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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
三章 神田剣鬼影払
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第五十三話


「──では次は、師範代の相手をしてもらおう」


 師範代として進み出たのは、四十代の痩身の男だった。一見すると華奢に見えるが、その眼光は鋭く、長年の修練で培われた技の深さを感じさせる。師範代もまた、手早く防具を身に着けた。


「よろしくお願いしよう」


 師範代は静かに正眼に構えた。だが、先ほどの門弟とは構えの質が違う。無駄な力が抜け、自然体。剣先は揺るがず、相手のどんな動きにも対応できる柔軟さを湛えている。


 神谷は再び上段に構えた。だが、先ほどより僅かに慎重だ。師範代の構えに何かを感じ取ったのだろう。


 気合を溜め──神谷が動いた。


「──ハァッ!」


 渾身の袈裟斬り。先ほどと同じ、全身の力を乗せた一撃。


 一方──師範代の動きは違った。まともに受けない。半歩横に体を捌きながら、神谷の剣を竹刀で逸らす。一刀流の「払い」──相手の力を受け止めるのではなく、流すように払う。


 剣筋をズラされ、神谷の体が僅かに揺らぐ。その隙を逃さず、師範代の一太刀が面に向かって振り下ろされる。


 ──だが、神谷も只者ではなかった。


 流れる体を強引に止め、竹刀を引き戻して師範代の一撃を弾く。両者の竹刀が激しくぶつかり合い、高く乾いた音が道場に響いた。


 鍔迫り合い──互いに押し合いながら、隙を窺う。神谷の膂力は明らかに師範代を上回っていた。じりじりと押し込まれてゆく。


 しかし、師範代は押されながらも慌てなかった。むしろ、押されることで神谷の重心をコントロールしようとしている。そして──師範代が動いた。


 押し合いの力を突然抜く。神谷の体が一歩前のめりになった瞬間──師範代は体を開いて横に躱し、一刀を放つ──。


 だが、神谷はそれすら咄嗟に身を引いて躱した。それから体勢を立て直すと、間合いを取り直す。


 ──両者、再び向かい合う。


「……やるな」


 面の中で神谷が低く唸った。その顔に真剣な色が浮かんでいる。


 そして──激しい打ち合いが始まった。神谷の剛剣と、師範代の柔剣。力で押す直心影流と、技で捌く一刀流。


 だが、徐々に押されていったのは師範代の方だった。神谷の打ち込みは疲れを知らず、一撃一撃が重い。技で捌いても、捌き切れないほどの力と速さ。


 そして──神谷の一撃が、ついに師範代の防御を打ち破った。一刀両断の意気を込めた振り下ろしで手から竹刀を叩き落とし、直ぐさま師範代の面を強かに打つ。鋭い音が道場に響いた。


「一本」


 鷹取の声。師範代は負けを認め静かに頭を下げた。


「参りました」

「いや、見事な剣だった。正直、俺も危なかった」


 神谷は素直に認めた。面の下の額に僅かに汗が浮いている。師範代との試合で、初めて本気を出さざるを得なかったということなのだろう。


「さて──門弟殿にも師範代殿にも勝たせてもらった。次は──道場主殿にお願いしたい」

「良かろう。必要なら休憩を挟むが」

「不要だ」

「そうか」


 鷹取は静かに立ち上がり、『木刀』を手に取った。それに防具にも手を伸ばさない。


「……鷹取師範?あの、防具は、それにそれは──」


 師範代が声をかけたが、鷹取は首を振った。


「防具は要らぬ」

「しかし、直心影流の剛剣を直に受けるのは──」

「構わん」


 鷹取は静かに言い切った。その声には、揺るぎない自信が滲んでいた。


「当たらなければ、防具は要らぬ」


 神谷の目が僅かに細まった。挑発と取ったか、あるいは──その覚悟に何かを感じ取ったか。


「……よろしいのか。怪我をされても責任は取れんぞ」

「案ずるな。それに──」


 鷹取は木刀を構えながら、薄く笑った。


「防具、竹刀では折角の本気の気迫が伝わらん。それに──その剣、竹刀で受ける方が惜しい。貴殿もそうは思わんか」


 神谷は暫し沈黙した。やがて、その口元にも笑みが浮かんだ。


「……面白い。ならば、こちらも防具はいらぬ。木刀でもって遠慮なくいかせてもらう」


 鷹取を見やる。神谷が防具を外して身軽になり、木刀を手に取ると──二人は道場の中央で向かい合った。門下生たちが固唾を呑んで見守る中、源一郎は師範席の傍らから二人の対峙を見つめた。


 神谷は上段に構えた。直心影流の王道、頭上に剣を掲げ、全身で気を練り上げる。その気迫は先ほどまでとは比べものにならない。門弟や師範代相手には見せなかった、本気の構えだ。


 対する鷹取は──静かに正眼に構えた。一刀流の基本にして極意。切先は相手の喉元を指し、攻防一体の姿勢を保つ。防具をつけていないことなど、まるで意に介していない。


 二人の間に、張り詰めた空気が流れる。


 先に動いたのは──神谷だった。


「──オオオォッ!」


 凄まじい気合と共に踏み込む。全身の力を一刀に込めた渾身の袈裟斬り。直心影流の「一刀両断」──溜めた気を一瞬で解放し、相手を切り伏せる必殺の一太刀。


 その速さと威力は尋常ではなかった。師範代相手の時とは明らかに練られた気迫が違う。防具なしで受ければ、骨の粉砕は逃れられぬ一撃。当たり所が悪ければ死すら待っている──。


 ──だが、鷹取は動じなかった。


 鷹取は神谷の斬撃が来る前に備えていた。経験と剣士の勘を調和させ──神谷の動きを先読みしていたかのように。そして、神谷の剣が振り下ろされる瞬間──鷹取の木刀が動いた。


 一刀流の「切り落とし」──相手の剣を叩き落としながら、同時に斬り込む。カンッ──と乾いた音が張り詰めた道場に静かに響いた。神谷の切り下ろしを鎬で擦り上げて逸らし、下段へと押さえる──そのまま間合いを詰め、喉元にずい、と剣先を突き付けた。


 神谷はたたらを踏み、悔しそうに顔を歪めたがすぐに気を取り直した。


「……もう一番、お願い致す」

「良かろう」


 仕切り直し、二人は向かい合った。


 神谷は再び上段に構える。だが、その気迫は先ほどより更に一段と練られていた。独特の呼吸法。静かな道場に神谷の呼気が響く──。一本目で鷹取の剣を見た。正面からの一撃だけでは通用しない。ならば──更に気迫で押し切るのみと。


「──ゼアァァッ!」


 神谷が踏み込んだ。渾身の打ち下ろし。だが、それでも鷹取は動じない。打ち下ろしを、擦り上げることで左へ逸らす。


 神谷は止まらなかった。逸らされた勢いを殺さず、そのまま体を捻って返し胴を狙う。風切り音──。鷹取は引いて半身で躱し、脇構え──逆に胴を返す。神谷が木刀を立てて受ける。カンッ──と乾いた音が大きく響いた。そこから、再び激しい応酬が始まった。


 神谷が打つ。鷹取が鎬で擦り上げて右に逸らす。神谷が再び打つ。鷹取が左に逸らす。一撃、また一撃。神谷の直心影流は一撃必殺の剛剣だが、その分、連続して技を繰り出すのは本意ではない。それでも、神谷は気迫を込めて打ち込み続けた。


 鷹取は神谷の打ち込みを左右に逸らしながら、相手の動きを見極めている。受けるのではなく、流す。剛剣を正面から受ければ競り負ける。故に一刀流の技法──相手の力を利用して、最小限の動きで捌く。


 しかし、神谷の気迫も尋常ではなかった。一撃一撃に魂が込められている。たとえ逸らされても、次の一撃を放つ。たとえ躱されても、その次を打つ。剛剣の連撃が鷹取に圧を掛けているのは確かだった。


 ──このままでは埒が明かない。


 そう思ったのだろう。神谷が一度間合いを切った。──仕切り直し。両者、向かい合う。神谷はゆっくりと肩に担ぐ形──八相に構えた。だが、その呼吸は先ほどより深い。気を練り直している。それは『八相發破』と呼ばれる呼吸法か。


 鷹取は動かない。正眼を保ち、神谷を待っている。


 間合いの測り合い。神谷の呼吸が頂点に達する。


 来る──。鷹取がそう直感した時、神谷が動いた。


「──オオオォッ!」


 全身全霊の打ち下ろし。直心影流の真髄。先ほどより更に速く、重い一撃が鷹取の脳天目がけて振り下ろされる。

 

 鷹取も動く──。


 神谷の振り下ろしに合わせて、剣を斜めに切り下ろす。切り落とし──相手の剣の鎬に擦り合わせ、軌道を変え、競り勝つ。剣筋を逸らしながら同時に斬り込む一刀流の極意。


 それこそが「一刀即万刀」──一刀に万の技を乗せ、万の技でもって一刀と成す。相手の動きに合わせて変化する剣。


 二つの木刀が交錯し、カシュッ──と、擦れる音が道場に響いた。神谷の木刀が逸れ、鷹取の肩を掠める。そのまま鷹取の木刀は滑るように伸び、神谷の額の前で──寸止めされた。


「二本目」


 勝負は決した。神谷は木刀を下ろし、深く息を吐くと頭を下げた。


「……参りました。流石は一刀流誠道館。噂に違わぬ腕前」


 神谷の視線が、鷹取の体を改めて見た。防具をつけていない道着姿。終わってみれば一撃も受けていない。直心影流の剛剣を完全に見切っていたということだ。


「お主も、なかなかの腕だ。どこで修行した」

「武州の直心影流の道場で十年ほど。その後は諸国を渡り歩いておりました」

「なるほど。基本はしっかりしておる。剛剣の威力は見事だ。だが、実戦の経験が足りんと見る。道場での稽古と、真剣勝負はまた違うからな」


 鷹取の言葉に、神谷は苦笑した。見抜かれていると感じたのだろう。


「おっしゃる通りで。某、真剣での斬り合いは、まだ経験がありません」

「それが良いこともある。人を斬れば、剣に迷いが生じることもある。お主の剣は、まだ澄んでおる」


 鷹取は神谷の肩を叩いた。


「江戸には暫く滞在するのか」

「ええ、仕官先を探しておりまして」

「このご時世に仕官か……それでは寝起きする場所すら苦労しておろう。ならば、うちの離れを貸してやる。門下生たちの稽古相手にはなってもらうがな」


 野武士の如き、神谷の顔が明るくなった。


「なんと……よろしいのですかっ」

「構わん。腕の立つ者との稽古は、門下生たちの良い刺激になる」


 神谷は深く頭を下げた。


「ありがとうございます。是非とも、よろしくお願いいたします」


 ──道場破り騒動は、こうして平和に終わった。神谷は預けているだろう荷物を取りに、一人、道場を去っていった。


 源一郎はその背中を見送りながら考えていた──。神谷伝兵衛。武州出身の武者修行者。直心影流を修め、諸国を渡り歩いている。江戸に来たのは仕官先を探すため──。表向きは、そういうことになる。


 ──だが、源一郎には気になることがあった。


 仕官の口を探して浪人が江戸に集まるのはさして珍しいことでもないが……あの男の目だ。立ち合いの最中、一瞬だけ、神谷の視線が源一郎の方を向いた気がした。


 ──それは気のせいだっただろうか?


 源一郎は、その直感を胸の奥にしまい込んだ。今は、目の前のことに集中すべきだ。辰蔵の稽古。門下生たちへの指導。平蔵から託された頼みも、しっかりと果たさねばならないのだから。


「──渡辺殿」


 鷹取が声をかけてきた。


「どうだった、今の立ち合いは」

「見事でした。相手の動きを見切り、最小限の動きで一本を取る。無駄がありません」

「世辞はよせ。貴殿の前では、私などまだまだだ」


 鷹取は苦笑した。だが、その顔にはどこか晴れやかなものがあった。


「だが──少しは掴めた気がする」

「掴めた、とは」

「貴殿と立ち合った時のことだ」


 鷹取は木刀を見つめながら言った。


「あの時、私は何も出来なかった。打ち込む前から負けていた。どこに打っても届かない。そう分かっていながら、焦って打ち込み、あっさりと弾かれた」

「……」

「だが、あれから毎日、考えていた。貴殿の剣は何故あれほど隙がないのか。何故、打ち込む前から結果が見えるのか」


 鷹取は源一郎を見た。


「答えはまだ出ておらん。だが、考え続けることで、少しだけ見えたものがある」

「何が見えましたか」

「己の剣の、無駄な部分だ」


 鷹取は僅かに笑った。そこに暗さはない。前を向いている人の顔。


「今まで気づかなかった。いや、気づこうとしなかった。四十年も剣を振ってきて、自分の剣はこれで完成されていると思い込んでいた。だが、貴殿と立ち合って、それが思い上がりだと分かった」

「……」

「今日の道場破り──あの男は、なかなかの腕だった。一週間前の私なら、もう少し手こずっていたかもしれん」


 源一郎は鷹取の立ち合いを思い返した。確かに、鷹取の動きは以前より洗練されていた。無駄が削ぎ落とされ、より鋭く、より正確になっている。そして、その胆力も──。防具なしで直心影流の剛剣を完封したのは、その証だろう。


 源一郎との立ち合いで見せられた「死の幻視」。あれが、鷹取の剣を変えたのかもしれない。


 自分の剣が通用しないと知ること。それは絶望にも繋がるが、同時に──乗り越えることで、新たな境地への扉を開くこともできる。


「私のような老いぼれでも、まだ伸びしろがあったというわけだ」


 鷹取は可笑しそうに言った。


「貴殿には感謝せねばならんな。剣の道に終わりはないと、改めて教えられた」

「私は何も……ただ、立ち合っただけです」

「それで良いのだ。山の高さを見せてくれた。それだけで、十分な教えになる」


 鷹取は道場を見やった。門下生たちは興奮した様子で、先ほどの立ち合いについて語り合っている。


「門下生たちも、良い刺激を受けている。貴殿がここに来てから、道場の空気が少し変わった。皆、以前より熱心に稽古をするようになった」

「それは、辰蔵殿や皆さんの心意気のおかげでしょう」

「そう謙遜することはない。貴殿がいなければ、こうはならなかったのだから」


 鷹取は源一郎の肩を叩いた。


「さて、稽古を始めるか。渡辺殿、今日も門下生たちの相手を頼む」

「承知しました」


 源一郎は立ち上がり、道場の中央へと向かった。辰蔵が、目を輝かせて待っていた。


「渡辺殿、今日もよろしくお願いします!」

「ああ、よろしく」


 源一郎は木刀を構えた。道場破りのことは、ひとまず忘れよう。今は、目の前の稽古に集中すべきだ。

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