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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
三章 神田剣鬼影払
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第五十七話


 その日、源一郎は数日ぶりに神田の誠道館を訪れた。


 門をくぐる──その日は用事を済ませ午後からの参加となった。竹刀を打ち合う音、気合の声。熱気と汗の臭いが道場に満ちている。


 源一郎は入り口で足を止め、稽古の風景を眺めた。そこに、見覚えのある大柄な男の姿が目に入った。


 ──神谷伝兵衛。


 先日の道場破り──もとい他流試合を申し込んだ浪人が、門下生の一人と立ち合いをしている。竹刀と防具を身に着け、高く上段に構えていた。直心影流の基本の構え。頭上に剣を掲げ、全身で気を練り上げる姿は堂に入っている。


 門下生が打ち込む。神谷はそれと息を合わせ、相打ちになるように一拍子で面を打った。神谷の振り下ろしの方が早い──。面を打つ鋭い音が響く。


「やめッ!」


 鷹取の声が響く。門下生は肩で息をしながら、神谷に頭を下げた。


「ありがとうございました」

「うむ。打ち込みは悪くない。だが、少し力みすぎだ。もう少し肩の力を抜いて、呼吸を整えてから打ち込め。直心影流でなくとも、呼吸は大事だぞ」


 神谷は穏やかな口調で助言している。道場破りの時の剣呑な雰囲気とは違い、門下生に対して丁寧に接していた。


 ──案外面倒見の良さそうな男だな。


 源一郎は心の中で呟いた。道場破りの時は鼻息が荒かったが、こうして見ると、指導者としての素養もあるように見えた。


「ん、渡辺殿。しばらくですな」


 源一郎に気づいた鷹取が歩み寄ってきた。


「中々来られず申し訳ありません。少し、家の用事がありましたので。今日は神谷殿が稽古に参加しているようですね」

「うむ。見ての通り、あれから神谷は毎日顔を出しておる。して、師範代の身内に不幸があってな……当分の間は来れないそうだ。その代わりの指導役に神谷が入ってくれている」

「そうでしたか」


 聞けば、祖父が亡くなったのだという。この時代、忌引きの期間は未来のそれよりも長い。どの身内によるかによっても変わるが、だいたい一週間から約二月の期間は屋敷に籠もらなければならない。


 所謂、穢れの思想が現代よりも強かったからだ。源一郎も父──藤治郎が亡くなった際に忌み籠もりをし、ただひたすらに暇をしていたことを覚えている。


 源一郎は神谷の方を見やった。神谷は別の門下生と立ち合いを始めていた。


「なかなかの男だぞ、あれは」


 同じく神谷の剣を見ていた鷹取が言った。


「門下生たちにも気さくに声をかけておるし、稽古も熱心だ。素性こそよく分からんが、剣に向き合う姿勢は本物」

「そのようですね」

「……仕官の口があれば良いのだがな。あれほどの腕があれば、どこぞの藩の剣術指南役として仕えても恥ずかしくない。だが、今の世、仕官の口などそうそうあるものではないからな……」


 鷹取は腕を組んだ。その表情は悩ましげだ。


「浪人というのは辛いものよ。腕があっても、縁がなければ食い詰めるしかない。神谷もいつまでここに置いておけるか分からん」

「それはどうにも悩ましい問題のようで……口入れ屋はありますが、足軽や若党の雇われと言っても期限付きが精々ですからね……」

「うぅ、む……すまん。どうにも明るい話題ではなかったな」


 鷹取は苦笑した。──その時、神谷がこちらに気づいた。立ち合いを終え、防具を外しながら歩み寄ってくる。


「鷹取殿。皆には休憩に入って貰いました」

「あぁ、神谷殿、すまないな。」

「いえ、離れに居候させて頂いている身です。私には、これくらいしかできませぬが……」


 神谷は頭を下げた。


「そう硬くならずともよい。本当に助かっているのだ」

「であれば、よいのですが。──ところで、そちらの方は噂の?」


 以前とは印象がやや異なる──神谷は人好きするような顔で笑った。だが、すぐに表情を引き締め、その視線を源一郎へと向けた。


「あぁ……話すのは初めてであったか、此方は客分として指導に参加して貰っている渡辺殿だ」

「渡辺殿、お初にお目に掛かる。私は神谷と言う。先日はお騒がせ申した。どうにも雰囲気の異なる御仁がいると気になっていたのだ」

「渡辺です。そうでしたか。いつも来れるわけではありませんが、客分として稽古や指導に入らせていただきますので、どうぞよしなに」

「──分かり申した。渡辺殿はたしか、火盗改の与力であるとか。それに何でも……鷹取先生に勝るとも劣らない剣の腕と聞き及ぶ。──ぜひとも、私もお手合わせ願いたいと思っていたところです」


 神谷の目には闘志が宿っていた。神谷は鷹取に聞いていたのだろう──源一郎がどれほどの剣の使い手かを。しかし、それは俄には信じられない話でもあったのだろう。その目には、自身の目で確かめてやるという気概が見て取れた。


 源一郎は少し考えた。あえて断る理由はない。むしろ、源一郎にとっても直心影流の剣を間近で見る良い機会ではある。


「──承知しました。ではお手合わせお願いします」

「よろしくお願い致す」


 神谷の顔に獰猛な笑みが浮かんだ。


 §


 防具を身に着けた二人は道場の中央で向かい合った。


 いつの間にか、門下生たちが道場の壁際に居並んでいた。その中には辰蔵の姿もある。皆、固唾を呑んで二人を見守っている。道場主である鷹取をも凌ぐとされる火盗改。対するは、諸国を修行して回った直心影流の剣士──この立ち合いを見逃す手はないと。


「勝敗は二本先取で行う。では、双方共に礼」


 鷹取の声。源一郎と神谷は互いに礼をし、構えを取った。


 神谷は竹刀を上段に構えた。直心影流の基本形。両腕を高く掲げ、剣先を天に向ける。全身に気を満たし、呼吸を整える。


 源一郎はその構えを見つめた。


 ──直心影流。


 直心影流は、単なる剣術の流派ではない。「法定」と呼ばれる型──「一刀両断」「右転左転」「八相」「長短一味」──を通じて、呼吸と足運び、心身の統一を練り上げる。その極意は技術ではなく、心技体の一致を目指す精神性の高さにある。「直心」とは偽りのない、ありのままの心。迷いや雑念を捨て、鏡のように相手を映し出す明鏡止水の境地。


 神谷の構えには、その精神が宿っていた。上段に掲げた剣は揺るがず、呼吸は深く、全身に気が満ちている。だが──源一郎はそれを見て、静かに思った。


 ──強い。だが……


 源一郎は正眼に構えた。一刀流の基本。切先の延長を相手の正中に向け、攻防一体の姿勢を取る。そして──源一郎は自らの剣に意識を潜らせた。


 剣禅一如。万水映月。無念無想──剣士が目指す果てであり、一つ目の頂。源一郎の剣は既にその領域にある。


 二人の間に張り詰めた空気が流れた──。


 神谷の呼吸が深くなる。息を吸い、吐き、吸い、吐く。直心影流独特の呼吸法で、腹の底から力を練り上げている。その呼吸に合わせて、全身に気が満ちていく。気勢が高まっていく。


 ──来る。源一郎は神谷の動きを読んでいた。呼吸の間隔、足の位置、肩の角度、筋肉の微細な動き。その全てが、次の動きを示している。神谷が動いた──。


「ハアアァァァ──!」


 裂帛の気合と共に踏み込む。上段からの振り下ろし。直心影流の真髄──全身の力を一刀に込め、相手を一撃で切り伏せる必殺の剣。


 速い。そして、重い。確かに鷹取が言うだけのことはある。しかし──源一郎には、その剣が酷く遅く見えていた。軌道が見える。神谷の剣が振り下ろされる。源一郎の身体が自然と動く──。


 切り落とし──相手の振り下ろしに合わせて、自らも剣を切り込ませる。だが、ただの相打ちではない。僅かに軌道をずらし、相手の剣を鎬で擦り上げながら逸らし、そのまま正中を切り下ろす。


 一刀流の基本にして奥義。攻防一体の技。ゆっくりと竹刀が擦り合わされる──。


 神谷の竹刀が正中から逸れた。渾身の一撃があっさりと軌道を外される。その瞬間、源一郎の竹刀が神谷の面を捉え、そのまま下段まで切り下ろした。


「一本!」


 鷹取の声が響いた。


 神谷は目を見開いていた。全力で打ち込んだ。間違いなく、自分にできる最高の一撃だった。呼吸を整え、気を練り、全身全霊を込めた。なのに──上段から繰り出された渾身の一刀は、あっさりと源一郎の剣に競り負けた。


 しかも、源一郎の動きには力みがない。水が流れるように自然で、まるで最初からそうなることが決まっていたかのように。ともすれば周囲からは相打ちに見えたかもしれない──。だが、神谷には分かる。これが真剣であれば、死んでいたのは自分だけだと。


「……もう一番、お願い致す」


 神谷は声を絞り出した。


「いつでもどうぞ」


 源一郎は静かに構え直した。


 二本目──。今度は神谷が慎重に間合いを詰めた。上段のまま、じりじりと距離を縮める。呼吸を整え、相手の隙を窺う。


 源一郎は動かない。正眼の構えのまま、神谷を待っている。その構えは、先日の鷹取と大きな違いはない。同じ一刀流の正眼。だが──。


 ──何だ、これは。


 神谷の額にジットリと汗が浮かんだ。打ち込めない。どこに打っても、逆に斬られる。どうやっても自分の剣が届かない──。圧も殺気も感じないのに、そんな予感が全身を縛り付ける。鷹取と立ち合った時とは異なる妙な感覚だった。


 鷹取には確かな壁があった。高い壁だが乗り越えられる可能性を感じられた。だが、この男は──。


 ──だが、ここで引くわけにはいかない。


「ゼアァ!!」


 神谷は深く息を吸い、腹の底から声を出し気を練り上げた。直心影流の呼吸法。恐怖や迷いを捨て、真っ直ぐな心で当たる。それが「直心」の教えなのだから。


 神谷は再び上段に構えた。


 先ほどは切り落としで競り負けた。ならば──相手の竹刀ごと叩き落とす。直心影流の剛剣で、正眼の構えを力で打ち砕く。──神谷が動いた。


「──ドリャァァッ!!」


 道場に鳴り響く気合い──からの渾身の打ち下ろし。源一郎の竹刀目がけて、全身の力を叩きつける。正中を守る剣ごと、叩き伏せる一撃。


 轟音が響いた。神谷の竹刀が、源一郎の竹刀を打ち据える。凄まじい衝撃。並の剣士なら、構えごと崩されていただろう。


 だが──源一郎の竹刀は沈まなかった。


 一瞬、押し込まれる。だが、すぐに戻ってくる。『浮き木』──水に浮かんだ木を押さえても、くるりと回転して浮き上がるように。源一郎の剣先がするりと正中に戻った。


 神谷は歯噛みした。正攻法では届かない。剣では勝てない──ならば。


 神谷の目に獣のような光が宿った。直心影流は剛の剣。力と気迫で相手を圧倒する剣術だ。ならば、その根幹にあるのは何か──身体そのもの、肉体の力だ。竹刀を振りかぶるように見せかけ、そのまま一気に間合いを潰す。


「──オオォォォッ!!」


 組討──竹刀を交差させたまま、相手を押し倒す技。本来の剣術からは外れた、荒々しい力任せの技だ。だが、実戦においては珍しくない。真剣勝負で鍔迫り合いになれば、そのまま組み合いに移行することも多い。


 神谷が源一郎にぶつかった。六尺近い巨体から繰り出される圧力は凄まじい。並の剣士なら、そのまま弾き倒されていただろう。


 しかし、一方の源一郎の身体もまた六尺ほど。徐々に押し込まれる──。周囲から息を呑む声が漏れた。門下生たちが固唾を呑んで見守る中、神谷は更に圧力をかけた。


「ヌゥゥゥ……ッ!!」


 神谷が唸る。地を踏みしめ、全身の力を込めて押し込む。じりじりと、源一郎の身体が後退していく。竹刀を交差させたまま、神谷は更に体重を乗せた。このまま押し倒す。組み伏せて打つ。剣で敵わぬなら、この体術も交え──。


 だが──そこで源一郎の足が止まった。押しても、動かない。まるで大地に根を下ろした巨木のように、源一郎はそこに立っていた。


「……何っ」


 神谷が目を見開いた。なぜ押し切れない。


 源一郎は静かに息を吐いた。押し合いの中、表情一つ変えていない。そして──神谷は気づいた。源一郎の重心が、僅かに沈んでいることに。


 柔術の理。力を真正面から受けるのではなく、重心を落として地に流す。押されているように見えて、源一郎は力を逃がしていたのだ。


「くっ……ならばッ!!」


 神谷は更に踏み込んだ。足を絡め、体を預けるようにして圧し倒す。相撲のような荒々しい力技だが活かさない手はない。源一郎の体勢が崩れかける。


 その瞬間──源一郎が動いた。僅かに身を沈め、体を開く。神谷の力を受け止めるのではなく、横に流す。押されるままに後退しながら、神谷の重心を引き出す。そして──。


 源一郎が鍔迫り合い中──神谷の柄を跳ね上げた。そのまま片腕で襟首を掴む。


「しまっ──」


 気づいた時には遅かった。源一郎は肘を内側に入れ、身体を屈めて反転──身体を捌いた。引き込みながら己の腰に乗せて投げる──神谷の体が宙を舞う。柔術の投げ技。


 ドォン──と轟音が響いた。


 神谷の背中が道場の床を打つ。衝撃で息が詰まる。受け身を取る暇もなかった。だが、それでも神谷は竹刀を離さなかった。執念のように握りしめたまま、すぐに起き上がろうとする。


 しかし──遅かった。


 源一郎は神谷が倒れると同時に、既に動いていた。投げ落としから、既に竹刀を構えている。一瞬の淀みもない。まるで、この展開を最初から読んでいたかのように。神谷が顔を上げた瞬間、源一郎の竹刀が振り下ろされた。


 スターンッ──と鋭い音が響いた。


 倒れた神谷の面を、源一郎の竹刀が捉えていた。完全な追い打ち。仰向けに倒れた神谷を見下ろしながら残心する形で、源一郎は静かに立っていた。


「二本!それまでッ!」


 鷹取の声が道場に響いた。


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組み討ちとは容赦ないなw
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