第五十五話
翌朝、源一郎は本所の屋敷を出て、麻布の火盗改役宅へと向かった。
夏の盛りである。朝とはいえ陽射しはすでに強く、空気は湿気を含んで重い。両国橋を渡る頃には汗が額を伝い落ち、衿首を伝って背中にまで流れていた。
大川の水面が朝日を受けて煌めいている。橋の上からは、荷を満載した艀が川を行き交う姿が見えた。船頭たちの掛け声が水面を渡り、鳶が悠然と空を舞う。夏の江戸は朝から活気に満ちていた。
日本橋を抜けると、魚河岸の威勢のいい声が響いてくる。
「寄ってらっしゃい見てらっしゃい!今朝揚がったばかりの鯵だよ!」
「鰹だ鰹!初鰹より旨い夏鰹だぁ!」
天秤棒を担いだ棒手振りたちが足早に行き交う。どこからともなく風鈴の音が聞こえ、蝉時雨が絶え間なく降り注いでいた。
源一郎は歩きながら、ふと空を見上げた。日差しが目に染みる。前世の記憶にある夏──冷房の効いた部屋で過ごす夏とはどこか異なる。
京橋から新橋を過ぎ、愛宕山の麓を回って麻布へ。道すがら、茶屋で冷水を一杯頼み喉を潤した。店の女将が愛想良く笑い、「暑い中ご苦労様でございます」と頭を下げる。源一郎は銭を置いて礼を言い、再び歩き始めた。
やがて火盗改の役宅が見えてきた。
「渡辺様、おはようございます」
門番が挨拶とともに頭を下げた。朝の陽射しの中、彼もまた額に汗を滲ませている。
「おはよう。頭取はおいでだろうか」
「はい、奥におられるかと存じます」
「そうか、ありがとう」
源一郎は門をくぐり、役宅の中へと入った。
夏ということで襖という襖は開け放たれている。湿気を逃がすことに特化した日本家屋の造りは、こういう時に有り難い。庭から涼しい風が吹き抜け、蝉の声が絶え間なく聞こえてくる。
廊下の板張りがひんやりと足裏に心地よい。源一郎は縁側沿いに進み、平蔵のいる書院へと向かった。
部屋の前に来ると、平蔵は文机に向かい書状を読んでいるのが見えた。真剣な眼差しで墨の文字を追っている。源一郎は廊下に正座し、声を掛けた。
「失礼します」
「おぉ、源一郎か。暑い中、ご苦労」
「いえ。道中、少しばかり汗を掻きましたが」
「今日は特にな。俺も朝から汗だくだ。──まあ、入れ」
源一郎は一礼して部屋に入り、平蔵の前に座した。下女が茶を運んでくる。冷たい、と言うほどでもないが冷ましてある茶だった。
「道場での辰蔵の様子はどうだ」
平蔵が本題を切り出した。その声には、父親としての心配が滲んでいる。
「順調です。鷹取先生の指導もあり、少しずつ腕を上げております」
「そうか……」
平蔵は少し安堵するように頷いた。だが、その眉間には皺が寄ったままだ。
「あやつは真っ直ぐな性根だけは持っておるが、どうにも剣の才能がなくてな。型は覚えておるが、応用が利かん。見ていて歯がゆくなることもある」
「確かに始めはそうでしたが……今はそれほど悪くないかと」
源一郎は茶碗を置き、言葉を続けた。
「今は拙いながらも『剣術の妙』を考えるようになっておりますので。相手の動きを見て、どこに打てば当たるのか、どう動けば躱されないのか──そういったことを自分の頭で考え始めております」
「ほう」
平蔵の目が僅かに見開かれた。
「あやつがなぁ。何かに感化されたか」
「それはわかりませんが……辰蔵殿の歳のくらいは何かの切っ掛けで化けるものでしょう」
源一郎は辰蔵との稽古を思い出していた。何度打たれても立ち向かってくる姿。死を幻視させられても諦めない目。あの心意気は、確かに源一郎の心を動かした。
「元々諦めずに挑み続けておりましたが、剣を振るのが楽しくなれば自然と上達もします。その姿勢こそが剣の道の第一歩かと」
「そうか」
平蔵は感慨深げに頷いた。だが、その表情にはどこか複雑なものが混じっていた。父親として息子の成長を喜びつつも、別の思いも抱えているようだった。
「正直なところな……あやつには番方より役方の方が向いておるのではないかと思うこともあった」
「役方、ですか」
「ああ。辰蔵は剣の才はからきしだが、字を書かせれば見事なものでな。母親──俺の女房が厳しく仕込んだおかげだ。書状の清書などをさせると、実に達者にこなす」
平蔵は苦笑した。それは自身の息子への愛情と、将来への心配が入り混じった苦笑だった。
「両番筋の家であり、火盗改の頭取の嫡男が筆の方が得意というのも、いささか締まらん話だがな」
「それもまた才能かと」
源一郎は率直に言った。
「剣だけが武士の道ではないのでは。どこで聞いたか忘れましたが──『筆は剣よりも強し』という言葉もあるようです。まして、後の世にまで残るのは剣の腕よりも書なのは間違いないのですから」
前世で耳にした言葉だ。西洋の諺だったか。だが、この時代の日本においても、同じことは言えるだろう。剣で名を成した者は数多いが、その名が後世に残るのは誰かがそれを書き記したからこそだ。
「ほう……そう言ってくれるか」
平蔵は少し表情を和らげた。
「まあ、あやつには好きにさせるつもりだ。番方に進む気でいるならそれでも良い。やはり道を変え、役方に進みたいと言うなら、それもまた良し。俺が押しつけるものでもあるまい」
「頭取らしい柔軟なお考えです」
「年を取ると余計なことにも口を挟みたくなる。自制しておるだけだ」
平蔵は茶を啜った。その横顔には、どこか寂しげな色も見えた。親とは、いつまでも子の行く末を案じるものなのだろう。源一郎もまた、自分の父──藤治郎のことを思い出した。
「──ところで、鷹取は息災だったか。道場の様子はどうだ」
「鷹取先生はお元気です。活気のある良い道場かと。ただ昨日は道場破りがありました」
「道場破りだと?」
「ええ。まぁ、道場破りというよりも、飛び入りの他流試合でしたが」
平蔵の眉が上がった。源一郎は、他流試合自体はたまにあるようですが──と続ける。
「直心影流の神谷という男でした。武州で修行し、諸国を渡り歩いたとか。腕はなかなかのものでしたが、鷹取先生が下しました」
「ふむ。それで、その男はどうした」
「鷹取先生が門下生たちの刺激にもなるからと、道場に通うことを許されました。その者は仕官先を探しているとのことです」
「そうか。あの男も相変わらずだな」
平蔵は懐かしむように笑った。
「俺の剣の兄弟子でな。昔はよく喧嘩したもんだが、根は良い奴だ。少々、人付き合いが苦手なだけでな」
平蔵は頷き、源一郎は苦笑した。少し思い当たる節があった。鷹取重蔵という男は、剣の腕は確かだが、愛想というものがない。門下生への指導は厳しく、世辞も言わない。だが、その分、言葉に嘘がないとも言える。
「まあ、無理しない程度にみてやってくれ」
「はい」
源一郎は深く頭を下げた。




