第五十二話
それから──源一郎は暇があれば神田の誠道館に通い続けた。
朝、本所の屋敷を出て両国橋を渡り、日本橋を抜けて神田へ。夏の盛りの江戸は相変わらず暑く、道中だけで汗が噴き出す。だが、源一郎の足取りは軽かった。
──道場に通うことは、こんなにも心地よいものだったのか、と。
本所の道場を追われて以来、源一郎は剣を振る相手に飢えていた。無論、火盗改の任務で賊を相手にすることはある。だが、それは殺し合いであって稽古ではない。
子どもの頃は高尾山や御岳山の大天狗や烏天狗たち相手に稽古を求めたこともある。だが、それは鬼切流としての稽古であり、人対妖のもの。純粋に剣同士を交えて切磋琢磨し、技を磨き合う相手ではなかった。
──しかし、誠道館は違った。
初日こそ門下生たちは鷹取を下した源一郎を恐れ、遠巻きに見ていた。だが、辰蔵が恐れることなく源一郎に挑み続ける姿を見て、彼らの態度は変わり始めた。
「渡辺殿、俺にもお相手願えませんか」
二日目の稽古の後、一人の門下生が声をかけてきた。武士ではない、町人の二十代ほどの精悍な顔立ちの男だった。
「辰蔵が毎日やられているのを見て、黙っていられなくなりまして。俺も強い人と戦ってみたいんです」
源一郎は鷹取を見た。鷹取は小さく頷いた。
「構わん。望む者には相手をしてやってくれ」
源一郎はその門下生と立ち合った。結果は、辰蔵の時と同じだった。一本、二本、三本──何度挑んでも、源一郎には届かない。だが、その門下生は諦めなかった。
「もう一本、お願いします!」
死を見せられるような恐怖──歯を食いしばり、辰蔵と同じ言葉を同じ熱意を込めて。懸命に掛かって行く。その姿を見て、また別の門下生が名乗りを上げた。そしてまた一人、また一人──。
三日目には、五人の門下生が源一郎に稽古を願い出た。四日目には八人。五日目には、道場にいるほぼ全員が源一郎との立ち合いを経験していた。江戸においても『強い』ということは、何にも勝る正義ということなのだろう。
「不思議なものだな──」
五日目の稽古の後、鷹取が源一郎に茶を勧めながら言った。
「最初は貴殿を恐れていた者たちが、今では我先にと立ち合いを望んでおる。少し妬いてしまうわ」
「ははは、これも鷹取先生の指導と辰蔵殿のおかげでしょう」
源一郎は茶を啜りながら答えた。
「辰蔵殿が恐れずに立ち向かう姿を見せたから、他の者たちも続いたのだと思います」
「それもあろう。だが、それだけではない」
鷹取は道場を見やった。門下生たちは思い思いに稽古に励んでいる。その顔には、数日前までの恐れや困惑はなかった。代わりに、熱意と向上心が宿っている。
「渡辺殿は手加減を覚えた──。頂に立ちながら、下にまで降りてくるようになったな」
「……」
「木刀を弾き飛ばし、死の幻影まで見せる苛烈な剣。だが、最近はそこまで酷くはしておらんだろう」
源一郎は黙って頷いた。
その通りだった。門下生たちとの立ち合いでは、源一郎は意図的に手を抜くようになっていた。木刀を弾き飛ばすのではなく、鎬で軽く擦り上げるだけ。死を幻視させるのではなく、ただ一本を取るだけ。──源一郎からしたら酷く気が抜けている剣とも言えるが。
そこまで落として、ようやく理解される。手が届かないと諦めるほどでもない剣だと。一歩先、目標となる剣。そこを目指せば良いと。
「貴殿なりに、考えてくれておるのだな」
「……私も、学んでおりますので」
源一郎は茶碗を置いた。
「強すぎる剣は、人を育てない。鷹取先生が仰った言葉──それは、私にはない考えでした。そこで私も人に教えるにはどうしたらよいのか考えるようになりました」
「ほう……それで今は分かるようになったと」
「少しだけですが」
笑みを浮かべて源一郎は道場を見た。辰蔵が年下の門下生と稽古をしている。相変わらず動きは拙いが、数日前よりはだいぶ良くなっている。
「──全力で相手を叩き潰すだけが剣の道ではない。相手の力量に合わせて、少しだけ上の壁を見せ、越えさせる。それが、人を育てる剣なのだと学びました」
「……フッ……ククッ……すまん。なるほど。それは至極当たり前のことなのだがな。どうやら一足飛びに頂に至ると、人として大事な事を見落とすらしい。羽を持つ者も難儀な所があるものだな……フ、クク」
真面目くさった顔をして、ごくごく当たり前のことを言った源一郎に、鷹取は流石におかしくなって笑ってしまった。
「まぁ、この場を上手く使ってくれたらいい。本所の道場で学べなかった大事なことを、ここで学び直せばよい」
「は……汗顔の至りです。どうか、よろしくお願いいたします」
源一郎は赤面して頭を下げたのだった。
§
はじめに道場に通い出してから、一週間ほど経った日の朝だった。
源一郎がいつものように道場に着くと、門前に人だかりができていた。
「何事だ?」
源一郎は人垣をかき分けて中に入った。道場の玄関先に、一人の男が立っているのが見えた。
三十代半ばと思しき男。背丈は六尺近く、肩幅も広い。筋骨隆々とした体躯に、日に焼けた肌。腰には大小二本の刀を差し、その佇まいには歴戦の気配が漂っている。道着ではなく、旅装束のような格好をしていた。
「俺は神谷伝兵衛。諸国を渡り歩く武者修行の者だ」
大柄な男が、鷹取に向かって言った。
「江戸に来たからには、名のある道場で腕試しをしたいと思ってな。一刀流誠道館の名は、かねがね聞き及んでおる。他流試合を願いたい」
道場破り──。源一郎は眉を顰めた。
道場破りとは──他流試合のこと。他流の道場に乗り込んで立ち合いを挑み、自身の腕試しと、地稽古を通して流派の技を盗もうとする行為だ。武者修行と称して諸国を渡り歩く者の中には、こうして道場を巡って剣の腕を磨こうとする者がいた。
だが、それは表向きの話だ。
中には金目当ての者もおり、負けた道場から「負け料」を取ったり、有名道場で勝った名声を売り込んで仕官先を探したり。中には、最初から強請りや恐喝を目的とする者もいた。
この男は、どちらだろうか。もしも、邪な目的ならば容赦はしないと──源一郎は神谷を観察した。
神谷伝兵衛と名乗った男は、確かに腕が立ちそうだった。構えていなくても分かる。重心の置き方、足の運び、視線の配り方。それなりの修練を積んだ者の動きだ。
「他流試合か。良かろう」
鷹取は静かに答えた。
「して、流派は何を修めておる」
「直心影流だ」
その言葉に、道場内がざわついた。源一郎も僅かに目を細めた。
直心影流──鹿島神宮鹿島之太刀の流れを汲み、江戸でも広く修められる剛剣の流派。真っ向からの力強い打ち込みと、気を充実させての「一拍子」に全てをかけた斬撃を得意とする。力と勢いで相手を圧倒する、攻めの剣術だ。
「直心影流か……」
鷹取は顎に手を当てて考え込んだ。
「ならば、木刀での立ち合いは危険だな。竹刀と防具を用いることになるが、それで良いか」
直心影流の剛剣は、その威力ゆえに木刀での試合には向かない。全力の打ち込みを受ければ、骨を折る所か人を殺す恐れすらある。他流試合においては、竹刀と防具を用いるのが通例だった。
「構わん。道場の流儀には従おう」
「では、まずは門弟と試合をしてもらう。いきなり師範との立ち合いは流儀に反する」
鷹取は門下生たちを見渡した。
「誰か、相手をする者はおらんか」
一瞬の沈黙。やがて、一人の門下生が進み出た。三十代の体格の良い男だった。誠道館でも上位の腕前を持つ、古参の門弟だ。
「私がお相手いたします」
「よし、頼む。防具を着けよ」
門弟は道場の隅から面、小手、胴、垂れを取り出し、手早く身に着けた。神谷にも同様の防具が貸し出される。二人とも竹刀を手に取り、道場の中央で向かい合った。
門弟は正眼に構えた。一刀流らしく切先を相手の喉元に向け、攻防一体の姿勢。対する神谷は、竹刀を頭上に振りかぶった。直心影流の上段──「一拍子」での斬撃を放つための構えだ。
気迫が道場を満たす。神谷の気合が徐々に高まっていくのが分かる。
──先に動いたのは神谷だった。
「──デヤァッ!」
裂帛の気合と共に、頭上から一直線に振り下ろす。直心影流の真骨頂、全身の力を一刀に乗せた渾身の一撃。速く、重く、まさに剛剣の名に恥じない一刀だ。
門弟は咄嗟に受けに回った。竹刀を掲げて斬撃を受け止める──だが、その瞬間、激しい衝撃が両腕を襲った。
バシィッ!と鋭い音。竹刀越しに伝わる衝撃に門弟の体が後ろによろめく。
神谷は止まらなかった。間髪入れず二の太刀、三の太刀。上段からの連撃が雨あられと降り注ぐ。一撃一撃が重く、速い。門弟は防戦一方に追い込まれた。
そして四撃目──門弟の竹刀が弾かれ、神谷の一撃が面を捉えた。竹刀が面を叩く鋭い音がした。
「一本」
鷹取の声が響いた。門弟は肩で息をしながら、構えを直した。
「……もう一本、お願いします」
「良かろう」
再び構え直す。だが、結果は変わらなかった。今度は門弟が突きを放とうとした瞬間、神谷の上段からの斬撃がそれを打ち落とし、続く二撃で面を打った。
「二本目」
門弟は悔しそうに頭を下げた。神谷は面の奥で涼しい顔をしている。
「流石は直心影流。見事な剛剣だ」
鷹取が言った。




