第四十九話
蝉時雨が、朝から容赦なく降り注いでいた。
旧暦七月。夏の盛りである。空には入道雲が湧き立ち、陽射しは肌を刺すほどに強い。道を歩けば汗が噴き出し、着物が肌に張り付く。江戸の町は熱気に包まれ、人々は日陰を求めて軒下に身を寄せていた。
──源一郎は品川宿を抜けて南へ向かっていた。
手には屋敷の庭で育てた花を束ねたものを持っている。紫の桔梗と黄色の女郎花。どちらも素朴な花だが、夏の暑さの中でも凛と花弁を広げていた。
鈴ヶ森──。
東海道沿いにあるこの処刑場は、江戸の南の刑場として知られている。磔、火炙り、獄門……重罪人がここで命を絶たれ、その多くは無縁仏として葬られる。引き取り手のない骸は、処刑場近くの寺に運ばれ、名も刻まれぬ墓に埋められる。
──日枝山王神社に入った盗賊団。
あの事件から、ひと月ほどが過ぎていた。
山王祭の奉納金──将軍家からの御用金を含む三千両を超える大金が、祭りの緊張が解けた際に盗み出された。将軍家と日枝神社との結びつきを示すもの、各大名が幕府への忠誠を示すための寄進金。それらが一夜にして消え、当直の神職と蔵の番人が死んだ事件。
元力士の巨漢と、元地方藩士の武士──主犯格とされた二人が獄門に処された。首謀者として、その首は三日三晩、獄門台に晒され、他の主だった者たちも磔や打ち首となった。
根城としていた山谷堀奥の破れ寺にいた無宿人たちは、石川島の人足寄場に送られた。彼らは直接盗みに関わったわけではなく、ただ生活の支えと寝床を求めて寺に転がり込んでいただけだった。とはいえ、少なからず盗賊団に与していた以上、取り調べを免れることはできない。
そして、元神職の兼嗣は──。
彼は事件の前に死んでいた。盗賊団に阿芙蓉を嗅がされて神社の警備について口を割らされた後、息を引き取った。だが、その死は不審な点が残るもの。謎の御師と呼ばれる存在に記憶を消せと言われ、主犯格二人が阿芙蓉を深く吸引させすぎたことで呼吸が止まったと言う経緯だった。
その遺体は破れ寺の片隅に埋められていた。
埋葬されてさほど時間は経っていないため、掘り起こすことは難しい。数年後に再度、正式に墓を移す事になりそうだと源一郎は聞いていた。
──盗賊団の多くは、食い詰めた無宿人だった。
飢饉で村を追われた百姓。藩の取り潰しで路頭に迷った武士。博打で身を持ち崩した町人、勤めていた店から逃げた元奉公人。彼らには帰る場所がなく、頼る縁もなく、ただ生き延びるために盗みを働いた。主犯格の二人と講を作り、生活を助け合っていた者たちだった。
ただの悪人と呼ぶには、あまりにも哀れだった。
鈴ヶ森を過ぎ、街道から逸れた細い道を進む。木立の中に、古びた寺が見えてきた。山門は苔むし、境内には人の気配がない。蝉の声だけが響いている。
本堂の裏手に回ると、雑草に埋もれるようにして、小さな墓石が並んでいた。
無縁塚。
名を刻まれることもなく、花を供える者もいない墓たち。処刑された罪人、行き倒れの旅人、身寄りのない病人──この世に縁を持たぬまま逝った者たちが、ここに眠っている。
源一郎は墓の前に立ち、手を合わせようとした。
──そこで、気づいた。
「……花?」
墓前に、既に花が供えられていた──。まだ新しい。萎れてもいない。今朝か、遅くとも昨日には供えられたものだろう。紫陽花の花が、静かに墓石に寄り添っていた。
源一郎は眉根を寄せた。
無縁仏の墓に、花を供える者がいる。しかも、処刑されたばかりの罪人たちの墓に。いったい誰が。
「──珍しいことですね」
声がした。源一郎は振り返った。
墓石の傍らに、小さな地蔵が立っていた。苔むした石の身体、穏やかに閉じられた目。高さは源一郎の膝ほどしかない。風雨に晒されて丸みを帯びた輪郭が、かえって慈悲深い印象を与える。
地蔵の目が、ゆっくりと細く開いた。
石で出来た体でありながら、その瞳には深い慈悲の光が宿っていた。
源一郎は息を呑んだ。これは──本物の仏の慈悲の化身。
──地蔵菩薩。
六道──地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上──の全てを巡り、苦しむ衆生を救済する菩薩。釈迦入滅から弥勒菩薩が現れるまでの無仏の時代に、衆生を救う役目を担うとされる。特に、地獄に堕ちた者や、無縁仏となった者、そして幼くして死んだ子供たちを救うと信じられている。
処刑場の傍らにこの地蔵が置かれたのは必然。ここは最も救いを必要とする魂が集まる場所なのだから。
「地蔵菩薩様……この地を巡っておいでなのですか」
源一郎は膝をつき、深く頭を下げた。
「ええ。この無縁塚にも救われぬ魂がありますから」
地蔵菩薩の声は、風に溶けるように静かだった。老いも若きもない、男とも女ともつかない、ただ穏やかな声。蝉時雨の中でも不思議とはっきりと聞こえる。
「罪人を捕らえた側が、その墓に手を合わせに来る。珍しいことです」
「畏れながら……彼らには同情すべき所がありましたので」
源一郎は顔を上げた。
「罪人ではありましたが、言葉を交わしました。知ってしまった事情を無かったことにはできません」
「そうですか」
地蔵菩薩は暫く黙っていた。石の顔に表情はないが、何かを考えているような気配があった。
「あなたは、罪人の彼らを憎んではいないのですね」
「……憎んでいないかは、正直わかりません。ですが、悩んでいます」
源一郎は正直に答えた。
「彼らの多くは、やむにやまれず盗みを働いた者たちでした。飢えて、凍えて、どこにも居場所がなく……生き延びるために、悪事に手を染めた」
「それでも、罪は罪」
「はい。承知しております。だからこそ、裁きは正しく行われました」
源一郎は墓石を見つめた。
「ですが……正しいことが全てではないのではないかと、私は思います。裁きは正しくとも、彼らがここに至った道のりには、同情すべき点があった。罪は罪。しかし……それを忘れてもならないと思うのです」
地蔵菩薩は小さく頷いた。
「良い心がけです。人の世は複雑です。悩むことも、苦しみも多い。しかし、慈悲を持って供養する者がおれば、この塚の下で眠る者たちも少しは浮かばれましょう」
源一郎は持ってきた花を墓前に供えた。紫陽花の隣に、桔梗と女郎花が並ぶ。色とりどりの花が、無縁塚に彩りを添えた。
「──地蔵菩薩様、ひとつお訊ねしてもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「この花を供えたのは、どなたでしょうか」
「ああ、あの花ですか」
地蔵菩薩は紫陽花を見やった。
「あなたのように若い者でしたよ。今朝方、夜が明けてすぐに来ました」
「どのような者でしょうか」
「武士の姿をしておりましたが……中身は女でしたね」
源一郎は目を見開いた。
「男装を?」
「ええ。若侍のような風体でしたが、あれは女の身体です。どのような理由があって男装しているのかは分かりませんが……」
地蔵菩薩は続けた。
「そして、不思議な雰囲気を持っていましたね。町人とも、武家の娘とも違う。なんと申しましょうか、影を感じる者でした」
「影、ですか……」
「うまく言えませんが……自身を偽ることに慣れている者と例えられましょうか。役者のように演技することが身に染み付いているように」
源一郎の脳裏に、一人の女の顔が浮かんだ。
──弓使いの女。
あの事件で捕らえた、無口な女。盗賊団に紛れていたが、明らかに他の者たちとは違っていた。訓練を受けた者特有の動き、源一郎が何を問うても、一言も話さずただ黙っているだけだった。
そして数日後──将軍家の葵の御紋が押された書状を持った男が、火盗改の役宅に現れた。
『此度、貴方様のところでお預かりになっている女を、引き取りに参りました』
──御庭番。将軍直属の密偵。
あの女は盗賊団に潜入して何かを探っていた。恐らくは、お庭番としての命を受けて。
「その者は何か言っていませんでしたか」
「いいえ。ただ黙って手を合わせて花を供え、去っていきました。悲しそうな顔をしていましたよ。あぁ──去り際に、ひとつだけ呟いていましたね」
「何と」
「『許してください』と」
源一郎は息を呑んだ。
──許してください。
あの女は御庭番だ。盗賊団に潜入していた密偵だ。任務として情報を集め、報告することが役目だったはず。……だが、潜入中に情が湧いたということなのか。
盗賊団の中にいたのは、悪人ばかりではなかった。食い詰めた無宿人、行き場を失った者たち。彼らと共に過ごすうちに、同情や親しみが生まれても不思議ではない。
そして、その者たちが──結果として処刑された。任務とはいえ、それは……辛いことだっただろう。
「私にも、あの者が何者かは分かりません」
地蔵菩薩は穏やかに言った。
「ただ、心の根は悪しき者ではなかったように思います。少なくとも、この墓の下の者たちを悼む気持ちは本物でした。それだけは確かでしょう」
「……教えていただき、ありがとうございます」
源一郎は深く頭を下げ、地蔵菩薩は静かに目を閉じる。
「どうか、その心を大切になさい。憎しみも、悲しみも、慈しみも……全ては心の働きから生まれるもの。自身を見つめ、それが苦しみであろうと正しい心を持とうとする者が増えることは、この世にとって喜ばしいことです」
源一郎は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
顔を上げると、地蔵菩薩は元通り、ただの石像に戻っていた。苔むした石の身体、穏やかに閉じられた目。先ほどまでの会話が、夢だったかのように。
だが、夢ではない。源一郎の胸には地蔵菩薩の言葉がしっかりと刻まれていた。
蝉時雨は止まない。夏の陽射しは容赦なく降り注ぎ、墓地の上にも平等に光を落としている。
願わくば、安らかな処へ──。
源一郎は静かに目を閉じ、もう一度、無縁仏たちのために祈りを捧げた。来る前にあった心の曇りは、少し晴れていた。
§
火盗改の役宅に戻ったのは、昼を過ぎた頃だった。
桜田門外より南にある役宅は、夏の陽射しの下で静かに佇んでいた。門をくぐると、庭先で下男が水を撒いている。打ち水の音が涼しげに響くが、今日の暑さはそう簡単には和らがない。
与力詰所で書類仕事を片付けていると、若い同心が声をかけてきた。
「渡辺様、頭がお呼びです」
「分かった」
源一郎は筆を置き、平蔵の私室へと向かった。
通されたのは、八畳ほどの部屋──執務室となっている書院だった。床の間には山水画の掛け軸がかかり、文机の上には書類が積まれている。庭に面し、開け放たれた障子戸の向こうにある庭園からは蝉の声が聞こえてくる。
平蔵は上座に腰を下ろし、源一郎に座るよう促した。
「堅苦しい話ではない。楽にせよ」
「はい」
屋敷に勤める女中が茶を運んできた。源一郎は茶碗を受け取り、一口含んだ。
平蔵は暫く黙って茶を啜っていたが、やがて口を開いた。
「日枝神社の件、ご苦労だったな」
「いえ……力及ばぬ点も多くありました」
「謙遜するな。お前がいなければ、あの盗賊団は捕らえられなかった」
源一郎は黙って頭を下げ、平蔵は続けた。
「だが、お前も根を詰めすぎだ。事件が終わってから、ろくに休んでおらんだろう」
「そのようなことは……」
「嘘をつくな嘘を。顔を見れば分かる。お前は分かりやすい」
平蔵の目が、源一郎を射抜いた。
「今日も、どこぞへ出かけていたそうだな」
「……鈴ヶ森へ」
「墓参りか」
平蔵は驚いた様子もなく頷いた。
「お前らしいな」
「敵ではありましたが……同情する点はありましたので」
「分かっておる。この世はままならんことばかりだ」
平蔵は小さく息をついた。
「あの盗賊団の連中、食い詰めた無宿人が多かったな」
「はい」
「やむにやまれぬ事情があった者も、少なくなかったろう」
源一郎は神妙に頷いた。
「──しかし、罪は罪だ。裁きは正しくあらねばならん」
平蔵は静かに言った。
「だが、一方で正しいことがこの世の全てではない。時に、人情というものが法を上回ることもある。それは、お前も分かっておろう」
「……はい」
「お前は心根の優しき男だ。今回のこと気に病むなとは言わん。だが、引きずりすぎるな。今お前が潰れては、救える者も救えなくなる」
源一郎は深く頭を下げた。
「はっ、肝に銘じます」
「うむ」
源一郎の顔を見ると平蔵は頷き、それから少し表情を和らげた。少し悪戯気な空気を纏う。
「してな、源一郎。ひとつ頼みがあるのだが……」
「頼み、ですか」
「ああ。うちの辰蔵のことだ」
──辰蔵。
平蔵の嫡男である。源一郎は面識こそあるが、言葉を交わしたことはまだない。
「辰蔵が神田の道場に通っておる」
「道場、ですか」
「一刀流の誠道館という道場だ。道場主の鷹取重蔵は、俺の旧知でな。腕は確かだ」
平蔵は続けた。
「辰蔵の剣を少し見てやってくれんか」
「私が、ですか」
「ああ。あやつは剣の才能がない。俺が見ても分かる。型は覚えておるが、応用が利かん。実戦では使い物にならんだろう」
平蔵の目に父親としての情が滲んだ。
「だが、真っ直ぐな性根だけは持っておる。それだけは俺が保証する」
「……」
「お前の目で、あやつの剣を見てやってほしい。伸びる余地があるのか、ないのか。あるなら、どう伸ばせばよいのか」
源一郎は暫く黙っていた。
「……承知しました。ただ、私に見る目があるかどうか」
「謙遜するな。お前ほど剣の分かる男はそうはおらん」
源一郎が頭を下げると、平蔵は文机の引き出しを開け、何かを取り出した。
「これは、鷹取への紹介状だ」
平蔵が差し出した書状を、源一郎は両手で受け取った。
「ついでに、お前も気晴らしに行ってこい。根を詰めすぎだ。体を動かせば少しは気も晴れよう」
「はい」
源一郎は紹介状を懐に収めた。
──だが、道場という場所には苦い思い出があった。
源一郎は幼い頃から、家伝の鬼切流を父に仕込まれていた。渡辺綱──鬼切りの血を引く渡辺家に代々伝わる剣術で、嘘か真か悪鬼に対峙することを主眼に置いた流派だ。だが、それだけでは江戸の世に生きる武士として不十分だと考えた父、藤治郎は、源一郎を本所の一刀流道場にも通わせた。
そこで源一郎は、驚くべき速さで一刀流を習得した。
他の門下生が何年もかけて学ぶ技を、源一郎は数ヶ月で身につけた。一年も経たぬうちに、道場主を含む全ての門下生を打ち負かすようになった。十五やそこらの子どもが大人に混じってである。
源一郎に振り下ろされる竹刀は尽くが当たらず、反対に意識の外で滅多打ちにされる。子どもだからと力づくで掛かろうとした者は逆に、力で捻じ伏せられた。
剣で勝てないからと、大人げないことに影から嫌がらせしようとした者は、何故か『犯人を知っていた』源一郎からのやり返し──稽古でボコボコに叩きのめされて心を折られ、道場に二度と近づくことはなかった。
そして、ある日──道場主に呼び出され、厄介払いのように免許皆伝を授けられた。
本来は喜ばしいことのはずだった。だが、道場主の顔は晴れやかではなかった。
『源一郎。お前に教えることは、もう何もない。免許皆伝を授ける。……だが、申し訳ないが、もう来ないでくれ』
事実上の放逐だった。強すぎるから、来るなと言われた。それ以来、源一郎は道場というものに足を踏み入れていない。
「どうした。何か気がかりでもあるか」
平蔵が源一郎の顔を覗き込んだ。
「いえ……何も」
「また嘘か。本当に分かりやすい。はっきりと顔に出ておるぞ。俺に隠し通せるとでも思っているのか」
源一郎は苦笑した。
「……実は、道場には少々苦い思い出がありまして」
「ほう」
「子どもの頃、本所の道場に通っておりましたが、早々に免許皆伝を授けられた後……来るなと言われました」
平蔵は目を丸くした。
「なに、来るなと?」
「はい。何でも、他の門下生の稽古の邪魔になると」
「……なるほど」
平蔵は腕を組み、暫く考え込んだ。
「それは……難儀なことだったな」
「はい」
「だが、神田の道場は違う。鷹取は、そういう狭量な男ではない。紹介状にもお前のことは書いておいた。──火盗改一の剣鬼だとな。だからそう心配せずともよい」
平蔵はそう言って、源一郎の肩を叩いた。
「それに、お前の剣を見たがる者もおるかもしれん。辰蔵の相手をしてやりながら、少し体を動かしてこい。気晴らしだと思え」
「承知しました」
源一郎は苦笑しながら書院を出た。
懐の紹介状に手を当てる。
神田の道場か。あまり気は進まなかったが、上役である平蔵の、しかも気づかいによる頼みを断るわけにはいかない。
与役宅の庭に夏の陽射しが、容赦なく照りつけている。
──明日は、神田か。
源一郎は空を見上げた。入道雲が、夏空に高く聳えていた。




