第五十一話
カラン、と乾いた音を立てて、木刀が板張りの床に落ちる。
死んだ、と錯覚して力が抜け──膝を折る。そして気づく、自身が真っ二つになどなっていないことに。
愕然とした──。打ち込んだはずだった。渾身の力を込めて、振り下ろしたはずだった。だが、その剣は届かなかった。届く前に、弾かれ──そして、気がついた時には一刀が振り下ろされていた。
道場が凍りついたように静まり返った。誰も声を発することができなかった。一瞬だった。あの鷹取重蔵が──一刀流の達人が膝を突いた。
「……これは」
鷹取が呻いた。切られたと錯覚した額を左手で押さえながら、源一郎を見つめる。
「何が起こったのか……私には分からなかった。打ち込んだはずが、いつの間にか打たれて──いや、切られていた」
源一郎は木刀を下ろした。
「……ありがとうございました」
「いや」
鷹取は首を振った。その顔には、驚きと、畏怖と、そして──深い感嘆の情が浮かんでいた。
「長谷川殿の言葉に偽りはなかった。いや、それ以上だ。書状には『火盗改一の剣鬼』とあったが……これは、剣鬼などという言葉では足りん」
鷹取は落ちた木刀を拾い上げた。興奮に僅かに手が震えていた。
「渡辺殿。今一度、お頼み申したい」
「……」
「今のは……私が焦って打ち込んだ。焦れたのは私の弱さ。今一度、冷静に立ち合わせていただきたい」
堪えきれない獰猛な笑みが浮かんでいる。見えた剣の道の続き。その遙か先──聳え立つ山の頂に立つ存在の背中。その目には剣客としての矜持が燃えていた。負けたままでは終われない。そういう目だ。
源一郎は頷いた。
「承知いたしました」
再び、二人は向かい合った。
鷹取の構えが、先ほどとは違う。より慎重に、より丁寧に。源一郎の動きを見極めようとしている。
だが、やはり鷹取は動けなかった。構えれば構えるほど、源一郎の隙のなさが分かる。どこにも付け入る余地がない。打ち込む前から、結果が見えている。
果たして、一分、二分、四半刻──鷹取の額に汗が滲む。
それでも、鷹取は最後には歯を食いしばり打ち込むことを選んだ。死を覚悟して──。
「セィヤァァ!!」
今度は面打ちではなく、突き。鋭く、速く、源一郎を射殺さんばかりに首を狙った一撃。
──だが、結果は同じだった。
源一郎の体が僅かに動いた。それだけで、鷹取の突きは空を切った。カツリ、と木刀と木刀が合わさって逸らされる。
そして、源一郎の何気なく振られた一刀が、鷹取の首へと添えられた。それだけで──サラリとすり抜けて首が落ち、転がる様をまざまざと体感させられる。それが、確かな未来であると──。
再び、カランという木刀が手から溢れる音が道場に響いた。
「……」
鷹取は黙って自分の手を見つめた。二度目であろうと届くことはなかった。
「……参った」
鷹取は天を仰ぎ、深く息を吐いた。
「完敗だ……これほどの剣を見たのは、この年まで生きて初めてだ」
鷹取は暫く黙っていたが、やがて源一郎へと視線を向けた。その目には、もはや剣客としての矜持ではなく、一人の求道者としての敬意が宿っていた。鷹取は人格者なのだろう──そこには年下だからなどという侮りや、人前で負かされた恥は存在しない。
「渡辺殿。貴殿の剣は……山の頂とも見紛う」
「……」
「剣の道の果て。剣禅一如の体現。万水映月の極地。もはや一つの流派を起こせるほどの高みに達しておる」
鷹取の言葉に、門下生たちがざわめいた。一つの流派を起こせるほど──それは、剣の道において最高の賛辞だった。
「だが──」
鷹取は続けた。
「だからこそ、貴殿の剣は──容赦なく半端者の心を折る殺人剣の極みだ」
源一郎は静かに息を呑んだ。その言葉はまさしく源一郎の剣の特性を掴んでいた。
「隙がなさすぎる。如何にして相手を殺すかを突き詰めた……剣の道半ばの、未熟な者を育てる剣ではない。おおよそ、泰平の世では不必要なもの」
表情を険しくした鷹取は源一郎を真っ直ぐに見つめた。
「強くなりたければ勝手になれ、とでも言うかのような冷徹さがある。いや、それは冷徹というより……あまりにも遠いせいか。凡人には決して手が届かぬほどに。それなりの剣客となって初めて、貴殿の背が見える」
「……」
「私は四十年以上、剣を振ってきた。それなりの自負もあった。だが、今、貴殿と立ち合って──自分が積み上げてきたものが、まだまだ道半ばであることを思い知らされた」
鷹取は苦笑した。
「私のような世を知った気になっている老いぼれには、むしろ気つけ──良い薬となったのかもしれん。だが……」
鷹取は門下生たちを見やった。彼らの目には、驚きと、恐れと、そして──困惑が混じっていた。
自身の師が負けを認めた。まだ二十も半ば──自身たちと同じか、それよりも歳下の若者が遙か剣の道の先にいる。その事実を突きつけられた者たちの目だ。
「渡辺殿」
鷹取が言った。
「貴殿の剣をこれ以上門下生たちに見せるのは、正直なところ避けたい。若い身で、どうしてそのような剣になってしまったのかわからないが……相対すれば、恐れ、諦め、自棄となり心を折られる者が出るだろう」
「……承知しております」
「……長谷川殿の紹介だ。剣の振りを指導をしてくれるのは構わん。だが、門下生との立ち合いは……よほど望まれぬ限りは遠慮してもらえるか」
源一郎は頷いた。予想していたことだった。本所の道場と、同じことが起きている。──強すぎることの、孤独。源一郎はそれを噛み締めていた。
「──渡辺殿っ!」
その時──。
声がした。振り返ると、平蔵の嫡子──辰蔵が立っていた。
「先ほどの立ち合い、拝見いたしました!」
辰蔵の目は、輝いていた。恐れも、絶望もない。ただ、純粋な憧れが込められている。
「何が起こっているのか俺には分かりませんでしたが……凄かったです……!」
「……」
「俺にも、どうか……どうか、一手お相手願えませんか!」
鷹取が眉を顰めた。今の話を聞いていなかったのか、と。それも、一介の子弟が客分にいきなり立ち合いを望むなど、それこそ師として恥ずべきことだと。
「辰蔵、いきなり失礼であろう!」
「先生!お願いしますっ」
辰蔵は頭を下げた。
「父上から渡辺殿のことは聞いておりました。父上の部下で火盗改一の剣の使い手かもしれないと。──俺は、強い人と戦いたいんです!」
その声には、純粋な熱意が込められていた。
鷹取は暫く辰蔵を見つめていた。その目には呆れと、そして、かつての自身も持っていた──強くなることへの渇望を目にした眩しさが混じっていた。
そして、大きな溜息を一つ。
「……渡辺殿」
鷹取が源一郎に向き直った。
「先ほど、よほど望まれぬ限りは立ち合いを遠慮してくれと申し上げたばかり。だが、この大馬鹿者がこうして望んでおる。……言葉を早々に曲げて恥じ入るばかりだ。お手を煩わせて申し訳ないが、相手をしてやってもらえぬか」
その言葉には、辰蔵への叱責と、同時に辰蔵の心意気を認める響きがあった。源一郎は辰蔵を見た。剣の才能がない。それは先ほど見た通りだ。辰蔵の剣は源一郎の相手にはならない。
だが、この若者には──何かがあるのだろう。鷹取が今しがた言った、「半端者の心を折る剣」。この辰蔵は恐れてなど
いなかった。
「……承知しました。お相手しましょう」
源一郎は木刀を構えた。辰蔵の顔が、パッと明るくなる。
「ありがとうございます!」
辰蔵は道場の中央に進み出て、木刀を構えた。
その構えはやはり基本に忠実だった。型通りの正眼。足の運びも、重心の置き方も教わった通り。だが、動きに硬さがある。緊張しているのだろう。
「──参ります!」
辰蔵が動いた。──面打ち。真っ直ぐに、源一郎の頭を狙った一撃。
……遅い。鷹取と比べても、明らかに遅い。読むまでもなく、次の動きが分かる。源一郎は半歩横に動き、辰蔵の打ち込みを躱した。
そして──。本来なら、ここで辰蔵の木刀を弾き飛ばすところだ。鷹取にそうしたように。だが、源一郎はそうしなかった。代わりに、辰蔵の胴を軽く擦り当てた。
──胴に一筋の線が入り、その線から真紅の血と臓腑が溢れ落ちる。
「一本」
「……っ」
辰蔵は膝を付いて胴を確かめた。何も起こっていない──。顔を青くして──しかし、それ以上に悔しそうに顔を上げた。
「も、もう一本、お願いします!」
「どうぞ」
再び、二人は向かい合った。
辰蔵が動く。今度は突き。源一郎の首級を狙った一撃。源一郎は軽く体を捻り、突きを躱した。そして、辰蔵の小手を狙いスッと木刀の剣先で切る。
──左手の手首が地へと落ちる。
「二本目」
「……うぐ……も、もう一本っ……!」
三本目。四本目。五本目──。辰蔵は何度も挑み、何度も打たれた。何度も死を幻視した。
だが、諦めない。何度死を見せられても、すぐに立ち上がり再び構える。その目には、悔しさと、それでも諦めない意志が燃えていた。
「……もう一本……お願い、しますっ……!」
六本目──辰蔵の動きが、僅かに変わった。
それまでは、ただ教わった通りに打ち込んでいた。だが、今は──何かに気づきを得たのか、慎重に源一郎の動きを見ようとしている。どこに打てば当たるのか、どう動けば躱されないのか。無駄死にしないために。「剣の理」を考えながら、打ち込もうとしていた。
まだまだ拙い。だが、確かに一歩踏み込み、変わり始めている。源一郎は、僅かに口元を緩めた。
「辰蔵殿」
「はい」
「今日はここまでにしましょう」
「……はい」
辰蔵は悔しそうに頷いた。だが、その目には絶望はなかった。
「また、お相手願えますか」
「ええ」
「ありがとうございます!」
辰蔵は深く頭を下げた。
源一郎はその姿を見つめていた──。才能がない。それは変わらない。だが、この若者には諦めない心がある。そして、何より──源一郎の剣を相手にしても、心を折られていない。それは得難いものだ。
「渡辺殿」
鷹取が近づいてきた。
「辰蔵との稽古、感謝する」
「いえ」
「あやつは……貴殿の剣を受けても諦めなかった。それだけでも大したものだ」
鷹取は辰蔵を見やった。
「あやつには才能がない。それは儂も分かっておる。本人も分かっていよう……だが、あの諦めない心だけは本物だ」
「……そのようです」
「渡辺殿。たまにでよい。辰蔵の相手を、これからも頼めるか。そして──出来れば他の者たちにも」
周りを見れば皆が真剣に源一郎と辰蔵の立ち合いを観戦していた。この場には──誰も心折られている者などいなかった。それは、辰蔵が心折れることなく、源一郎に何度も立ち向かってゆく姿を見せたからであろうか──。
「承知しました。こちらこそよろしくお願いいたします」
「感謝する」
源一郎は深く頭を下げた。
──源一郎は再び一礼をして道場を出た。夏の陽射しが、容赦なく照りつけている。蝉時雨は相変わらず喧しく、汗が額を伝い落ちる。
道場主に本質を突かれた。
『容赦なく半端者の心を折る殺人剣だ』
『未熟な者を育てる剣ではない』
それは分かっている。ずっと前から、分かっていた。だが──。
辰蔵の顔が脳裏に浮かんだ。何度打たれても、諦めない目。源一郎の剣を見ても、源一郎の前に立っても心を折られなかった若者。
あの若者は違った。そして、その心意気は周囲にも伝わっていた。辰蔵の恐れぬ姿勢が周囲にも影響を与えていたのだろう。
源一郎は空を見上げた。入道雲が、夏空に高く聳えていた。
──また道場に顔を出そう。辰蔵の相手をするために。門下生たちの指導のためにも。
そして──自分自身の成長のためにも。




