第四十七話
豊川稲荷を後にした源一郎は、火盗改の役宅へと足を向けた。
空には鈍色の雲が低く垂れ込め、湿った風が頬を撫でる。いつ降り出してもおかしくない空模様だが、これから祭りの屋台を見物にいく約束をしていた。
──まだ降ってくれるなよと、そう祈る。
役宅に着くと、詰所の中が妙に騒がしかった。若い同心たちが隅の方で五、六人ほど集まり、何やら浮かれた様子で輪を作っている。その集団の中心には──お鈴の姿があった。茶屋女の装いのままのお鈴が詰所の隅で同心たちに囲まれていた。
「……何だ。お鈴の奴、随分とモテているな」
源一郎の視線の先──お鈴の表情には困惑と共に愛想笑いが浮かんでいる。
「お嬢さん、寒くはないですか?この時刻は少しばかり冷えますから」
「よければ私の羽織をお貸ししましょうか」
「は?いやいや、私が言い出したことですので、私が……」
一人の同心が心配そうに言い、別の同心が自分の羽織を手に取りかけて言った。
「いえ、大丈夫ですよ。お気遣いなく」
「では茶でも飲むかい?温まるよ。すぐに淹れてきますから」
「いえ、本当に結構ですので……」
「そう言わずに遠慮しないで。本当にすぐですから」
お鈴は丁寧に断ったが、同心たちがお鈴の周りでわいわいと騒いでいた。完全にデレデレしている。お鈴は穏やかに微笑んでいたが──その目は助けを求めるように出口の方を見ていた。源一郎が早く来ないか、探しているようだ。
──囲んでいる同心たちは皆、若い者ばかりだ。火付盗賊改方という厳しい職場で日々罪人と向き合い、時には命の危険にも晒される。血を見ることもあれば、人を斬らねばならないこともある。
そんな男たちにとって、美しい娘が男むさい詰所にいるというだけで、浮き足立ってしまうのだろう。普段の緊張から解放されたかのように、見たこともないような笑顔で話しかけていた。
「お嬢さん、お名前は?まだお聞きしていませんでした」
「お鈴と申します」
「お鈴さん……なんと可憐な……」
一人の同心が顔を赤らめながら言った。その様子はまるで少年のようだ。
「どちらにお住まいで?もしかして、近くですか?」
「本所です」
「本所!私も本所に住んでおります」
別の同心が嬉しそうに言った。まるで、偶然の一致でも見つけたかのような喜びよう。
「いつかお会いしたことがあるかもしれませんね。もしかしたら、どこかですれ違ったことも」
「そうかもしれませんね」
お鈴は愛想よく答えている。だが、源一郎には分かった──アレはうんざりしてる顔だと。お鈴とは長い付き合いだ。そのくらいわかる。
源一郎はそれを呆れた顔で見ていた。同心たちの浮かれっぷりが、あまりにも分かりやすい。
「何を白々らしい……渡辺様の密偵だと知っている癖にあえて名前を聞くなど……それに渡辺様の屋敷が本所なのだから当たり前でしょうが」
「だまらっしゃいっ。外野はすっこんでなさい!」
「しかし、こんな美人が渡辺様の密偵だなんて……羨ましい限りです。私もこんな美人な密偵が欲しいなぁ……」
その欲望剥き出しの本音に、流石のお鈴も苦笑している。そして、ようやく入り口近くに佇む源一郎の姿を見つけた──。
「──源一郎様!」
お鈴の声に安堵が滲む。
「あ、わ、渡辺様」
若い同心の一人が焦るように振り返った。二十歳前後の、まだ幼さの残る顔立ちだ。
「い、いやぁ、渡辺様の密偵殿とお聞きしまして。お戻りになるまでの間、我々がお相手をしておりました」
「そ、そうですそうです。お茶をお出ししたり、菓子をお持ちしたり……」
別の同心が慌てて付け加える。まるで言い訳でもするように。
「そうか。それは有難いな。お鈴もきっと喜んでいただろう」
源一郎が言うと、同心たちの顔が僅かに強張った。
「渡辺様のお連れの方ですから、粗略には扱えませんので……」
「そ、そうです。決して、邪な心などは……」
「……ほう」
源一郎の目が、すっと細くなる。戯れに軽い威圧を掛けてやる。若い同心たちは、蛇に睨まれた蛙のように縮こまった。
「──冗談だ。相手させて済まなかったな。お鈴も慣れぬ場所で居心地が悪かったろうし、話かけてくれて助かった」
「いえっ!滅相もありません!」
源一郎が威圧を解いて笑って見せると、彼らは一様にホッとした顔を見せた。
「お鈴。行くぞ」
「はい」
お鈴が素早く源一郎の傍に寄った。その動きには明らかな安堵が見て取れる。
源一郎は役宅の土間に立てかけてあった番傘を手に取った。置き傘──役宅に置いてある私物だ。念のため持ってゆくのに、損はあるまい。
役宅を出るとお鈴が深々と息を吐いた。
「助かりました、源一郎様」
「難儀していたようだな」
「はい……皆様、お優しいのですが、少々……」
お鈴は言葉を濁したが、同心たちは少しがっつき過ぎていた。源一郎は苦笑した。
「まあ、無理もない。お前のような別嬪が来れば、若い連中が浮足立つのは当然だ」
「からかわないでください」
「別にからかってなどいないさ。お前は綺麗だよ」
「ま、またそのようなことを、臆面もなくっ……」
お鈴が頬を染めて見せた。その様子が可愛らしい。──背後から若い同心たちの声が聞こえてくる。
「くそぅ、渡辺様いいなぁ……」
「あんな別嬪を連れて、どこへ行くんだろう」
「羨ましい……俺も美人な密偵が欲しい……いや、嫁御が欲しい……」
源一郎は聞こえぬふりをして、歩き出したのだった。
§
二人は日本橋の広小路を歩いた。
こちらでも祭りの屋台が、まだ幾つか立ち並んでいる。飴細工、射的、焼き餅。本祭りほどの賑わいはないが、赤坂山王祭の余韻を楽しむ人々の姿が見えた。
「源一郎様、見て下さい、あれ。可愛らしくありませんか?」
お鈴が指差した先には、飴細工の屋台があった。職人が透明な飴を器用に操り、鯛や兎、猫、犬、蛙、桜といった形を模して作り上げている。
「欲しいのか?」
「い、いえ、そういうわけでは……」
「正直に言えばいい」
源一郎が笑うと、お鈴は恥ずかしそうに俯いた。
「少し……」
「よし」
源一郎は屋台に近づき、飴細工を二つ買った。犬と兎の形をしたものだ。
「ほら」
「ありがとうございます」
お鈴は飴細工を受け取り、嬉しそうに眺めた。その横顔を見て源一郎は微かに笑う。ここ最近は密偵として冷静沈着に振る舞っていたお鈴だが、こういう時は年相応の顔になる。それは見ていて悪い気分ではなかった。
──二人は屋台を巡り、射的をし、焼き餅を頬張った。そして、金魚売りの前で足を止めた。
天秤棒を担いで来た金魚売りが、路地の角に平たい木製のたらいを並べている。涼しげな水草を浮かべた水の中で、赤や白の金魚がゆらゆらと泳いでいた。
「さあさあ、珍しい出目金もあるよ!」
金魚売りが威勢のいい掛け声で客を呼び込んでいる。たらいの周りには、親子連れや若い娘たちが集まり、しゃがみ込んで金魚を眺めていた。
「源一郎様、私もやってみたいです」
「ああ、やってみろ」
お鈴は金魚売りから、針金の枠に薄い布を張った網を受け取った。
たらいの前にしゃがみ込み、真剣な表情で水面を見つめる。その姿は、まるで獲物を狙う猫のようだ。
網を水面にそっと浮かべ、金魚が近づくのを待つ。赤い金魚が一匹、ゆらりと網の方へ泳いできた。そして、金魚が網の上を通り過ぎようとした瞬間──
すい、と網を持ち上げた。
「あ、掬えた」
お鈴の網の上で、小さな赤い金魚が跳ねていた。
「見事だな」
「ふふ、一回で掬えましたよ」
お鈴が得意げに笑った。
金魚売りから金魚玉を買い、すくった金魚を入れた。丸いガラスの器に紐をつけたもので、中で赤い金魚がゆらゆらと泳いでいる。これを持って祭りの中を歩くのがお洒落というものなのだ。
「この子、何と名付けましょう」
「金魚に名をつけるのか?」
「つけます。この子は……そうですね、『べに』にします」
「紅、か。良い名じゃないか」
お鈴は金魚玉を指にぶら下げ、嬉しそうに眺めた。ガラス越しに夕陽が差し込み、水がきらきらと輝いている。
その姿が、どこか幼い頃と重なって見えた。
──昔から、こうだったな。
源一郎は心の中で呟いた。お鈴は幼い頃から、小さな生き物を可愛がる癖があった。虫でも、魚でも、何でも名前をつけて大事にする。それは今も変わらないらしい。




