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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
二章 赤坂山王裏御用
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第四十六話

 日枝神社を訪れた翌日のこと──源一郎は溜池のほとりを歩いていた。


 山王祭の本祭りは終わったが、溜池周辺には後祭りの賑わいが残っていた。屋台が立ち並び、飴細工や金魚すくいを楽しむ親子連れの姿が見える。祭りの余韻を惜しむように、人々は名残の賑わいを楽しんでいた。


 そうした喧噪をよそに、源一郎は通りを過ぎてゆく。そして目的地である萬屋の暖簾をくぐった。


 昼下がりを過ぎた店内は閑散としていた。客の姿はなく、茶屋女たちが雑巾がけをしている。祭りの後片付けに追われているのだろう。


「こ、これは渡辺様っ」


 奥から惣兵衛が出てきた。五十がらみの痩せた男で、商人らしい愛想の良い顔をしているが、その目の奥には油断ならぬ光がある。


「惣兵衛。話がある」

「へえ、何でございましょう」


 惣兵衛が揉み手をしながら近づいてきた。源一郎は声を低めた。


「本日限りでお鈴を引き上げる」


 惣兵衛の顔が、僅かに強張った。


「引き上げる……と申しますと」

「そのままの意味だ。此度の一件は片がついた。お鈴をこれ以上、店に置いておく理由はない」

「そ、そうでございますか……」


 惣兵衛は困ったような顔をした。その目に、惜しむ色が浮かんでいる。


「あ、あの……渡辺様。お鈴は、大変よく働いてくれました。客の評判も大変良く、店の売り上げにも貢献してくれております。このまま店に置いていただくわけには……」

「──あ?」


 源一郎の声が、冷たくなった。


「お鈴は密偵だ。茶屋女ではない。店に置いておくために送り込んだわけではない」

「で、ですが……」

「惣兵衛」


 源一郎が一歩近づいた。その目が獣のように鋭くなる。


「お前……まさかお鈴を使って何か企んでいるわけではあるまいな。幾ら積むとでも言われたか」

「め、滅相もございませんっ!」


 惣兵衛が慌てて首を振った。額に冷や汗が滲んでいる。


「ただ、惜しいと思っただけでございます。あのように気が利いて、客あしらいの上手い娘は、なかなかおりませんので……他の女たちも、お鈴を頼りにしておりましたので……」

「そうか」


 源一郎は惣兵衛を見据えた。


「惣兵衛。此度の一件では世話になった。礼を言う」

「い、いえ、とんでもございません……」

「だが、一つ釘を刺しておく」


 源一郎の声が、更に低くなった。


「あまりアコギな商売はするなよ。お前の店が岡場所──私娼屋まがいのことをしているのは確かなのだからな。目を瞑っているのは、情報屋として使えるからだ」

「……」

「女は大事にしてやれ。度が過ぎれば、容赦はせん。分かっているな」


 惣兵衛の顔が青ざめた。頭を下げて震える声で答える。


「も、もちろんでございます……重々心得ております……」

「──では、そういうことだ。お鈴には今日で終わりだと、役宅で待っているように伝えておけ。俺はまだすることがある」

「は、はい……」

「よし」


 源一郎は、ふっと笑った。先程までの威圧的な空気が嘘のように、穏やかな表情に戻る。


「まあ、お前も商売だ。程々にやれ。また何かあれば頼むぞ」

「へ、へえ……ありがとうございます……」


 源一郎は店を出るのを、惣兵衛が頭を下げて見送る。


 夏の日差しが眩しかった。目を細め、空を仰ぐ。高く鳶が旋回し、遠く空には大きな入道雲──。笠を被り、祭りの余韻が残る溜池のほとりを、源一郎は歩き出した。


 §


 赤坂一ツ木にある豊川稲荷へと足を向けた。


 境内に入ると、夏の陽光が木々の間から差し込んでいた。蝉の声が響き、盛夏の気配が濃い。参拝者の姿はまばらで、老婆が一人、社の前で手を合わせているだけだった。


 源一郎は懐から油揚げと稲荷寿司、そして上等の酒を取り出した。今朝、わざわざ両国の豆腐屋から買い求めた油揚げと、乳母に頼んで作らせた甘辛く煮た衣に米や胡麻、茸などの具を詰めた稲荷寿司。酒は灘──この時代、有名になる前の白鶴の辛口。此度の礼に相応しい品を揃えたつもりだった。


「失礼します」


 境内を進み、源一郎は奥の院へと近づいた。参道には左右に幾つもの狐の像が配置され、参拝者を見守っている。朱塗りの鳥居が連なり、木漏れ日が石畳に斑模様を描いていた。


 そして、その奥──社堂の軒の下で白い狐が寝そべっていた。


 人の子供ほどの大きさに、尾が三本。豊川稲荷──吒枳尼眞天に仕える神の眷属。白狐は目を閉じていたが、源一郎が近づくと鼻をヒクヒクとさせ、ゆっくりと目を開けた。金色の瞳が源一郎を見る。


「おや。これは、渡辺殿ではありませんか」


 白狐が身を起こした。三本の尾を優雅に揺らしながら、源一郎を見る。その声は丁寧だが、どこか野性味がある。


「ご無沙汰しております。此度は御礼参りに参りました」


 源一郎は深々と頭を下げ、供物を社の前に供えた。


「此度の一件では、大変お世話になりました。おかげさまで盗賊どもを捕らえ、奉納金も取り戻すことができました」

「おや、そうでしたか」


 白狐が目を細め、供物に鼻を近づけた。ヒクヒクと匂いを嗅ぐ。


「ほう……これは良い匂いですね。油揚げに……これは最近噂の稲荷寿司。それに上等の酒……今日は馳走だ」


 白狐の三本の尾が、嬉しげにゆらゆらと揺れた。


「ふふ、気が利きますね。お前さんは礼儀を弁えている。供物の質で、その者の誠意が分かるというもの。この油揚げは……以前と同じ店のもの?」

「はい。気に入られたようでしたので。また両国の豆腐屋で一番良いものを選んでもらいました」

「そうですか、そうですか」


 白狐は満足げに頷き、油揚げを一口齧った。赤い舌が覗き、尾がフラフラと揺れる。


「あぁ……やはり美味しい。この油揚げは格別ですね」


 白狐は機嫌よく油揚げを食べながら、源一郎を見た。


「狐たちから話は聞いていますが、念のため盗賊を捕らえた後のこと。聞かせてもらえますか」

「はい。お借りした配下の方々のおかげで、盗賊どもの後を追い、潜伏先を突き止めることができました。私どもで根城を急襲、奉納金は全て取り戻し、盗賊どもは縄目の恥を受けております。主犯格は死罪となるかと」

「ほう……」


 白狐が満足げに頷いた。


「それは重畳。私の配下が役に立ったようで何よりです」


 白狐はくつくつと笑った。その笑い声には、どこか子供のような無邪気さがあった。それから、白狐が目を細めた。


「それに──これで、猿に貸しを作れましたからね。あやつ、いつも偉そうにしているでしょう。日枝神社の神使だなんだと、江戸の鎮守だなんだと威張り散らして。これで暫くは大きな顔をされずに済みます」


 白狐が三本の尾を揺らしながら、満足げに言った。源一郎は内心で苦笑した。神猿と白狐の間には、人間には分からぬ何かがあるらしい。


「いやぁ、良い仕事でした。お前さんに協力して正解でしたね」


 ──その時、白狐の背後から、もう一匹の狐が姿を現した。


「──その方に供物を持ってくるように言ったのは私ですよ。先に食べるなんて狡いじゃないですか」

「あらあら、見つかってしまいましたか」


 中型犬ほどの大きさで、毛並みは黒みがかった灰。尾は一本だが先端がわずかに二股に分かれている。金色の目が源一郎を見上げた。


「鬼切殿、お久しぶりでございます」


 灰狐──萬屋での見張りの際、連絡役として派遣された狐だ。


「あの時は世話になった」

「いえいえ、とんでもございません。鬼切殿のお役に立てて光栄でございました」


 源一郎が声をかけると、灰狐はぺこりと頭を下げた。


「あの時は、鬼切殿の見張りっぷりには感心いたしましたよ。人間というのは、あれほど我慢強く待てるものではございませんからね。獲物を目の前にして、手を出さずにじっと待つ──なかなかできることではありません」

「そうか。褒めてもらえて光栄だ」


 源一郎が苦笑すると、灰狐は目を細めた。


「それと、あの時の娘──お鈴さんでしたか。お元気にしておられますか」

「ああ、元気だ」

「そうですか。あの娘も普通の人とは異なる匂いがしておりましたからね。狐憑きの──」


 萬屋で見張りをしている最中に灰狐とお鈴は顔を合わせていたのだ。それに、お鈴が狐憑きであると看破していた──その縁もあって気にしてくれたのだろう。灰狐が言うと、鼻をヒクヒクさせた。その視線が白狐へと向いている。


「今度、こちらに連れてきてくださいませ。お方様も一度お会いになりたいと仰っておりましたから」

「お方様?」

「この食い意地張った白狐様のことでございますよ」


 灰狐が白狐を見上げた。白狐は油揚げを食べながら、口元をペロリ。優雅に頷いた。


「全く失礼な……ええ、そうですね。狐憑きの血を引く娘とは、一度話してみたいものです」


 §


 白狐が油揚げを食べ終え、源一郎に向き直った。


「さて、渡辺殿」

「はい」

「一つ、お話があるのですが」


 白狐が居住まいを正した。その金色の瞳が、真剣な光を帯びている。


「お前さん──豊川稲荷を勧請する気はありませんか」


 源一郎はその提案に面食らった。


「勧請……ですか」

「ええ。お前さんの屋敷に、吒枳尼眞天の御霊──分霊を祀るのです。小さな祠で構いませんよ」


 白狐は澄ました様子で尾を揺らしながら続けた。


「そうすれば、お前さんの家は私どもの守護下に入ります。火災、盗難、疫病……あらゆる災厄から守ってあげましょう。商売繁盛、出世の御利益も期待できますよ」

「それは……ありがたいお話ですが……」

「それだけではありませんよ」


 白狐が、ちらりと源一郎を見た。


「──お鈴さんに憑いている狐のことです」


 源一郎の目が僅かに鋭くなった。


「お鈴の狐……」

「ええ。灰狐から聞きました。その、お鈴さんには、狐憑きの血が流れている。ですが……その狐、まだ若いのでしょう?」


 白狐が真剣な目で源一郎を見た。


「このまま放っておけば、いずれ暴走するかもしれませんよ」

「暴走……ですか」

「狐憑きというのは、願いを叶える力を持っています。強く願えば、それが現実になる。良いことも、悪いことも──見境なく」


 白狐の声が、低くなった。お鈴のこととなるならば、源一郎には黙って話を聞くしかない。


「誰かを害したいと願えば、その願いも叶ってしまう。たとえ本人にそのつもりがなくとも、心の奥底で思ったことが、形になってしまうのです」

「……」

「狐の力というのは諸刃の剣です。上手く使えば大きな力となるが、使い方を誤れば身を滅ぼす。灰狐が言っていましたが、娘の狐は、まだ躾ができていないと」


 白狐は三本の尾を揺らした。


「吒枳尼眞天様を勧請すれば、あの娘に憑いている狐の教育も、私共がしてあげましょう。吒枳尼眞天様の眷属として鍛えてやれば、良き守り狐となります。お鈴さんの密偵としての働きも、より確かなものになるでしょう」


 白狐は源一郎を真っ直ぐに見つめた。


「──どうですか。悪い話ではないでしょう」


 源一郎は考え込んだ。


 確かに、悪い話ではない。豊川稲荷の守護を得られれば、屋敷の安全は格段に高まる。お鈴の力が安定すれば、それも大きな助けになる。だが──


「……少し、考えさせていただけますか」


 源一郎が言うと、白狐は首を傾げた。


「おや。何か問題でも」

「いえ……実は、屋敷に座敷童がおりまして」

「座敷童?」


 その思いも寄らなかった返答に白狐が目を丸くした。


「えぇ、菖蒲という名の座敷童が。私の屋敷に住み着いております。勧請の件は、菖蒲にも相談せねばなりません」

「なるほど……座敷童ですか」


 白狐は少し考え込んだ。


「座敷童というのは、家を守る妖ですね。私とは相性が悪いわけではありませんが……確かに、先住者の意向を無視するわけにはいきませんね」

「ええ。菖蒲は幼い頃から一緒におりますので、相談なしに決めるわけにはいきません」

「ふむ。それは殊勝な心がけですね」


 白狐は満足げに頷いた。 


「分かりました。では、その座敷童と話し合ってみてください。私どもとしては、協力しても良いと思っていますよ。座敷童と豊川稲荷──組めば、良い守りになるでしょう」

「ありがとうございます」

「ただし──」


 白狐がにやりと笑った。


「あまり長くは待てませんよ。私も暇ではありませんからね。それに、お鈴さんの狐のことは早めに手を打った方がよいでしょう」

「はい。できるだけ早く、答えを出します」


 源一郎が頭を下げると、白狐は満足げに尾を揺らした。


「では、今日はこれにて。また来るとよいですよ、渡辺殿。これから私たちは供物を馳走にならなければなりませんので」

「……私の分まで食べないでくださいよ」


 冗談か本気なのか、源一郎が何を言わずに頭を下げると、ソワソワと白狐と灰狐の姿はいつものように霧のように消えていったのだった。


 §


 豊川稲荷を後にした源一郎は、赤坂の町を歩いた。


 湿気を含んだ風が吹き、空を見上げれば雲が厚みを増している。一雨来そうだった。今は旧暦の六月中旬──梅雨明けはもう少し先のこと。夕立が来る前に役宅へ戻らねばならない。


 源一郎は歩きながら、白狐の言葉を思い返していた。


 ──狐憑きというのは、願いを叶える力を持っています。


 確かに、お鈴の狐憑きの血については、気になることがあった。密偵として働く中で、時折、お鈴の感情に反応して不思議な力を発揮することがある。お鈴が強く願ったことは、大なり小なり叶ってしまうのだ。それは時に良い方向に働くこともあれば、危うい方向に向くこともあった。


 白狐の言う通り、憑いた狐が暴走すれば、お鈴自身が傷つくことになりかねない。


 ──だが、勧請するとなると……。


 神仏を勧請するということは責任を伴う。祠を建て、日々の供養を欠かさず、神使との関係を末永く続けていかねばならない。そして何より、菖蒲の意向もある。源一郎は溜息をついた。


 ──考えることが多いな。


 そんなことを考えながら、源一郎は火盗改の役宅へと足を向けた。


 お鈴が萬屋から引き上げ、既に役宅で源一郎の仕事が終わるのを待っている筈。


 お鈴と合流した後、後祭りの屋台の見物でもしながら、久しぶりにゆっくりと過ごすつもりだったのだ──。


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