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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
一章 深川夜盗捕物
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第四話


 暮六つの鐘が鳴る頃、源一郎は再び深川へと向かった。


 夕暮れの江戸は昼とはまた違う表情を見せる。西の空が茜色に染まり、町全体がその色に包まれていく。商家の格子戸が次々と閉まり始め、一日の商いを終えた人々が家路につく。提灯に火が灯され、町のあちこちに小さな明かりが点り始めると、昼の賑やかさが嘘のように町は徐々に静けさを取り戻していく。


 「夕方の帰宅ラッシュ」の時間帯だろうか。だがここにはあのある種の祭りじみた喧騒はない。人々はゆっくりと家に帰り夕餉を取り、一日の疲れを癒す。時間の流れが前世とは違う。日の動きと共に一日が過ぎる江戸の暮らしは、もっとゆっくりでもっと穏やかだ。


 源一郎は本所から深川へと続く道を歩きながら夕暮れの町を眺めた。川風が心地よく頬を撫でる。隅田川からの風は昼の暑さを忘れさせてくれる涼しさを運んでくる。遠くで犬が吠え、どこかで子供の笑い声が聞こえる。夕餉の匂いがあちこちから漂ってくる。味噌汁の匂い、魚を焼く匂い、煮物の匂い。


 ああ、この匂いだと源一郎は思った。前世ではこんな匂いを感じることはなかった。皆が同じ時間に同じように食事をする。それが当たり前の光景として町全体に広がっている。この一体感のようなものが江戸という町の温もりなのかもしれないと感じていた。


 空の色が刻一刻と変わっていく。茜色が藍色に変わり藍色が徐々に闇へと溶けていった。町の輪郭がぼやけ始め、建物の影が長く伸びていく。──夕暮れと夜の境目。人と、あやかしの世界が交わる時間。源一郎の胸が少し高鳴る。


 丸屋の近くに辿り着くと、すでに熊造が待っていた。


 路地の角で何気ない風を装って立っている。だが、その目は鋭く周囲を観察している。さすがは場数を踏んだ岡っ引だと源一郎は思った。張り込みの基本は目立たないこと。怪しまれないこと。そして油断しないこと。熊造の立ち姿からはその全てが感じられる。


「若旦那」


 熊造が小声で呼びかけてきた。


「待たせたな」

「いえ、あっしも今来たところで」


 熊造は周囲を見回してから続けた。声は低く抑えられているが芯の通った響きがある。


「丸屋の様子を見てきやした。今は店じまいの最中で番頭の与三郎が指示を出してやす」

「手代たちは」

「吉蔵と清次は倉の周りをうろついてやした。何か確認してるような様子でしたね」

「もう一人は」

「若い手代らしき者も一緒でした。三人で何か話し込んでやしたよ。顔は見えませんでしたが……動きからして、まだ年若い男でしょう」


 源一郎は頷いた。やはり三人組か。賭場の者の話とも合致する。そして、今夜も恐らく盗みを働くつもりなのだろう。聞き込みで得た情報が少しずつ繋がっていく。


「今夜も来るか」

「へい、間違いなく」


 熊造は確信を持って言った。その声には長年の経験から来る自信が滲んでいる。


「あっしの勘ですが、連中、今夜が最後のつもりかもしれやせん」

「最後」

「へえ。もう十分盗んだからこれ以上続けると怪しまれる。そう考えてるんじゃないかと」


 源一郎は少し考えた。確かに三晩続けて盗みを働けば、いくら妖怪の仕業だと思わせてもそろそろ本格的な調査が入る。実際、火付盗賊改方が動き始めた。ならば今夜盗んだら一旦止める。そういう判断はごく当然にあり得る。犯罪者なりの論理と打算。人間というものはどこまでも計算高い生き物だ。


「ならば今夜現場を押さえる。必ず」

「へい」


 ──熊蔵に言って、丸屋の番頭に待ち伏せすることを伝えて貰い、裏口を開けて貰った。そこから庭へと入り、倉から少し離れた場所に身を隠す。


 庭木の影、建物の陰。そこから倉の様子を伺える位置だ。石畳の冷たさが足の裏から伝わってくる。夜の冷気が肌に触れ体温を奪っていく。だが集中力は研ぎ澄まされていく。


 茜色だった空が藍色に変わり漆黒へと沈む──完全な夜の帳が降りた。丸屋に灯された提灯の明かりが闇の中でより一層際立つ。塀の外、遠くで三味線の音が聞こえ、誰かが歌う声が風に乗って流れてくる。夜の江戸がゆっくりと目を覚ます。町の表情が昼とは全く違うものに変わっていく。


 源一郎は夜の空気を深く吸い込んだ。炭火の匂い、川の匂い、夜露の匂い。そして──人でない存在の気配。人には感じられない、その存在を源一郎だけが感じ取る。江戸の町に満ちる空気が変わっていた。これより先は魑魅魍魎たちが動き出す時間──。


 そして、宵の口を過ぎた頃。


 空気の流れがわずかに変わったのを源一郎は感じた。視線の先で、人ではない影が不自然に動きだす。


 §


 そこに現れたのは所謂、唐傘お化けだった。


 屋根の上をふわりふわりと漂い、カツカツと下駄の音をたてながら倉の方へと近づいてくる。大きな目玉が一つ、暗闇の中で源一郎を見つけて嬉しそうに瞬きした。破れた番傘の体に一本足という奇妙な姿だが、源一郎にとっては見慣れた友人の姿だ。


「おや──源一郎さん、源一郎さん」


 唐傘お化けが小さな声で呼びかけてきた。その妖怪の声は源一郎にしか聞こえない。熊造は隣にいるが何も気づいてはいなかった。


 源一郎は少し熊蔵から離れた。


「ああ、久しぶりだな」


 源一郎は小声で答えた。独り言のように見えるだろうが構わない。もう慣れたものだ。


「こんな所で何をしているんです?」

「今日から勤め人だ。盗みの下手人が来るのを待っている。唐傘、ここらで何か怪しい奴らを見てないか?」

「あぁ、見ましたよ。そういえば今夜も来るんですかね。あの人間たち」

「見たのか」

「ええ、三日前と二晩前と昨夜も、三人の人間があの屋根の隙間から中に入っていきました。面白い光景でしたよ」


 唐傘お化けがバサバサと楽しそうに揺れる。


 源一郎は身を乗り出した。やはり違和感のあった屋根からか。


「詳しく教えてくれ。どうやって入った」


 少し離れた場所で、熊造が不思議そうに源一郎を見ている。誰もいない空中に向かって話しかける源一郎の姿。熊造は源一郎の父である先代から、息子のことは聞いていた。曰く、「人には見えない存在──妖怪や幽霊が見える」という話も。だが実際に目の当たりにすると、どうにも戸惑いを隠せない。本当に何かが見えているのか。それとも──。


 だが、熊造はすぐに気を取り直した。先代の話を信じる。ならば若旦那も信じる。それだけのことだと。


「あの倉の屋根瓦、簡単に外せるようになってるんです。人間は器用ですねえ。私には手がありませんので、少し羨ましいです」


 唐傘お化けが倉の屋根を傘の先で指した。


「それで、三人で協力して瓦を外して、屋根裏の木板をずらして入っていったんです。音を立てないようにとても慎重に」

「屋根裏から」

「ええ。それで倉の中に降りて、反物を盗んでまた屋根から出ていくんです。実に手際が良い」

「倉の外に足跡が残らないわけだ」


 源一郎は納得した。倉の入り口からではなく屋根から出入りすれば地面に足跡は残らない。鍵も関係ない。わかってみれば簡単で陳腐な密室トリックだ。前世の推理小説にもこんな手口があったような気がする。


「それで瓦を元に戻して誰にも気づかれないようにする」

「ええ。でも私らには見られてるんですよね」


 唐傘お化けが楽しそうに言った。その声には悪意はなく、ただ純粋な好奇心だけがある。


「人間って面白いですね。妖怪のせいにして自分たちで盗むなんて。私たちは盗みなんてしないのに」

「ああ、まったくだ」


 源一郎は苦笑した。妖怪は盗みなどしない。盗むのはいつも人間だ。そして、人間は何かあれば自分の罪を人でない存在──あやかし達のせいにする。実に身勝手な生き物だと思う。前世でも今世でも、人間の本質は変わらない。


「三人はどんな服装だった」

「目立たない黒い着物です。顔も手拭いで隠してました。でも体格や動きは特徴的でしたよ」

「ふむ……何時頃だった」

「九つ頃でしょうか。夜が深くなってから。人間が皆寝静まった頃です」

「番人は」

「気づいてませんでしたね。屋根の上ですから。下から見てもわかりませんよ。人間の目って不便ですね。おまけに番人も、居眠りしてましたし」


 源一郎は頷いた。これで全てが繋がった。下手人は内部の者。吉蔵と清次そして若い手代。三人で共謀して屋根から倉に侵入し反物を盗んでいた。妖怪の仕業に見せかけるために鍵を壊さず、足跡も残さず、ただ品物だけを持ち去る。人間の浅知恵だが、妖怪が見ていなければ完璧な犯行だっただろうに。


「ありがとう、助かった」

「どういたしまして。源一郎さんのお手伝いができて嬉しいです」


 唐傘お化けは嬉しそうに揺れた。


「今夜も来たら教えてくれるか」

「ええ、もちろん。屋根の上から見張ってますね」

「あぁ、頼む」


 唐傘お化けは屋根の上を漂いながら倉の周辺を見回り始めた。妖怪の監視網。これほど頼りになるものはない。防犯カメラもない、監視システムもない、この時代で妖怪という存在の目は最高の情報源だ。


 源一郎は熊造に小声で言った。


「屋根から入ってくる」

「へ、へぇ……屋根から」


 熊造は驚いた顔をした。その表情には感心と疑問が半々で混ざっている。


「瓦を外して屋根裏から倉の中に入るようだ」

「なるほど……だから足跡がないんですね。上から入れば地面を踏まない。頭のいい奴らだ」

「ああ九つ頃に来るだろう」

「では其奴の時を待ちますか」

「ああ、だが油断するな。三人で来る筈だ」

「へい。承知しやした」


 二人は再び闇に身を潜めた。夜は更に深くなり、町は静けさに包まれていく。遠くで犬が遠吠えをし、風が木々を揺らす音が聞こえる。月が雲間から顔を出し、町をぼんやりと照らす。銀色の光が瓦を照らし影を濃くする。


 時折巡回の自身番が提灯を持って通り過ぎる。火の用心という掛け声と共に鳴らされる、拍子木の音が夜の静寂を破る。カンカンという乾いた音が闇に響く。だがそれも遠ざかると再び静けさが戻ってくる。江戸の夜は本当に静かだ。前世の都会の夜とは比べ物にならないほどに。


 源一郎は夜空を見上げた。星が瞬いている。前世ではこんなに星が見えることはなかった。都会の明かりが星を消していたからだ。だが、ここでは夜は本当に暗い。行灯や提灯の明かりはあるが、それは町全体を照らすほど明るくはない。だからこそ、星がこんなにも美しく見える。


 天の川が空を横切り無数の星が輝いている。夏の大三角──織姫と彦星そしてデネブ。前世で覚えた星座の知識がこんなところで役に立つとは思わなかった。


 前世とこの世。どちらが良いかなど比べることはできない。どちらにもそれぞれの良さがある。だが今、源一郎はこの江戸の夜の方が好きだと思った。暗くて静かで、だが血の通った温もりのある夜。人々が寝静まり、不思議な、あやかしたちが動き出すこの時間が。


 隣の熊造は微動だにせず倉を見つめている。その集中力は見事なものだ。長年の経験が培った忍耐力。これが岡っ引という職業の本質なのだろう。


 時間がゆっくりと流れる。待つということは苦痛でもあり、修行のようでもある。源一郎は前世のせっかちな性格を思い出した。あの頃はこんなに長く待つことなどできなかっただろう。


 だが、この江戸での二十五年の人生が源一郎をいつの間にか変えていたのだ。

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