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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
三章 神田剣鬼影払
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第五十四話


 夕刻、源一郎は本所の屋敷へと戻った。


 夏の陽はまだ高い。西の空が茜色に染まり始め、蜩の声が響いている。源一郎は式台で草履を脱ぎながら、ふと庭の方を見やった。紫陽花の青紫が夕暮れの光を受けて淡く輝いている。


「お帰りなさいませ、坊ちゃん」


 玄関で出迎えたのは、おたかだった。姉さんかぶりに前掛け姿──夕餉の支度をしていたのだろう。五十を過ぎてなお、その立ち居振る舞いには凛としたものがある。若い頃は父、藤治郎の密偵として働いていた女でもある。今は源一郎の乳母として、この屋敷を切り盛りしていた。


「ああ、ただいま」


 源一郎は笑顔で応じた。誰かが出迎えてくれるというのは、いつでも良いものだ。


「夕餉の支度ができておりますよ。道場のお稽古はいかがでしたか」

「鷹取先生の言葉は勉強になる。辰蔵殿も少しずつ腕を上げているしな」

「噂の長谷川様のご子息ですか。それは頼もしいですね」


 おたかは微笑んだ。その笑みにはどこか安堵の色がある。源一郎が道場に通い始めてから顔色が良くなったと感じているのだろう。


 控えの間から屋敷の奥へと進み、居間に着くと膳が運ばれてきた。


 冷や麦が椀に盛られ、その横には薬味の葱と生姜、胡麻が添えられている。茄子の味噌汁からは香ばしい香りが立ち上り、枝豆は塩茹でにされて小皿に山と盛られていた。瓜の浅漬けは薄く切られて涼しげに並び、冷や奴には鰹節と刻み葱が乗せられている。そして、別の小皿には真桑瓜が切り分けられ、黄色い果肉が夏の色を食卓に添えている。


 暑い盛りに相応しい涼を感じさせる献立だった。


 源一郎は膳の前に座り、箸を手に取った。


「いただきます」


 冷や麦を啜る。つるりとした喉越しと、出汁の利いたつゆの旨味が口の中に広がる。枝豆を一つ摘まみ、豆を押し出して口に放り込む。塩気と豆の甘みが絶妙だ。茄子の味噌汁は、焼き茄子の香ばしさと味噌の風味が溶け合い疲れた体に染み渡る。


「そうだ、おたか。お鈴はどうしている?」


 箸を動かしながら、源一郎は尋ねた。おたかの表情が僅かに曇った。


「……お鈴でございますか。奥の部屋で休んでおります」

「やはりあまり体調は良くないのか」

「はい……ここ暫く、あまりよく眠れていないようで」


 源一郎の眉が寄った。


「夢見が悪い」

「そのようでございます。夜中にうなされていることもあるようで……」


 おたかは声を落とした。


「坊ちゃん。あの子、最近少し様子がおかしいのです。ぼうっとしてることもありますし、時折、坊っちゃんのように誰もいない方を見ることもあります……」

「……そうか」


 その、俺のようにという言い方はどうなんだと思ったが、言葉を飲み込んだ。


 ──狐が興奮する。


 以前、菖蒲が言っていた言葉が脳裏をよぎった。


 お鈴は狐憑きの血を引いている。普段は普通の人間と変わらないが、最近、その血が騒ぎ始めているようだった。赤坂の事件以来、お鈴は人でない存在が見えやすくなっている。それ自体は源一郎にとっても心強いことだが──問題は、それだけではない。


 狐憑きの者は、願いを叶える力を持つ。強く願えば、それが現実になる。良いことも、悪いことも──見境なく。本人にそのつもりがなくとも、心の奥底で思ったことが、形になってしまう。


 豊川稲荷の白狐が言っていた。


 ──このまま放っておけば、いずれ暴走するかもしれませんよ。


「おたか、お鈴を呼んでくれ。話がある」

「かしこまりました」


 おたかが部屋を出ていく。源一郎は残りの冷や麦を啜り、真桑瓜を一切れ口に運んだ──未来のメロンや甘味と比べたら物足りない甘い果汁が口の中に広がる。


 白狐への返答は、菖蒲に相談した上でもう決めている。豊川稲荷の分霊を勧請し、屋敷の庭に小さな祠を建てる。菖蒲は「屋敷の中じゃなくて、庭の隅なら」と条件をつけて承知してくれた。


 だが、まだお鈴には伝えていなかった。それに勧請の手続きも進めなければならない。近いうちに、また豊川稲荷を訪れる必要があるだろう。


 ほどなくして、襖の向こうで声がした。


「源一郎様、お呼びでございますか」

「ああ、入っていいぞ」


 襖が開き、お鈴が入ってきた。


 白い肌、切れ長の目、島田に結い上げた黒髪。相変わらず凛とした美しさだが──目の下に薄い隈ができている。おたかの言う通り、よく眠れていないのだろう。


「座ってくれ、お鈴」

「はい」


 お鈴は正座し、背筋を伸ばした。源一郎は周囲に人の気配がないことを確かめてから、口を開いた。


「調子が悪いようだな。大丈夫か」


 お鈴の顔が僅かに強張った。


「……お気づきでしたか」

「気づかないものか。夜中にうなされているそうだな。何か、嫌な夢でも見ているのか」


 お鈴は暫く黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「……はい。最近、妙な夢を見るのです」

「どんな夢だ」

「狐が……走り回る夢です」

「ふむ……」

「野原を、狐が駆けている夢。最初は一匹だったのに、だんだん増えていって……気づくと、何十匹もの狐が私の周りを走り回っているのです。そして、私は……」

「お前は?」

「……私も、一緒に走っているのです。四つん這いで。まるで、自分も狐になったかのように」


 お鈴は顔を伏せた。その肩が小刻みに震えている。


「怖いのです、源一郎様。目が覚めても、暫くは自分が人間なのか狐なのか分からなくなることがあって……」

「……」


 源一郎は黙って膳を横に避けると、お鈴の傍に座り直した。そっと手を伸ばし、震える肩を抱き寄せる。


「源一郎……様……」

「大丈夫だ」


 源一郎は静かに言った。お鈴の体が、少しずつ力を抜いていく。


「お前は人だ。狐ではない。俺が保証する」


 お鈴は源一郎の胸に顔を埋めた。その細い肩が、まだ微かに震えている。源一郎はお鈴の背を撫でながら、穏やかに語りかけた。


「お鈴。お前の狐憑きのことだが、豊川稲荷の白狐に相談した」


 お鈴が顔を上げた。涙で濡れた目に、驚きと僅かな希望が混じっている。


「白狐様に……?」

「ああ。お前に憑いている狐は、まだ躾ができていないらしい。このまま放っておけば、暴れる恐れがあるそうだ」

「暴走……」

「狐憑きというのは、願いを叶える力を持つ。強く願えば、それが現実になる。良いことも、悪いことも──見境なく」


 源一郎はお鈴の目を真っ直ぐに見た。


「誰かを害したいと願えば、その願いも叶ってしまう。たとえ本人にそのつもりがなくとも、心の奥底で思ったことが形になる。それが狐憑きの怖さだ」


 お鈴の顔が青ざめた。


「私の願いで……誰かを傷つけてしまうかもしれない、ということですか……」

「そうならないように、手を打つ」


 源一郎は続けた。


「豊川稲荷の分霊を、この屋敷に勧請しようと思う。そうすれば、白狐たちがお前の狐を躾けてくれる。眷属として鍛えてやれば、良き守り狐になるそうだ」

「守り……狐……」


 お鈴は呆然としていた。


「私の……狐が、守り狐に……?」

「ああ。狐が安定すれば、お前の夢見もよくなるだろう」


 源一郎は言葉を重ねた。


「菖蒲にも相談してある。庭の隅に祠を建てるなら構わないそうだ。近いうちに豊川稲荷を訪れて勧請の手続きを進めるつもりだ」

「菖蒲様が……」


 お鈴の目から、涙がこぼれた。


「ありがとうございます、源一郎様……私、ずっと怖かったのです。このまま、自分が自分でなくなってしまうのではないかと……」

「心配するな。お前は一人じゃない」


 源一郎はお鈴の涙を指で拭った。


「俺がいる。菖蒲もいる。そして、白狐も力を貸してくれる。お前の狐は、きっと良き守り手になる」


 お鈴は源一郎の胸にもう一度顔を埋め、深く息を吐いた。その体から少しずつ強張りが解けていく。源一郎がお鈴を抱きしめようとした──。


 その時──。


「源一郎」


 声がした──。振り返ると、部屋の隅に小さな影が座っていた。黒い着物に黒髪を垂らした、子供のような姿。──座敷童の菖蒲だった。


「あ、菖蒲か……驚くだろう……いつからそこに」

「さっきから」


 菖蒲は二人の傍に寄ってきた。お鈴も顔を上げ菖蒲の姿をマジマジと見た。


「あ、菖蒲様、こんばんは」


 以前は霞がかかったようにぼんやりとしか見えなかった菖蒲の姿が、今でははっきりと見える。着物の柄まで、黒髪の一筋一筋まで。


「こんばんは、お鈴」


 菖蒲はお鈴の前に座った。じっと、その顔を覗き込む。


「泣いてた」

「は、はい……少しだけ」

「そう。でも、もう大丈夫そう」


 菖蒲は小さく頷いた。


「お鈴、最近よく私を見つけるようになった」

「はい……以前はぼんやりとしか見えなかったのですが……今ははっきりと」

「狐の目が開いてきてる」


 菖蒲はあっけらかんと言った。狐の目──異界の存在を映す第六感、霊感のようなものだ。


「まぁ、問題ない。見えた方が色々楽しい」


 お鈴は少し驚いたような顔をした。


「楽しい……ですか?」

「うん。だって話せるようになる。他の妖怪とも。もっと開いたら、もっといろんなものが見えるようになる。源一郎みたいに」


 源一郎みたいに、と聞いてお鈴の心が少しも軽くなった。菖蒲は縁側で足をぶらぶらとさせながら続ける。


「狐が躾けられて人前に出てくるようになったら、一緒に遊べるかも。ワンワン楽しみ」

「遊ぶ……」

「菖蒲……狐は犬とは違うだろ……」

「ふふ……」


 源一郎は呆れ、お鈴は思わず含み笑いを漏らした。


「菖蒲様は、稲荷の祠が屋敷にできることは嫌ではないですか」

「別に?」


 菖蒲は首を傾げた。それはさも不思議そうに。


「一人で遊ぶの飽きた。狐が来たら賑やかになる。お鈴の狐も、きっと面白い」

「菖蒲様……ありがとうございます。私、菖蒲様のように明るく考えられなくて……」

「お鈴は真面目。そんなに難しく考えなくていい」


 お鈴の目に、また涙が滲んだ。今度は安堵と感謝の涙だった。菖蒲はお鈴の手を取った。小さな冷たい手が、お鈴の手を包む。


「源一郎がいる。私も。きっと良い子。大丈夫」

「はい……はい」


 お鈴は何度も頷いた。


「源一郎」


 それから菖蒲が源一郎の方を向いた。


「稲荷の祠、いつ建てるの」

「まず豊川稲荷に行って、勧請の手続きを進めなければならん。白狐に話をつけて、大工の手配もして……急いでも一月以上はかかるかもしれんな」

「ふうん。楽しみ」


 表情は変わらないながらも、菖蒲は嬉しそうに足をブラブラさせる。


「そう。源一郎」

「何だ?」

「最近、この屋敷の周りに誰かいる」


 源一郎の目が細くなった。


「何?」

「たまにだけど、気配がする。人間。妖怪じゃない」

「どのあたりだ」

「裏木戸の向こうとか、塀の外とか。ずっといるわけじゃないけど、時々ふらっと来て、暫くしたらいなくなる。変」


 菖蒲は首を傾げた。


「見張ってるのかな。でも、今のところ悪い感じはしない」

「……見張り、なのか?」


 源一郎は考え込んだ。


 心当たりが全くないわけではない。火盗改の与力ともなれば、恨みを買う相手も多い。盗賊の残党か、その身内か。あるいは──また別の何者か。


「悪意はあるか」

「分からない。でも、危ない感じはしない気がする。ただ、見てるだけ」

「そうか……」


 源一郎は頷いた。


「教えてくれてありがとう、菖蒲。気をつけておく」

「うん。また何かあったら、すぐ教えるね」


 お鈴が心配そうな顔をした。


「見張り……ですか。源一郎様に何か危険が……」

「分からん。だが、今のところ実害はない。様子を見よう」


 源一郎は努めて平静を装った。お鈴をこれ以上不安にさせたくはなかった。


「じゃあね、源一郎、お鈴──」


 それから菖蒲は小さく手を振ると、ふわりと消えていった。まるで闇に溶けるように、部屋の隅へ。


「……菖蒲様は、本当に優しいお方ですね」

「ああ。俺の一番古い友だ」


 お鈴の呟きに源一郎は頷いた。


「お鈴、今夜は早く休め。ここ暫く、よく眠れていなかったのだろう」

「はい……」


 お鈴は頷いたが、すぐには立ち上がらなかった。源一郎の袖を、そっと掴む。


「源一郎様」

「どうした」

「……あ、あの、今夜は」


 傍にいていただけませんか──。その声は小さく、それでいて心細げだった。源一郎は暫くお鈴を見つめてから、気持ちを察した。


「……ああ。夜になったら部屋に来い」


 お鈴の表情が、ほっと緩んだ。それから少し頬が染まる。


「ありがとうございます……」

「ほら、支度をしてこい」

「はい」


 お鈴は深く一礼すると部屋を出ていった。その足取りは、先程よりも軽くなっているように見えた。


 一人になった源一郎は、縁側に出て庭を眺めた。


 夕闇が深まり、空には一番星が輝き始めている。蜩の声が響き、風が木々を揺らす。庭の北東の隅──あそこに、小さな祠を建てることになる。


 豊川稲荷の分霊を迎え、お鈴の狐を教育してもらう。菖蒲の理解も得られている。あとは、勧請の手続きを進めるだけだ。近いうちに、また赤坂へ足を運ばねばならない。


 ただ──屋敷の周りに、誰かがいる。


 菖蒲の言葉が、頭の片隅に引っかかっていた。悪意はない、ただ見ているだけ。それが何を意味するのかは分からない。


 源一郎は目を閉じ、夏の夜風を感じていた。蜩の鳴き声が、静かに夏の夜を包み込んでいく──。

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