第四十五話
その日、源一郎は赤坂にある日枝神社を訪れた。
長い石段を登る。山王祭の賑わいはもう遠く、境内は静まり返っていた。祭りの飾りつけは既に外され、露店の跡には踏み固められた土だけが残っている。祭礼を乗り越えた神職たちが、ゆっくりと日常を取り戻している姿が見えた。
境内の隅には、まだ幾つかの屋台が残っていた。後祭りを楽しむ者たちのために、細々と商いを続けている。だが、本祭りの頃の喧騒とは比べるべくもない。どこか寂しげな空気が、境内全体を覆っていた。
──社務所を訪ねると、すぐに中に通された。
以前は門前で追い返されたことを思えば、隔世の感がある。廊下を進み、奥の間に着くと、そこで宮司が待っていた。
「渡辺殿、よくお越しくださいました」
宮司は深々と頭を下げた。以前の傲岸な態度はどこにもなかった。顔には疲労の色が濃く、目の下には隈が刻まれている。だが、以前千鶴に聞いた話よりは大分気を持ち直しているようだ。
「此度のことは……何とお詫びすれば良いか」
「いえ、そのことはもうお気になさらず」
「いや……あなた様の警告を聞いておれば、このような事態にはならなかったのです。私の短慮で火盗改方を遠ざけ、結果として、何の罪もない社人を五人も失ってしまったのですから……」
宮司の声は、震えていた。
源一郎は何も言わなかった。言葉で慰めることはできる。だが、言葉で事実を覆い隠しても仕方がない。宮司も既に悩み、悔い、自省したのだろう──背負っている重荷に対して、今更、源一郎が何かを言うつもりはなかった。
やがて、宮司が顔を上げた。
「それと……聞きました。今回のこと、兼嗣が関わっていたと」
「えぇ。主犯格二人の尋問の結果、詳細が判明いたしました。兼嗣殿は神社を離れた後、山谷堀の外れで暮らしていた無宿人たちの元に身を寄せていたようです。そこで急死し、破れ寺の片隅に埋葬されたと」
源一郎からの報告に、宮司の表情が再び消沈した。宮司からしたら行動が全て裏目に出ているのだ。彼のせいではないが、気になるというものだろう。
「そう、ですか……」
「詳しい経緯は省きますが……結果として、食い詰めた無宿人による傷害致死──過失殺でした。ただ、誤解しないで欲しいのですが、兼嗣殿がこの神社の内状を自ら漏らした訳ではないようです」
「兼嗣……あの馬鹿者が……」
宮司がうな垂れた。
「渡辺殿ならば既にご存知でしょう。私が……あやつを追い出したのです。神職にあるまじき振る舞いをしていましたから。ですが……あやつは、私の義弟であったのです。母は違えど、同じ父の血を引く者だった……もっと話をしていればこのようなことには、ならなかったのでしょうか……」
源一郎は黙って聞いていた。この件にはお家事情も関連していた──。外部の人間が気軽に口出ししてよいことではない。
「……願わくば、兼嗣殿の供養は後ほど手厚くなさってください」
「……そうですな。せめて、それくらいは……」
ただそれだけ、源一郎が静かにそう言うと、宮司は顔を上げ力なく頷いたのだった。
──それから源一郎は話を先に進めた。
「──宮司殿。一つ、お聞きしたいことがございます」
「何でしょうか」
「奉納金の他に、蔵から盗まれた物はございませんでしたでしょうか」
宮司が涙を拭いながら顔を上げた。それから少し考え込み首を傾げる。
「……いえ、奉納金以外には特に。神宝や祭器は全て無事でございました」
「では、供物の類は。特に麻の種などに心当たりは」
宮司の表情が一瞬変わった。怪訝そうなものに。それから、あぁ、と納得するものに変化した。
「麻の種……?ああ、アレですか──」
だが、その声には意外に思うほどの軽さがあった。
「アレのことなど、よくご存じで……確かに、蔵の隅に麻の種が保管されておりました。そう言えば、あそこも荒らされた跡がありましたな」
源一郎は眉を寄せた。宮司の態度が、あまりにもあっけらかんとしている。
「あの種は……どのような物なのですか」
「ああ、あれは……」
宮司は苦笑した。
「実は数年前、阿蘭陀の商人を通じて長崎から取り寄せた物でして」
「阿蘭陀の商人から?」
「はい。何でも、天竺の方で育つ麻の種なのだとか。繊維が太いらしく、神事の注連縄などに使えるかと思いまして。神社の麻畑で試しに育ててみようかと……」
宮司は肩を竦めた。自身の失敗談を話すように、苦笑すら浮かべている。
「ところが、これが全く育たぬのです。どうにも手に渡った時には既に種が古くなっていたのか、ほとんど芽は出ないし、出ても弱々しく途中で枯れてしまう。それに、本朝の気候にも合わぬようで……雨が降れば根を腐らせてしまうし、寒さにも弱い。運良く育っても繊維を取るなど、とてもとても……それは何度試しても同じことで。結局、使い道がなくて蔵の隅に放り込んでおいたのですよ」
源一郎は黙って聞いていた。御師と呼ばれる男が、四千両の奉納金よりも欲しがった麻の種。それがまさか、育たない種だったとは。
「あの種に価値があるとは思えませんが……盗賊どもには何か使い道があったのでしょうか。正直なところ、私には分かりかねます。使い物にならぬ種ですからな」
宮司は心底不思議そうに首を傾げた。その言葉に源一郎は深く考え込む。
日本の気候では育たない、天竺の麻。それを、御師は欲しがった。奉納金など二人にくれてやると言うほどに。だが……
――これは……想定の内だったのだろうか?
「……お聞かせいただき、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ……渡辺殿には、何とお礼を申し上げてよいか。またこちらに寄ることがあれば、いつでもお越し下さい」
疑問に思いながらも源一郎は頭を下げると、宮司は再び深々と頭を下げたのだった。
§
宮司との話を終え、源一郎は境内に出た。
夕暮れの空が茜色に染まっている。祭りの後の境内はどこか物寂しい。かつての賑わいが嘘のように、人影はまばらだった。
源一郎は本殿の裏手へと足を向けた。人気のない場所で、溜池が見える場所で足を止める。
「──神猿様」
声をかけると、木の上から猿が飛び降りてきた。神猿──神職の装束を纏った、日枝神社の神使。その毛並みは夕陽に照らされて金色に輝いている。
「よう、兄さん。無事だったか」
「ええ、おかげさまで何事も無く」
「そうかい。盗賊どもを捕らえて、奉納金も取り戻した。見事なもんだ」
「いえ……私は社人たちを救えませんでしたので」
源一郎の声が沈む。
「神猿様が警告してくださっていたのに。もっと早く動けていれば……申し訳ありません」
「──兄さん」
溜息をつき──神猿の声が、静かに響いた。
「ありゃ、兄さんのせいじゃねぇ。お前さんは宮司に追い出されても諦めずに動いた。盗賊の根城を突き止め、奉納金を取り戻した。社人たちのことは……俺も悔しいさ。だがな、あれはお前さんの責任じゃねぇよ」
神猿が、源一郎の肩に手を置いた。小さな手だが、その重みは確かだった。
「救えたものを、救った。それでいいんだ。悔やむことじゃねぇ」
「……」
「お前さんが背負う必要のねぇ荷物まで、背負おうとするんじゃねぇよ。神さんじゃあるまいし、そんなことしてたら、いつか潰れちまうぞ」
源一郎は深く息を吐いた。その通りであった。
「……ありがとうございます」
「おう。また何かあったら、いつでも来いよ。俺ぁ、いつでもここにいるからな」
神猿が、猿の顔でニッと笑った。
「それと、兄さん」
「はい」
「ウチの巫女がさっきからずっとお前さんを探してるみたいだぜ」
神猿が木の枝を指差した。その先──本殿の方から、白衣に緋袴の人影がこちらへ足早に向かってくるのが見える。
「千鶴殿……?」
「ああ。何やら気もそぞろな様子だったがな。お前さんに会いたくて仕方がねぇって顔してたぜ」
「あ、え?いや、そういうことは……」
「おっと、来たぜ。じゃあ、またな、兄さん──」
神猿がからかうような口調で言い、木の上に飛び上がろうとした、その時だった。
「渡辺様……?」
背後から、声がした。振り返ると、そこには既に千鶴が立っていた。不思議そうな顔で源一郎を見つめている。
「あの……どなたかと、お話しされていたのですか?」
源一郎は一瞬言葉に詰まった。千鶴の目には神猿の姿は映っていない。彼女には、源一郎が何もない空間に向かって話しかけていたように見えたはずだ。
「……いえ、少し、独り言を」
「独り言……ですか?」
千鶴は首を傾げた。
「でも……本当に誰かとお話しされているように見えましたが……」
「……わ、私の癖なのです」
苦しい言い訳だと、源一郎は内心で思った。だが、他に誤魔化しようがない。千鶴は不思議そうな顔をしていたが、それ以上は追及しなかった。ただ、どこか面白そうにクスリと微笑んだ。
「渡辺様は……不思議な方ですね」
「不思議、ですか」
「はい。──時折、何かが見えているような……そんな気がします」
その言葉に、源一郎は内心で冷や汗をかいた。この娘は勘が鋭い。木の上で神猿がにやにやしながら二人を見下ろしていた。
「それより、千鶴殿。何か私に御用でしたか」
「むっ……何か御用、ではありません」
源一郎が話題を変えると、千鶴の表情が変わった。その声には僅かに咎めるような響きがある。
「渡辺様。まさか、私に挨拶もなくお帰りになるおつもりでしたか」
「いえ、そういうわけでは……」
「父上との話が終わったら、すぐにこちらへ来られたのでしょう。社務所の者に聞きましたら、本殿の裏手へ向かわれたと」
千鶴は少し頬を膨らませる。可愛らしく、源一郎を咎めるように睨んでいた。巫女としての凛とした佇まいとは違う、年相応の女の顔がそこにあった。
「私は、渡辺様にお礼を申し上げたくて、ずっとお待ちしていたのですよ。なのに……」
「……申し訳ありません。お待たせしてしまったようですね」
源一郎が詫びると、千鶴はふっと表情を和らげた。
「いいえ。お帰りになる前にお会いできましたから」
千鶴は深々と頭を下げた。
「此度のこと……本当に、ありがとうございました」
「いえ、私は当然のことをしたまでです」
「いいえ──あの時……父上に追い出された後も、諦めずに動いてくださりました。おかげで、奉納金は戻り盗賊たちも捕まりました」
千鶴の声は静かだが、確かな感謝に満ちていた。
「兼嗣叔父のことも……聞きました……」
その声が、僅かに震える。
「兼嗣叔父は……私にとって、もう一人の父のような存在でした。小さい頃、よく遊んでもらいました。祭りにも連れて行ってくれて、社の外の暮らしを教えてくれた。本当は優しい人だったのです」
千鶴は目を伏せた。
「もっと早く、私が異変に気づいて話を聞いていれば……」
「──千鶴殿。兼嗣殿のことは誰の責任でもありません。あなたがご自身を責める必要はありません」
千鶴は顔を上げ、源一郎を見つめた。
その目に不思議な光が宿っていた。悲しみとも、感謝とも違う。何か言葉にならない感情が、その瞳の奥に揺れている。
「……ありがとうございます」
千鶴の声は……どこか甘やかだった。
──千鶴と並んで、参道を歩く。石段の下から、屋台の灯りがぼんやりと見えていた。三味線の音が、遠くから聞こえてくる。
石段の下には、まだ幾つかの屋台が灯りを点している。飴細工、金魚すくい、焼き餅。後祭りを楽しむ親子連れの姿がちらほらと見えた。だが、本祭りの頃の華やかさはない。祭りの終わりを惜しむような、寂しげな空気が漂っていた。
「渡辺様は……」
千鶴がふと、呟いた。
「火盗改のお役人でいらっしゃるのに……怖い方ではないのですね」
「私が怖くない、ですか」
「はい。火盗改と聞くと、荒々しい方々ばかりだと思っておりました。でも、渡辺様はとても穏やかで……」
源一郎が苦笑する。千鶴の声が僅かに途切れた。
「……お優しい方だと、思います」
その言葉に源一郎は少し戸惑った。千鶴の視線が妙に熱を帯びているように感じる。
いや、気のせいだろう。千鶴はまだ若い。今回のことに恩を感じているだけだ。それ以上の意味はない。そう思うことにした。
「……恐縮です」
源一郎が素っ気なく答えると、千鶴はまた少し不満そうにした。
「渡辺様」
「はい」
「また……いつでも、お参りに来てくださいませ」
千鶴の声には、どこか切なげな響きがあった。千鶴は言葉を切り、源一郎の目を真っ直ぐに見つめた。
「此度のことで、父上も考えを改めたようです。火盗改方を忌避するなど、愚かなことでした。渡辺様には……この神社の恩人として、いつでもお越しいただきたいのです」
その声は単なる礼儀以上のものを含んでいるように聞こえる。源一郎はどう答えるべきか迷った。
「……ありがたいお言葉です。折を見て、また参らせていただきます」
「はい。お待ちしております」
無難な返答。しかし、千鶴の目は目を細め、はにかむような笑みを浮かべた。
参道の入り口にまで着くと、赤い鳥居の下で別れた。しばらく歩んでから源一郎は振り返る。鳥居の側に千鶴の姿が見えた。紅白の巫女装束が夕陽に照らされて淡く輝いている。千鶴が源一郎に向けて小さく手を振っていた。
その姿は──どこか寂しげに見えた。
源一郎も軽く手を挙げて応え、赤坂の町へと歩き出した。
背後から視線を感じる。もう振り返りはしなかったが、千鶴がまだ見送っていることは分かった。
祭りの余韻が残る町を抜ける。夕暮れの空に、提灯の灯りがぽつぽつと点り始めていた。




