第四十八話
──日が暮れ始めた頃、空から雨粒が落ちてきた。お鈴が空を見上げた。ぽつり、ぽつりと、雨粒が頬に当たる。
「あ……」
「やはり降ってきたか」
源一郎は番傘を開いた。大きな油紙の傘が、二人の頭上に広がる。
「ほら、こっちへ来て傘の中に入れ」
「はい」
お鈴が源一郎の傍に寄り添った。番傘は大きいとはいえ、二人で入るには少し狭い。自然と、肩が触れ合う。
お鈴の声がどこか嬉しそうだった。雨は次第に強くなっていった。ぽつぽつと落ちていた雨粒が、やがて本降りになる。
「これは……しばらく止みそうにないな」
「……こう雨が激しいと、せっかくの相合い傘も風情がありませんね」
「何を馬鹿なことを言っているんだか」
源一郎が呆れたように呟いた。梅雨時の雨だ。未来の集中豪雨と異なり、一度降り出せば、なかなか降り止まない。
「本所まで帰るのは難しいですね……」
「ああ。この雨の中を一刻以上も歩けば、傘があっても濡れる」
源一郎は周囲を見回した。祭りの屋台は慌てて片付けを始めており、軒を貸してくれそうな店も戸を閉め始めている。
「仕方ない。どこかで泊まるか」
「泊まる……」
お鈴の小さな声が、僅かに震えた。
「他に方法がないだろう。この雨では、どうにもならん」
しかしどうするか──日本橋には旅篭があまりない。少し歩くことになるが浅草橋まで行くと参拝者向けの旅籠が多くある。祭りの時期は混み合うが、祭りの後ともなれば空きもあるだろうと源一郎は判断した。
「ほら、傘を持っていろ」
「え?」
「背負ってやる。乗れ」
「そ、そんな、源一郎様!そのようなこと……」
「いいから乗れ。雨で濡れるぞ」
源一郎はお鈴の前にしゃがみ込んだ。お鈴は戸惑ったように立ち尽くしていたが、やがて観念したように源一郎の背中にそっと身を預けた。
「失礼いたします……」
お鈴の腕が、源一郎の首に回る。細い体が背中に乗り、柔らかな重みが伝わってきた。
「しっかり掴まっていろ」
「は、はい……」
源一郎は立ち上がり、お鈴を背負ったまま走り出した。
雨の中を駆ける。背中にはお鈴の温もり。耳元で、お鈴の息遣いが聞こえ、その吐息が首筋にかかる。
──雨粒が頬を打つ。だが、不思議と冷たくはなかった。背中の温もりが体中に広がっているせいか。
「……源一郎様」
「何だ」
「……ありがとうございます」
お鈴の声が、小さく震えていた。恥ずかしさか、それとも別の感情か。
「礼を言うほどのことでもない」
「でも……嬉しいです」
お鈴がぎゅっと腕に力を込めた。源一郎の首に、より強くしがみつく。
「こうしていると、子供の頃を思い出します。源一郎様に背負ってもらったこと……」
「そんなことがあったか」
「ありました。私が川で足を滑らせて、足首を挫いた時です。源一郎様が背負って、屋敷まで連れて帰ってくださいました」
「……ああ、そういえば」
──そんなこともあったな、と遠い記憶が蘇る。まだ幼い頃のお鈴は、よく転んでは泣いていた。その度に背負って連れ帰ったものだ。
「あの時も、源一郎様の背中は温かくて……安心しました」
「……」
「今も、同じです──」
お鈴の声が、耳元で囁くように響いた。源一郎は黙ったまま、雨の中を走り続けた。
§
浅草橋近辺にある旅籠「鶴屋」に辿り着いた。
番傘があったおかげで、それほど濡れずに済んだ。とはいえ、お鈴の着物は少し水を吸い、源一郎の袴も膝から下が湿っていた。源一郎がお鈴を下ろす。お鈴は頬を赤く染めたまま、小さく頭を下げた。
「いらっしゃいませ──これは御武家様……雨に降られましたか。さあさあ、足を洗ってから中へどうぞ」
「急ですまないな。部屋は今日空いているか」
「へえ、勿論ございますとも。二階の奥に、良い部屋がございますよ」
番頭が出てきて、二人の姿を見た。二人を中に招き入れ、足を洗うための桶と、足を拭くための手拭いを差し出す。
「お二人様で、よろしゅうございますか」
「ああ」
源一郎は頷いた。番頭は特に何も聞かず、部屋を用意してくれた。武士と若い女が一緒に泊まる──それが何を意味するかは、番頭も理解しているのだろう。
だが、それについて何も言わない。旅籠には様々な事情を抱えた客が訪れ、そして去っていく。番頭はそれを全て見てきた。そして、その関係に関わっていい訳でもないと知っているのだろう。
「かしこまりました。では、二階へご案内いたしましょう」
二人は階段を上り、奥の部屋に通された。八畳ほどの座敷で、窓からは雨に煙る町が見えた。屋根を打つ雨音が絶え間なく響いている。
「お着物、乾かしましょうか。火鉢をお持ちいたしますので」
「ああ、頼む」
「それと、お食事は……」
「簡単なもので良い。酒も一本つけてくれ」
「かしこまりました」
番頭が下がっていくと、部屋には二人きりになった。お鈴は濡れた髪を手拭いで拭きながら、障子窓の外を見ていた。雨は依然として降り続き、止む気配がない。
「……すみません、源一郎様」
「何がだ」
「私が金魚すくいに夢中になっていたばかりに、帰り損ねてしまいました」
「気にするな。俺も楽しんでいた」
源一郎は肩を竦めた。
「それに、たまにはこういうのも悪くない」
「こういうの……ですか」
「ああ。役目を忘れて、ただ祭りを楽しむ。そういう時間も、必要だろう」
源一郎の言葉に、お鈴は微かに笑った。
──やがて、番頭が食事と火鉢を運んできた。濡れた裾は火鉢の傍で乾かすことにして、二人は膳を囲んだ。質素だが温かい食事だった。焼き魚に、煮物に、味噌汁。それに、体を内から温める酒が一本。
「いただきます」
二人は静かに食事を始めた。雨音を聞きながら、酒を酌み交わす。お鈴は普段あまり飲まないが、今夜は源一郎に注がれるまま杯を重ねていた。
「……源一郎様」
「ん?」
「今日は楽しかったです」
お鈴の頬が、ほんのりと赤く染まっていた。酒のせいか、それとも──
「久しぶりに……こうして、二人きりで過ごせて」
「ああ」
「萬屋での仕事は、嫌ではありませんでした。でも……やはり、源一郎様の傍でお役に立てる方が、私は……」
お鈴は言葉を切った。俯いて、杯の中の酒を見つめている。
「……」
源一郎は黙ってお鈴を見ていた。
「……そろそろ、横になるか」
源一郎が言うと、お鈴は顔を上げた。瞳が揺れる──。
「はい……」
敷き布団に掻巻という夜着──布団は、一組だけ敷かれていた。寝るときには、掛け布団の代わりにこの掻巻を掛けて寝ることになる。お鈴は布団を見つめ、それから源一郎を見た。酒の仕業以上に、頬が赤くなっている。
「あの……源一郎様……」
「何だ」
「私は……その……」
「……ほら、早く来い。夏とは言え、雨の夜は肌寒い。風邪をひくぞ」
源一郎の言葉に、お鈴は眉尻を下げ、恥ずかしがるように顔を伏せた。
──二人は幼い頃からの付き合いだった。お鈴の両親が亡くなった時、源一郎の父、藤治郎が残されたお鈴の面倒を見ることを決めた。それ以来、お鈴は渡辺家で育ってきた。源一郎の密偵となるべく、藤治郎とおたかの手ほどきを受けながら。
そして──いつしか二人は男女の関係になっていた。
表向きはおたかの養女ということになっているが、父とおたかの関係を鑑みれば、必然だったとも言える。与力と密偵──男と女。強い絆を作るのに肉体的な関係を結ぶのは、ある意味で当然のこと。昔の藤治郎と、おたかが、そうだったように──。
幼い頃から共に育ち、互いをよく知り、信頼し合っている。二人の間には、家族以上の、だが夫婦とも違う、特別な絆があった。
だというのに──お鈴はまだどこか少女のように、時折、このような反応をする。それが、源一郎にはいじらしく思えて仕方ない。
「お鈴」
「……はい」
お鈴は小さく頷いた。
それに──源一郎は前世の記憶を持つ者として、この世界でたまに孤独を感じることがある。座敷童の菖蒲は当然として知っているが、他の誰にも理解されない秘密を抱えている。生まれ変わり──そんなことを、誰が信じるだろうか。誰にも言えない。言ったところで、狂人扱いされるだけだと。
お鈴もまた、妖狐の血を引くと言われる家に生まれ、普通の人間とは違う感覚を持っている。妖怪が見えることもある。それは誰にも言えない秘密だった。
二人は、その秘密を共有していた。そのことも唯一無二の絆を作り出しているのだろう。一蓮托生。一心同体であるとして。
──源一郎は立ち上がり、行燈の明かりを落とした。部屋が闇に包まれる。
源一郎は着物を脱ぎ、襦袢姿で布団に入った。お鈴もまた、襦袢一枚になってその隣に横になる。狭い布団の中で、肩が触れ合う。しばらくして、お鈴が小さく身を震わせた。
雨で冷え込んでいる。この時代、江戸は小氷期にあたる──夏であっても雨の夜は少し肌寒い。
「……やっぱり、少し、寒いですね」
そう言って、お鈴は源一郎の方へ身を寄せた。その体が、ぴたりと源一郎に寄り添う。
「……」
源一郎は黙ってお鈴を受け入れた。腕を回し、その細い体を抱き寄せる。お鈴の体温がじんわりと伝わってくる。熱が一つになるように。
「……源一郎様」
「ん」
お鈴は源一郎の胸に顔を埋めた。きつく──抱き留める。その吐息が次第に荒く華やいだものになっていく。お鈴の鬢付け油の香りが鼻腔を擽り──。そして──。
カツカツと打ちつける雨音が子守唄のように響いている。隣にいる者の温もりと吐息。源一郎の耳に入り、染み渡るように心を落ち着ける。
──こういう夜も、悪くない。
腕の中のお鈴の温もりを感じながら、源一郎は思った。
山王祭は終わり、事件も一段落した。だが、江戸には危険な輩がまだまだ潜んでいる。世の裏で暗躍する影──その姿は、まだ見えてこない。
だが──この温もりがある限り、戦える。どんな闘いが待っていようと、この温もりを守るためならば立ち向かえる。そんな想いが胸の奥から湧き上がってきた。
お鈴と向かい合わせになる──。
明日には、また日常が始まる。だが、今夜は──ただ、この温もりの中にいたい。
心地好い雨音が、静かに夜を包んでいた──。




