第五十話
翌朝──源一郎は神田に向かっていた。
本所の屋敷を出て、両国橋を渡り、日本橋を抜け、神田へ。夏の朝とはいえ、既に陽は高く昇り、道を歩くだけで汗が噴き出す。
この時の源一郎は涼しげな着流しではなく、羽織袴──道場に赴くには正装でなければ失礼に当たる。腰には大小二本の刀。火盗改与力に相応しい正装だが、この暑さの中では帷子であっても些か堪えた。
──神田は職人と商人の町だ。
鍛冶屋、桶屋、畳屋、瓦屋──様々な職人たちが軒を連ね、朝から槌を打つ音や、鉋を引く音が響いている。商家の前では丁稚たちが掃除に励み、天秤棒を担いだ行商人が声を張り上げて通り過ぎていく。
本所の静けさとは違う、江戸でも有数の活気に満ちた町だった。
源一郎は懐から平蔵に渡された書状を取り出し、もう一度確認した。
──一刀流、誠道館。神田須田町。
道を尋ねながら歩いていくと、やがて大きな門構えの屋敷が見えてきた。門の脇には「一刀流 誠道館」と書かれた木札が掲げられている。門は開け放たれており、中からは竹刀を打ち合う音と、気合の声が聞こえてくる。
源一郎は門の前で足を止めた。深く息を吸い、吐く。
道場に足を踏み入れるのは、何年ぶりだろうか。本所の道場を追い出されて以来、一度も──。
あの時の記憶が蘇る──。道場主の困惑した顔。門下生たちの恐れを含んだ目。そして、「もう来ないでくれ」という言葉。
源一郎は首を振った。過去のことだ。今日は平蔵の頼みで来ている。辰蔵の剣を見るために。それ以上でも、それ以下でもない。
「御免」
源一郎は門をくぐり、玄関へと向かった。
玄関先には若い門下生が立っていた。十代後半ほどか。裕福な町人の出か、家が旗本格なのだろう。身ぎれいな道着に身を包み、額には汗が滲んでいる。稽古の合間に玄関先で休んでいたのだろうか。
「何方でしょうか」
「某、渡辺源一郎と申す。道場主の鷹取殿に、火付盗賊改頭取、長谷川平蔵殿からの書状を預かって参った」
源一郎が書状を差し出すと、若い門下生の目が僅かに見開かれた。
「火付盗賊改方の……少々お待ちください」
門下生は書状を受け取り、奥へと走っていった。
源一郎は玄関先で暫し待った──。中からは相変わらず、竹刀を打ち合う音が聞こえてくる。気合の声、足を踏み鳴らす音、師範らしき声が鋭く指導する言葉。活気のある道場だ。──懐かしさを少しだけ感じる。
暫くして、奥から足音が近づいてきた。現れたのは、五十前後──平蔵と同じくらいの歳と思しき男だった。
白髪交じりの髪を綺麗に束ね、厳格な面持ち。背筋は真っ直ぐに伸び、立っているだけで、かくあれかしと武士の威厳がある。道着を纏い、腰には木刀を差していた。
──この人が道場主か。
源一郎は直感的に分かった。この男は強い。見た目こそ全盛期を過ぎているが、その眼光は鋭く、隙がない。長年の鍛錬で培われた、本物の剣客の気配がある。
「長谷川殿からの使いか」
男は源一郎を値踏みするように見た。その視線は鋭いが、敵意はない。ただ、純粋に源一郎という人間を見定めようとしている。
「はい。火付盗賊改方与力、渡辺源一郎と申します」
臆することなく、源一郎は頭を下げた。
「道場主の鷹取重蔵だ。──書状、拝見いたした。上がるがよい」
鷹取は踵を返し、奥へと歩いていく。源一郎は草履を脱ぎ、その後に続いた。
廊下を進むと、道場が見えてきた。
広い板張りの空間に、二十人ほどの門下生がいた。年齢は様々で、十代の若者から四十代と思しき壮年まで。皆、道着に身を包み竹刀を手に稽古に励んでいる。
源一郎が道場の入口に立つと、門下生たちの視線が一斉にこちらを向いた。稽古の手が止まる。竹刀を打ち合う音が途絶え、道場が静まり返った。
「先生、そちらの御方は……」
一人の門下生が鷹取に尋ねた。
「長谷川殿の部下だ。火付盗賊改方の与力、渡辺源一郎殿。暫くの間、この道場に顔を出されることに相なった」
鷹取の言葉に門下生たちがざわめいた。
「火付盗賊改……」
「あの鬼平の部下か」
「渡辺……聞いたことがあるぞ。確か、鬼切とか呼ばれている若い役人がいるって話……」
ひそひそと囁き合う声が聞こえる。源一郎は黙ってそれを聞いていた。
火付盗賊改方──。盗賊を捕らえ、時には斬り捨てる役目。世間からは恐れられ、忌避されることも多い。道場の門下生たちが警戒するのも無理はなかった。
「静かにせよ」
鷹取が一喝すると、道場が再び静まり返った。
「渡辺殿は長谷川殿の紹介で来られた客分だ。粗相のないようにな」
「はっ」
門下生たちが一斉に頭を下げた。
鷹取は源一郎を道場の隅へと案内した。そこには畳が敷かれた小上がり──上座があり、師範席として使われているようだった。
「まあ、座れ」
鷹取が腰を下ろし、源一郎もそれに倣う。門下生が茶を運んできた。源一郎は礼を言って茶碗を受け取り、一口含んだ。冷えた茶が喉を通り、汗ばんだ身体に沁みる。
「長谷川殿からの書状は読んだ」
鷹取が言った。
「辰蔵の剣を見てやってくれとのことだな」
「はい。頭取──長谷川様からはそのように仰せつかりました」
「辰蔵はあそこにおる」
鷹取が道場の一角を指差した。
そこには、二十歳前後の若者がいた。背は高く、父親に似た精悍な顔立ち。だが、どこか線が細い印象がある。今は年下の門下生と稽古をしているようだったが、その動きは──。
源一郎は眉を顰めた──。型は覚えている。足の運び、竹刀の振り方、間合いの取り方。基本はしっかりと身についている。だが、それだけだ。
動きに迷いがある。相手の動きを読めていない。反応が遅い。そして何より──気迫がない。剣の才能がないと、平蔵は言っていた。確かにその通りだった。辰蔵の剣は実戦では使い物にならない。
「どう見る」
鷹取が問うた。
「……型は覚えておられますね。基本通りの動きかと」
「それだけか」
「……はい」
源一郎は正直に答えた。
「応用が利きません。相手の動きを読む目がない。反応も遅い。そして、剣に気迫がない。剣とは『何か』という問いを抱いていないようです」
「厳しい評価だな」
「見たままの事実を申し上げたまでです」
鷹取は小さく息をついた。その態度はその通りだと言わんばかりのもの。
「私もそう見ておる。辰蔵は真面目に稽古に通っておるが、上達の速度は遅い。他の門下生と比べても、明らかに劣る。正直に言えば剣の才能がないと言わざるを得ん」
「……」
「だが」
鷹取は源一郎を見た。その視線は鋭い。
「あやつには、他の者にないものがある」
「他の者にないもの、ですか」
「ああ。諦めん心だ」
鷹取は目を細めて辰蔵を見やった。
「辰蔵は、負けても負けても立ち向かってくる。何度打ちのめされても、何度恥をかいても、翌日にはまた道場に来る。それだけは、他の誰にも負けておらん」
源一郎も辰蔵を見た。今も、年下の門下生に打ち込まれている。竹刀が面を捉え、辰蔵は後ろによろめいた。だが、すぐに体勢を立て直し、再び構える。
「もう一本!」
辰蔵の声が道場に響いた。その声には、悔しさと、それでも諦めない意志が込められていた。
「……なるほど」
源一郎は呟いた。才能がないことは、確かだ。だが、辰蔵には何かがある。平蔵が「真っ直ぐな性根」と言ったのは、これのことか。
「渡辺殿──。長谷川殿からの書状には、もう一つ書いてあった」
「何でしょうか」
「──火盗改一の剣鬼、とな」
源一郎は押し黙った。それはまるで困ったように。
「そして──かつて本所の一刀流道場において、十五そこらで免許皆伝を得た者がいたと聞いたことがある。しかも、道場主を含む全ての門下生を打ち負かして。流石に怠慢ではないかと耳を疑ったがな。たしか──その子どもの名が渡辺源一郎といった筈だ」
「……昔の話です」
「昔の話か。だが、その後も腕は鈍っておらんようだ」
鷹取の目が源一郎を射抜いた。
「長谷川殿の書状には、こうも書いてあった。『源一郎の剣を見てみろ。驚くぞ』とな」
源一郎は目頭を押さえた。頭取が悪戯気な表情を一瞬でも見せたのは、こういうことだったのか、と。
「辰蔵の剣を見させるついでに、私に渡辺殿の剣も見てみろ、ということなのだろう」
「……」
「どうだ。一手、私と立ち合ってみる気はあるか」
鷹取の言葉に、耳を澄ませて聞いていた門弟たちが騒ぎ、道場が再びざわめいた。
「先生が自ら……」
「相手は火盗改の与力だぞ」
「先生対、火盗改の鬼切ということか……」
門下生たちが興味津々の目で源一郎を見ている。
源一郎は暫く黙っていた。道場主との立ち合い。本所の道場では、それが全ての始まりだった。道場主を打ち負かしたことで源一郎は道場を追われることになった。
また同じことになるのではないか。その不安が胸をよぎった。だが──。
「……承知しました」
源一郎は立ち上がった。鷹取もまた立ち上がる。その顔には僅かな笑みが浮かんでいた。
「よし。お前たち道場の真ん中を空けろ」
鷹取の号令で門下生たちが道場の端に下がった。広い板張りの空間が源一郎と鷹取のために空けられる。
源一郎は道場の中央に進み出た。鷹取もまた、向かい合うように立った。
──二人の間は、約二間。竹刀ではなく、互いに木刀を構える。
道場が静まり返った。門下生たちは息を呑み、二人の対峙を見守っている。
鷹取は正眼に構えた。木刀の切っ先は源一郎の喉元を指し、隙がない。五十前後とはいえ、現役の剣客だ。長年の鍛錬で培われた技と経験がある。並大抵の相手ではない。
対する源一郎は──。
──静かに息を吐いた。
意識の底へと潜り、己を見つめる。雑念を払い、心を鎮める。貪を知り、戒とする。瞋を見つめ、定を成す。癡を認め、慧を求める。心身に、静かに気を満たす。
──いつの間にか到達してしまった剣禅一如、無念無想の極地。
源一郎の纏う空気が変わった。
気配がない。殺気がない。武威も、鬼気も、殺気も、何もない。ただ、そこに一人の剣士が在る。それだけの状態となる。
一瞬ごとに研ぎ澄まされてゆく精神。自我を削ぎ、心は水鏡のように静謐で、身体をただ一本の矛と成す。
鷹取の表情が、僅かに強張った。
──何だ、これは。
鷹取は目の前の若者を見つめた。先ほどまでは、確かに人間の気配があった。若者の、どこか迷いと憂いを帯びた佇まい。
だが、今は違う──。気配が消えている。いや、消えているのではない。あまりにも澄み切っていて捉えられないのだ。
まるで、遙か山の頂から見下ろされているかのような、指南試合──。鷹取は木刀を構えたまま、動けなかった。打ち込もうとする。だが、一歩踏み込んで打ち込むことができない。
どこに打っても、届かない気がするのだ。面を打とうとすれば、その前に胴を斬られる絵が浮かぶ。胴を狙えば、小手を落とされる幻が見える。突きを放とうとすれば、その瞬間に首を刎ねられる予感がする。
どこに打っても、逆に斬られる。そんなイメージばかりが、次々と浮かんでは消えていく。
──馬鹿な。
鷹取は歯を食いしばった。四十年以上、剣を振ってきた。数え切れないほどの立ち合いを経験してきた。諸国を回り、武者修行の旅にも出た。真剣での斬り合いも一度や二度ではない。
だが──こんな経験は初めてだった。目の前に相手方がいるのに打ち込めない。打ち込む前から、打ち負けている。それほどの相手と剣を交えるのは──まだ若き頃、当時の師を相手にしたのが最後。
──時が止まったような静寂が、道場を支配していた。
門下生たちは、何が起きているのか分からなかった。二人は向かい合ったまま、動かない。ただ、木刀を構えて睨み合っているだけだ。
だが、分かる者には分かった。険しい表情の鷹取が動けないでいるのだと。
「……っ」
鷹取は奥歯を噛み締めた。埒が明かない。このままでは、いつまで経っても決着がつかない。
──ならば、力尽くで打ち破るまでだ。
鷹取は焦れ、覚悟を決めた。裂帛の気合と共に踏み込んだ。
「──参るッ!」
渾身の面打ち。四十年の鍛錬の全てを込めた、鷹取の最高の一撃。
だが──。
源一郎の木刀が閃いた。それは一瞬だった。鷹取の木刀が、返しにより容易く弾き飛ばされる。いや、弾き飛ばされただけではない。
その瞬間──鷹取は源一郎によって振り下ろされる一刀で、自身が真っ二つにされる様を幻視した──。




