらこそ。神谷殿の直心影流、見事なものでした。私も学ぶところが多い」
「そう言っていただけると救われる」
神谷は照れたように笑った。
「ところで──神谷殿は仕官先を探しているとか」
源一郎が訊ねた。
「えぇ。武州を巡り修行していたのですが、どうにも縁がなく……江戸に出てきたものの、なかなか難しい」
「腕は確かであるのに、勿体ないものです」
「世の中、腕だけではどうにもならんということでしょう」
神谷は苦笑した。源一郎は神谷の横顔を見た。話してみると、悪い男ではない。むしろ、好感が持てる。面倒見が良く、門下生たちにも親切だ。それに、するり、と人の心の内に入るのが上手かった。
ただ──源一郎の思考の片隅には、小さな疑問が残っている。何故、神谷は数ある一刀流道場から誠道館を選んだのか──?
鷹取は優秀な師だが、道場の経営者としては一歩引いており、門下生を集めることにそこまで熱心ではない。正直な所、知る人ぞ知るという言葉の通りで、有名な道場は他にたくさんあるのに、と。
「神谷殿は、以前から鷹取先生のことを知っておられたのか?」
「いえ、旅の途中で誠道館のことを耳に挟みまして。一刀流の腕利きがいると聞き及んだものですから。これは是非にと思い、足を運んだ次第です」
「なるほど」
「期待以上でしたな。鷹取先生も、そして渡辺殿も」
神谷は朗らかに笑った。
──考えすぎか。
火盗改などという役目についていると、人を疑うのが常になる。源一郎は内心で首を振った。今日話した限りでは、神谷は良い男だ。疑うべき理由は何もない。
その時──。
──ふと、神谷の足元に目が留まった。
一匹の猫がいた。三毛の、ふっくらとした猫だ。神谷の足元にすり寄り、気持ちよさそうに喉を鳴らしている。源一郎は何気なく言った。
「おや、どこから入り込んで来たのか……随分と人に慣れた猫だ。近くに住む猫でしょうか」
その問いに──神谷は片眉を上げ、首を傾げた。
「猫……ですか?」
「えぇ、ちょうど神谷殿の足元に──」
源一郎は神谷の足元を指差した。三毛猫は相変わらず神谷の足にすり寄り、尻尾をゆらゆらと揺らしている。
だが、神谷は少し訝しげな顔で周囲を見回した。
「えぇと……どこにも猫などおりませんが?」
「……え?」
源一郎は一瞬固まった。三毛猫は確かにそこにいる。神谷の足元で、のんびりと寛いでいる。だが、神谷にはそれが見えていない。
──しまった。
源一郎は内心で舌打ちした。うっかりしていた。この猫は普通の人には見えぬ存在──霊であったらしい。
「あ、いや……」
源一郎は目頭を揉みながら、慌てて取り繕った。
「申し訳ない、見間違いだったようだ。幻が見えたのかもしれん」
「幻、ですか」
神谷は不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。その代わりに、人の良さそうな笑みを浮かべた。
「確かに今日は特に暑かったですからな。私も時々、変なものが見える気がします」
「ははは……そうですな。暑さで目がやられたか……」
源一郎は乾いた笑いを浮かべた。三毛猫は一頻り身を擦りつけると気が済んだのか、ゆっくりと道場の庭の方へ歩いていく。その姿が木陰に溶け込むようにして、ふっと消えた。
──あれは何だったのか……
源一郎は心の中で首を傾げた。神谷に懐いているようだったが……神谷に憑いている守り猫──守護霊の類か、あるいは別の何かか──。
「渡辺殿?」
辰蔵の声で、源一郎は我に返った。
「あ、ああ、申し訳ない。少しぼんやりしていた」
「お疲れですかな?暑い日が続いていますからなぁ、気をつけなくては」
「はは、これは見苦しいところを見せた」
源一郎は立ち上がった。
「──では、神谷殿。私はこれにて」
「えぇ、ではまた。今日はありがとうございました」
道場の門前にて神谷と別れる。両者共に頭を下げ──源一郎は道場を後にした。夕暮れの神田の町を歩きながら、ふと振り返る。
──道場の門前に、既にその姿はない。
夕陽が町並みを照らし、源一郎の影が長く伸びていく。本所への帰路、源一郎の胸には、言葉にならぬ妙な予感が燻っていた。




