第五十六話
平蔵との話を終え、源一郎は与力部屋に移ることにした。
夏の陽射しが庭木の緑を鮮やかに照らしている。百日紅の紅い花が咲き誇り、木の幹には蝉の抜け殻が付いているのが見えた。
源一郎は縁側の日陰に腰を下ろし、暫し涼を取っていた。庭を眺めながら、神田の道場のことを考える。辰蔵の成長。鷹取先生の指導。そして、神谷という男──。
何か引っかかるものがあった。考えすぎだろうか。
「あ、渡辺殿!本日もお役目ご苦労様です」
声がして目を向けると、辰蔵が庭から小走りに駆け寄ってきた。手には巻かれた紙を持っている。相変わらず細身でどこか頼りない体つきの、真面目そうな青年だ。だが、その表情はどこか晴れやかだった。
「辰蔵殿──。今日は道場お休みでしたか」
辰蔵の言葉に、源一郎は自然に返した。この時間帯に役宅で顔を合わせるのは珍しい。
「はい。今日は父上に頼まれた用事がありまして」
「そうでしたか……それは?」
ふと、源一郎は辰蔵の手にある紙に目を留めた。
「あ、これですか。父上に頼まれていた書状の清書です。これから届けに参るところでした」
辰蔵は少し照れたように紙を掲げた。それは、つい先ほど平蔵が言っていた書状の清書であろうか。
「剣の腕は中々上がりませんが、こういう仕事なら多少は役に立てますので」
その言葉には自嘲が混じっていたが、卑屈さはなかった。自分の得意なことで役に立てることへの、素直な喜びが滲んでいる。
「よろしければ少し見せてもらっても構いませんか」
「え?ああ、はい。どうぞ」
辰蔵が差し出した紙を源一郎は受け取って広げた。そして驚いた。
そこにあるのは──見事な字だった。
楷書の端正な筆運び。一画一画に迷いがなく、墨の濃淡も絶妙だ。武士の書く実用的な書というより、額縁に飾る書家の作品と言っても通るほどの腕前だった。筆圧の強弱、文字の大小、行間の取り方──全てが計算され尽くしている。
「これは……素晴らしいですね」
源一郎は素直に感嘆した。前世で見た書道の作品と比べても、遜色ないどころか、それ以上かもしれない。
「世辞でも嬉しいです」
「世辞ではありません。私にはこうは書けません」
源一郎は正直に言った。前世で字を書く機会は多かったが、それでもキーボードを叩くことが主であって、筆を握ることではなかった。この世に転生してから筆を持つようになり、大分慣れたが未だに源一郎の字は拙い。読めはするが美しいとは到底言えない。
「本当ですか?」
辰蔵の顔がぱっと明るくなった。その表情は、道場で稽古に励む時とはまた違う、純粋な喜びに満ちていた。
「母上に厳しく仕込まれましたので。毎日、何刻も筆を握らされて……剣の稽古より余程辛かったです」
「その甲斐あって、見事な腕になったのではないですか」
「ありがとうございます」
辰蔵は嬉しそうに紙を受け取った。
「実は……渡辺殿にお見せするのは少し恥ずかしかったのです」
「何故です」
「渡辺殿は剣の達人でいらっしゃいます。剣の才のない私が、筆の腕を誇るなど……」
辰蔵は俯いた。その言葉には、複雑な思いが込められていた。
「それは違うと思いますよ」
源一郎は静かに言った。
「剣の道と筆の道、どちらが上ということはありません。どちらも極めれば一つの道です。辰蔵殿の書は、剣で言えば免許皆伝に値するほどのものなのでしょう」
「そ、そこまでは……」
「本当のことです」
源一郎は辰蔵を見つめた。剣の才はなくとも、この若者には別の才がある。書の道で名を成す日が来るかもしれない。いや、それだけではない。
「それに、辰蔵殿には剣においても得難いものがあります」
「私に、ですか?」
「粘り強く、諦めない心です」
辰蔵の目が見開かれた。
「何度打たれても立ち向かってくる。恐れずに挑み続ける。それは才能以上に大切なものかと。私が道場に通い始めた頃、他の門下生たちは私を恐れていました。だが、辰蔵殿は恐れなかった。それが、周囲の者たちの心を変えたのです」
「そう……なのでしょうか」
「えぇ。辰蔵殿が恐れずに立ち向かう姿を見て、他の者たちも続きました。今の道場の活気は、辰蔵殿のおかげでもあるのですよ」
辰蔵は暫く黙っていた。その目には驚きと、そして何かを噛み締めるような色が浮かんでいた。
「……ありがとうございます。渡辺殿にそう言っていただけると、励みになります」
「それならば何よりです」
源一郎は微笑んだ。辰蔵もまた、照れたように笑った。
「渡辺殿は、どうして剣をお始めになったのですか」
辰蔵が不意に訊ねた。
「私ですか。物心ついた頃には、既に父に仕込まれておりました。渡辺家に伝わる鬼切流という剣術を。それから、本所の道場にも通い始めて……」
源一郎は言葉を止めた。本所の道場のことを思い出す──少し、苦い記憶。
「何かあったのですか」
「いえ。少々、苦い思い出がありまして」
「すみません。立ち入ったことを」
「いえ、構いません」
源一郎は首を振った。
「子どもの頃、本所の道場で免許皆伝を授けられた後、来るなと言われたのですよ」
「え……」
辰蔵の顔に驚きが浮かんだ。
「他の門下生の稽古の妨げになると。我ながら強かったですから。心情的に受け入れられなかったのでしょう」
「そんな……」
辰蔵は言葉を失った。その表情には、源一郎への同情と、そして何か別の感情も見えた。
「私は……渡辺殿の剣を忌避することはありません」
辰蔵は真剣な眼差しで言った。
「確かに、何度打たれても敵わない。初めこそ、死を見せられるような恐ろしさもありました。でも……それ以上に、憧れの方が強かったのです」
「憧れ、ですか」
「はい。あんな剣を振れるようになりたい。少しでも近づきたい。そう思いました」
辰蔵の声には、純粋な熱意が込められていた。
「それに、渡辺殿は……私のような未熟者にも、真剣に向き合ってくださいます。手を抜かず、高い壁を見せてくれる」
「……」
「剣の道の高みを──私のような未熟者に、どう歩むべきか。どうすれば成長できるのか。──そういう心遣いが、伝わってきます」
源一郎は驚いた。稽古の中で、辰蔵がそこまで感じ取っていたとは思わなかった。
「……買い被りすぎですよ」
「いいえ。本当のことです」
辰蔵は首を振った。
「道場の皆も、同じことを言っておりました。渡辺殿と稽古をすると、自分に足りないものが分かる。次に何をすべきかが見える。それは、ただ強いだけの人には出来ないことです」
源一郎は黙っていた。鷹取に言われた言葉を思い出していたのだ。
『渡辺殿は手加減を覚えた。頂に立ちながら、下にまで降りてくるようになったな』
あの時は、そういう風に映るものかと思っていた。だが、今は──少しだけ、その言葉の意味が実感できる気がした。
「辰蔵殿──ありがとうございます」
「い、いえいえ!若輩者が偉そうなことをっ!申し訳ありませんっ」
源一郎が頭を下げると辰蔵は慌てた。
「──で、では、私はこれにて。父上に書状を届けに行かねばなりませんので」
「えぇ、ではまた道場で」
「はい!またご指導よろしくお願いいたします!」
辰蔵は恥ずかしそうにすると、一度深く頭を下げ去ってゆく。源一郎はその辰蔵の背を見送ったのだった。
§
午後──その足で、源一郎は赤坂へと向かった。
豊川稲荷の分霊を勧請するため、まずは参詣所で手続きを進めなければならない。屋敷に祠を建て、お鈴に憑いた狐を落とすことなく教育する──そのための準備だ。
赤坂の町を抜け、豊川稲荷の参道に入る。朱塗りの鳥居が連なり、その奥に社殿が見えた。夏の昼下がり、暑い時間帯ということもあってか、参拝客の姿はまばらだ。
蝉の声が降り注ぐ中、参道を歩く。鳥居は神の領域との境界──その境界をくぐるたびに、空気が変わっていくのを感じる。神域の清浄な気配。それは源一郎の妖を見る目には、より鮮明に感じられた。
豊川稲荷の本尊は荼枳尼天──稲荷神と習合した仏教における天部の神だ。江戸では大岡越前守忠相の信仰で知られ、その屋敷内に勧請されたのが赤坂の豊川稲荷の始まりと伝えられている。
源一郎は参詣所を訪れ、僧侶に分霊勧請の意向を伝えた。手続きは思いのほか簡素だった──。まずは本山に願文を送り、返事を待つ形になるという。
「本山からの返事が届くまでは、ひと月ほどかかるでしょう」
僧侶は穏やかな声で告げた。急ぎではないとは言え、それなりに時間が掛かるようだ。
それから、祠の建立、勧請の儀の日取り、供物の準備──必要な事柄を一つ一つ確認した。矢立と野帳を取り出す。源一郎の字はそれなりだ。しかし、辰蔵の見事な書を見た後では拙く感じられた。
全ての手続きを終え、野帳から頭をあげた時──。
「──渡辺殿」
どこからともなく、声が聞こえた。周囲を見回すが、人の姿はない。だが、その声には聞き覚えがあった。豊川稲荷に棲まう神使の声だ。
「神使殿か」
小さく呟くと、社殿の影から一匹の白狐が姿を現した。真っ白な毛並みに金色の瞳。その姿は神々しく、普通の人の目には見えぬ存在。
「勧請の手続き、聞いたよ。お鈴さんの狐のこと、私たちに任せてくれるんだね?」
「えぇ。先日のお話の通りに」
源一郎は懐から油揚げの包みを取り出した。参詣所に来る前に、道すがら買い求めておいたものだ。
「これは手土産です」
「おや、いつも気が利くねえ」
白狐は嬉しそうに鼻を鳴らし油揚げを受け取った。神使だというのに、その仕草はどこか愛嬌があった。
「勧請の儀が済んだら、私の配下を一匹、そちらに遣わすよ。真面目で躾上手だ。若い狐の教育係にはちょうどいい」
「それは助かります」
白狐は油揚げを一口齧り、満足げに尻尾を揺らした。
「祠ができたら、知らせておくれ。勧請の儀には私も顔を出すからさ」
「分かりました。その時はよろしくお願いします」
「ふふ。頼まれたよ、渡辺殿」
白狐は尻尾を一振りすると、社殿の影へとするりと消えていった。
源一郎は深く息を吐いた。
これで、勧請の段取りは整った。あとは祠を建て、儀式を執り行えばいい。狐が落ち着けば、お鈴の夢見も良くなるだろう。
源一郎は豊川稲荷を後にした。大工の手配、祠の材料の調達、お鈴への説明──やるべきことは多い。だが、一つずつ片付けてゆくしかない。
豊川稲荷を後にする──夏の陽射しは相変わらず容赦なく、汗が額を伝い落ちる。だが、源一郎の足取りは幾分か軽かった。辰蔵との会話、白狐との約束。今日一日で、いくつかのことが前に進んだからだ。
源一郎は足を速め、本所への道を歩き始めた。入道雲が夏空に高く聳えていた。




