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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
一章 深川夜盗捕物
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第三話


 深川の裏通りは表通りとは雰囲気が違った。


 細い路地が入り組み、建物が密集しているため陽の光が届きにくく、昼だというのに薄暗い。人通りも少ない──表通りの賑やかさとは対照的に、ここは静かで、どこか淀んだ空気が漂っている。所謂、「裏社会」というやつの匂いがする場所だ。


 ところどころに怪しげな店がある。看板を出していない居酒屋、占い茶屋、薬売りの小屋、そして賭場。窓は閉ざされ、中の様子は伺えないが、ところどころから人の声が漏れている。笑い声、怒鳴り声、そして賽を振る音。


 源一郎は一軒の家の前で足を止めた。看板はない。だが中からは複数の人の声が聞こえ、時折、落胆の声と歓声が響く。これが賭場かと源一郎は思った。以前の世なら警察に通報されて一斉検挙されるような場所だが、ここでは半ば公然と営業している。もちろん幕府は賭博を禁じているが、役人に付け届けしている場合もあり、完全に取り締まることは不可能だ。人間というものは、どの時代でも賭け事が好きなのだろうと源一郎は思った。


 源一郎は戸を開けた。


 中は薄暗く煙草の煙が立ち込めている。床には畳が敷かれ、数人の男たちが賽を囲んで座っている。皆、真剣な表情で賽の目を見つめている。大金が動いているのだろう、場の空気は張り詰めていた。


「おや、お侍さん」


 奥から一人の男が現れた。四十過ぎの痩せた男で、鋭い目つきをしている。賭場の見張りか、胴元の手代だろうか。


「賭場の元締めはいるか」

「いえ、今は外してますが……お役人様でございますか」


 男の声は警戒に満ちている。賭場の主にとって、役人は天敵だ。


「火付盗賊改方の者だ」


 源一郎がそう言うと、男の顔が一瞬にして強ばった。場にいた男たちも、一斉にギョッとして源一郎を見た。誰もが緊張している。腰を浮かせて今にも逃げ出しそうな雰囲気だ。


「きょ、今日は、取り締まりに……」

「いや、少し聞きたいことがあるだけだ。安心しろ」


 源一郎は懐から一分金を取り出し、男に渡した。折角の臨時収入が……もったいない、と思いながら。金貨が男の手のひらで鈍く光る。


「情報料だ、今日は取り締まりには来ていない。ただ話が聞きたいだけだ」


 男は一分金を受け取り、ほっとしたように笑った。緊張が一気に解ける。場にいた男たちも、再び賽に目を戻した。


「ありがとうございます、何なりと」

「丸屋の手代が、ここに来ているそうだな」

「ええ、来てますよ」


 男は素直に答えた。金を受け取った以上、嘘をつく理由はないのだろう。


「負けが込んでいるか」

「ええ。それはもう、かなり借金が膨らんでますねぇ」

「誰だ、名前は」

「吉蔵と清次ってやつです、二人とも最近はほとんど毎晩来てるみたいですよ」


 やはり吉蔵と清次かと源一郎は思った。あの二人の暗い表情の理由がこれで分かった。賭博の借金。それが、あの表情を作り出していたのだ。


「他に誰か、丸屋の者は来ていないか」

「ええと……もう一人、若い衆が来てましたね、名前は聞いてませんが」

「若い衆」

「ええ、二十前後の細身の男です、丁稚か若い手代か、その辺りだと思いますが」


 三人か。吉蔵、清次、そして若い者。


「その三人は、いつ頃から来ているんだ」

「ええと、吉蔵と清次は半年くらい前からですね、若い衆はつい最近ですよ」

「半年前か……」


 源一郎は少し考えた。半年前から賭博を始め、負けが込み、借金が膨らむ。そして三日前から盗みが始まる。時系列としてはあり得なくない話だ。


「三人は、どのくらい負けている」

「吉蔵が十両、清次が七、八両、若い衆が一両ってところですかね」


 十両──換算するのは難しいが……前世の価値で言えば一両、八~十五万。間をとって十万だとすれば十両は百万以上になる。この時代、十両あれば一家族が一年暮らせる。手代の年収を考えれば、とてもすぐに返せる額ではない。清次の七、八両も、若い者の一両も、彼らにとっては大金だろう。


「分かった。邪魔をしたな」

「いえいえ、またお越しくださいませ。今度は客として」


 役人の賭博は御法度だ。来るわけがないと分かっている癖に、男はにこやかに笑った。一分金を受け取った上に、今日は取り締まりもない。男にとっては、良い小遣い稼ぎだったのだろう。


 源一郎は賭場を後にした。外に出ると、昼の陽射しが眩しく、目が慣れるまで少し時間がかかった。薄暗い賭場の中と、明るい外の世界。その対比が、裏と表の世界の境界を象徴しているようだと源一郎は思った。


 吉蔵、清次、そして若い者。三人が賭博で借金を抱えている。そして丸屋では盗みが続いている。この二つは繋がっているのか……まだ確証はない。だが可能性は高い。いや、ほぼ間違いないだろうと源一郎の直感が告げていた。


 今夜は丸屋の倉を見張ろう。そして、夜になればあやかしの存在──妖怪たちも姿を現す。彼らなら何か見ているかもしれず、妖怪たちにも話を聞いてみてもいいかもしれないと源一郎は思った。


 ──人の目には見えない怪異の類が見える。それが、源一郎の持つ最大の武器なのだから。


 源一郎は空を見上げた。陽はまだ高く、雲一つない青空が広がっている。夜まで、まだ時間がある。一度役宅に戻って、平蔵に報告しておこう。


§


 桜田門外の役宅に戻ると詰所には同心たちが集まっていた。


 昼を過ぎたこの時間、与力や同心たちは各々の仕事に取り組んでいる。報告書を書く者、証拠品を整理する者、密偵である手下からの情報を聞き取る者。火付盗賊改方の仕事は現場だけではない。こうした地道な事務作業も重要な仕事の一部だ。前世の警察組織も、実際の捜査よりも書類仕事の方が多かったはずだ。


「渡辺様、お帰りなさいませ」


 同心の一人が頭を下げた。年配の同心で、朝に会った顔に傷のある男だ。


「ああ、頭取はおられるか」

「はい、奥におられます」


 源一郎は奥の部屋へと向かった。廊下を歩きながら、これから平蔵に何を報告するか頭の中で整理した。丸屋での聞き込み、町での情報収集、賭場での調査。そして、今夜の張り込みの予定。


「渡辺です」

「入れ」

「失礼いたします」


 部屋の前で一度深呼吸をしてから、源一郎は襖を開けた。


「源一郎か、深川の件はどうだった」


 平蔵は机に向かい書類を読んでいたが、源一郎が入ってくると顔を上げた。その目は鋭く、だが興味深そうに源一郎を見ている。


「はい、調べてまいりました」


 源一郎は平蔵の前に座り、丸屋での聞き込みの内容を報告した。鍵を壊さず足跡もないこと、番頭が影を見たこと、店の手代たちが賭博で借金を抱えていること。一つ一つ丁寧に、だが要点を押さえて説明した。前世のビジネスでも報告は簡潔に、だが必要な情報は漏らさずというのが基本だったはずだと思いながら。


 平蔵は黙って聞いていたが、時折頷き、また時折、鋭い視線を源一郎に向けた。


「……なるほど、妖怪に見せかけた人の犯行というわけか」

「はい、おそらく内部の者の仕業かと存じます」

「手代たちが怪しいか」

「はい、吉蔵と清次、そしてもう一人、三人が賭博で借金を抱えております」


 平蔵は頷いた。その表情には、やはりそうかという納得と、だがまだ油断はできないという慎重さが混ざっている。


「ならば今夜張り込みをするか」

「はい、そのつもりでした。私が見張ります」

「勧めておいて何だが、初仕事を一人で大丈夫か。相手が複数なら危険だぞ」

「はい、ですが」


 源一郎は少し躊躇してから言った。


「もし万が一のことがあれば、剣を使いますので」


 平蔵の目が少し細くなった。


「お前の剣、評判は聞いている。渡辺家家伝の鬼切流とか言ったか」

「はい、ですが滅多に使いません。面倒ですので」

「面倒」


 平蔵は少し笑った。


「お前は本当に変わった男だな」


 そして平蔵は続けた。


「では岡っ引の熊造を付けよう。元はお前の父御──藤治郎の手下だった者だ。奴は裏社会に顔が利く、役に立つだろう」

「ありがとうございます」


 藤治郎というのは渡辺綱重──通称、藤治郎。今は亡き源一郎の父である。源一郎は頭を下げた。


「それと」


 平蔵は源一郎をじっと見た。その目は、何かを見透かすような鋭さを持っている。


「お前、本当に人でない存在が見えるのか」


 源一郎は少し驚いた。この質問は予想していなかった。


「……なぜそう思われるのですか」

「お前の目だ、何かを見ているような目をしている。それに独り言が多いと聞いている。まるで誰かと話しているようだと」


 平蔵は興味深そうに言った。その声には非難も嘲笑もない。ただ純粋な好奇心があるだけだ。


「……見えます、幼い頃から」

「ほう」


 平蔵は驚いた様子もなく頷いた。


「ならば、その人でない存在にも聞いてみるといい。其奴らは何か知っているかもしれんぞ」

「……はい」


 冗談なのか、本気なのか……しかし、源一郎は少し感心した。この人は、あやかし達の存在を否定しない。心から信じているわけでもないだろうが、可能性として認めている。頭が固くなく、柔軟な思考を持っている。だからこそ名頭取なのだろうと源一郎は思った。


「では今夜張り込みをしてまいります」

「気をつけろ。相手が複数なら危険だ、無理はするな」

「承知しております」


 源一郎は部屋を後にした。廊下を歩きながら、平蔵という人物について考えた。鋭い洞察力、柔軟な思考、そして部下への気遣い。この人の下で働けることは、源一郎にとって幸運だと思った。


 詰所に戻ると一人の男が白州の端で待っていた。四十前後、がっしりとした体格で顔には古い傷がある。いかにもたたき上げという雰囲気で、その目つきは鋭いが、どこか人懐っこさも感じさせる。


「渡辺様でございますか」


 男が頭を下げた。その動作は丁寧だが、武士に対する畏縮というよりは、仕事仲間への礼儀という感じだ。


「あっしは熊造と申します。頭取から渡辺様のお手伝いをするようにと」

「ああ、熊造か。父上の元で働いていたと聞いている。よろしく頼む」


 源一郎は笑顔で応じた。目の前の熊蔵という男は所謂、岡っ引きというものだ。感覚的には「ベテラン刑事」もしくは「民間協力者」というやつだろうか。父の代から渡辺家に縁があるらしく、今度、信頼できる相棒になれるかもしれない。


「へい、藤治郎様……いや、先代には随分お世話になりやした。今度は若旦那のお役に立てれば」


 熊造の声には、渡辺家への恩義と、新しい上役への期待が混ざっている。


「今夜深川の丸屋で張り込みをする。付き合ってもらえるか」

「へい、喜んで。先代から若旦那のことは色々聞いておりやした。変わり者だが腕は立つ、そして人の痛みが分かる方だと」


 熊造は力強く頷いた。その顔には、新しい与力がどんな人物か品定めするような好奇心と、だが仕事はきっちりやるという職人気質が伺える。


「丸屋の件、あっしなりに少し調べてみやした」

「ほう」

「深川の連中に聞いたんですが、丸屋の手代で吉蔵と清次ってのが賭場で負けが込んでるそうで」

「ああ、それは俺も聞いた」

「やっぱりそうですか。となると怪しいのはその二人ですかね」

「もう一人いる、若い者だ」

「若い者ですかい」

「ああ、三人で賭博をしている。そして三人とも借金を抱えている」


 熊造は頷いた。


「なるほど……三人組ですか、となると今夜は手強いかもしれませんね」

「だが捕まえる、必ず」


 源一郎の声には静かな決意が込められていた。


「へぃ。あっしも力になりやす。先代にゃあ、デカい恩がありまさぁ。若旦那にその恩を返させてくだせぇ」


 熊造は力強く頭を下げた。そして少し照れたように笑った。


「それにしても若旦那は先代に似て変わった方ですねぇ」

「変わっているか」

「へい、与力様ってのはもっとこう、偉そうにしてるもんだと思ってやしたが。先代もそうでしたが、若旦那もまた」

「偉そうにしても仕方ない、仕事は皆でやるものだ」


 源一郎は笑った。


「それに、お前の方が江戸の下町のことをよく知っている。教えてもらうことの方が多いだろう」


 熊造は少し驚いた顔をした。そして、嬉しそうに笑った。


「ありがとうございやす。あっし、若旦那とは気が合いそうだ。先代と同じように」

「そうか。では、夕方、丸屋の近くで落ち合おう」

「へぇ。承知しやした」


 熊造は頭を下げて役宅の裏口から出ていった。その背中は、どこか弾んでいるように見える。父の代からの縁、そしてその恩人となる息子への期待。それらが熊造の足取りを軽くしているのだろう。


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