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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
二章 赤坂山王裏御用
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第四十四話


 主犯の二人と話をした翌日──火付盗賊改方の役宅に、思わぬ来客があった。


「――寺社奉行方吟味物調役、堀田と申す。渡辺殿にお取次ぎ願いたい」


 来訪を伝えたのは、あの夜──御用改めに加わった堀田だった。宮司と共に火盗改を神域から追い出そうとした男。源一郎の脅しにより御用改めに参加することになり、盗み出された奉納金を奪い返す手伝いをした。その奉納金を日枝神社へと返還する場にも同席していたが、終始気まずそうな顔をしていたことを覚えている。


 ――その男が、わざわざ火盗改の役宅を訪ねてくるとは、と。


 源一郎は表座敷に通し、役宅に勤めている女中に冷たい麦茶を出させた。これから本格的な夏が始まろうとしている。夏の日差しが障子越しに差し込み、部屋の中にも暑さが籠もるため座敷の障子戸は全開にしてあった。源一郎は堀田の向かいに座り、まずは形式的な挨拶を交わした。


「此度は、わざわざお越しいただき恐れ入ります」

「いや……先日の非礼、改めてお詫びせねばならぬと思っておりました」


 堀田は深々と頭を下げる。その額には薄く汗が滲んでいた。


「あの時は宮司の手前もあり、強く出てしまいました。渡辺殿の判断が正しかったことは、今となっては明らかです。私の不明を恥じるばかり」

「いえ、私も配慮が足りませんでした。神域での振る舞い、もう少し穏やかにすべきでした」


 源一郎は穏やかに答えた。今さら過去のことを蒸し返しても仕方がない。しかし、形式的な挨拶とは言え、口にするのとしないのとでは全く異なる。


 だが、堀田が来た本題はそれではないはずだ。寺社奉行方のエリート。吟味物調役ともあろう者が、単なる謝罪のためだけにわざわざ火盗改の役宅まで足を運ぶとは思えない。恐らく用件というのは――。


「して、本日のご用向きというのは――」


 源一郎が問うと、堀田の表情が引き締まった。それまでの慇懃な態度が改まり、寺社奉行方の役人としての顔が現れる。目つきが鋭くなり声のトーンが変わった。


「……あの夜、廃寺で見たものについて。約束を果たしに参りました」


 弥勒菩薩。須弥壇。燃え滓。あの時の光景が思い浮かぶ――。堀田は「ここでは言えない」と言った。それと「後日、必ずお話しする」とも。


「弥勒下生信仰……でしたか」

「はい」


 堀田は居住まいを正した。背筋を伸ばし、源一郎を真っ直ぐに見据える。


「渡辺殿は、弥勒下生についてご存知ですか」

「詳しくは存じ上げません。弥勒菩薩が遥か未来にこの世に降り立ち、衆生を救うという信仰……という程度の理解です」


 源一郎が答えると、堀田は頷いた。


「概ね、その通りです。弥勒菩薩は釈迦の入滅から五十六億七千万年後に、この世に下生して衆生を救済するとされています。仏教の教えの一つであり、それ自体は正当な信仰です」

「それ自体は――?」

「ええ。本来は、ということです」


 堀田の声が低くなる。それから周囲に人がいないか確認するように視線を巡らせてから、再び話しだした。


「……ですが、この信仰が民衆に広まる中で徐々に変質していったのです」

「変質、とは」

「ではご説明しましょう──」


 堀田曰く、奈良時代においては『この世は苦しいが、死んだ後に弥勒がいる兜率天へ昇り、そこで56億7千万年後の下生を一緒に待とう』という上生信仰が広まった。


 だが平安時代になると末法思想の影響を受け、『弥勒が兜率天より降りて来れば、今の汚れた世の中は消え、貧富の差も苦しみもない、新しい世が訪れる』という下生信仰が主流となった。


 そして、長く続いた戦乱の世──。人々の願いは『何億年も待っていられない、今、救って欲しい』という待望へと傾いた。


 そこに大飢饉や物価高騰、治安の悪化、社会的な不安定化が重なった──。そうして、『もうすぐ弥勒が下生する。下生に合わせて、現世を変革しなければならない』という終末論へと変遷してきたのだという。


「──つまり、弥勒下生信仰とは、現世の支配体制を覆す革命『世直し』の旗印となり得る思想なのです」


 源一郎は眉を顰めた。危険な思想だ。表立って話すことも危うい。源一郎は小声で聞き返した。


「……支配者が滅ぶ、と。しかし、そのようなことが……」

「はい。実際に大陸では、この思想を背景にした反乱が幾度も起きています」


 堀田は声を潜めた。


「白蓮教をご存知ですか」

「……名前だけは」

「浄土信仰を中心として弥勒下生信仰を教義に加えた宗教結社です。元の時代には、この白蓮教を母体とした反乱が起き、元朝を滅ぼしました。紅巾の乱と呼ばれる大乱です」


 源一郎は前世の記憶を辿った。うろ覚えだが、そのような歴史があった気がした。自らを弥勒の化身と自称し、その下生の目的を果たすことを旗に掲げた。腐敗した現世を破壊し、新しい理想郷を再構築するという革命色の強い動乱。中国の歴史においては、こうした宗教を背景にした反乱が幾度となく起きていると学んだ。


「そして今――大陸では再び不穏な動きがあるようなのです」


 堀田が声をさらに潜めた。その声は、ほとんど囁くようだった。


「長崎に来る清国の船乗りや商人たちから、様々な話が漏れ聞こえてきます。白蓮教の弾圧。役人による検閲の強化。大量の処刑……」

「……大陸では、そのようなことが」

「はい。幕府はこうした情報を公にはしておりません。唐船風説書にも記載されていない。ですが、長崎奉行から寺社奉行への内々の報告では、清国の民衆の間で白蓮教が再び広まりつつあるようだと……」


 堀田は深く息を吐いた。その表情には深い憂慮の色が浮かんでいた。


「大陸で何が起きようとしているのか、正確なところはまだ分かっていません。ですが、弥勒下生信仰を背景にした不穏な動きがあることは確かです。清国の役人たちが、それほど厳しく弾圧しているということは──それだけの危機感を持ち、白蓮教を脅威として認識しているということです。そして──」


 堀田が源一郎を真っ直ぐに見つめた。ここからが本題ということだろう。


「この本朝においても、世情に広まる不安から弥勒下生信が隆盛し、我が国においては富士講と結びついている可能性があるのです」


 源一郎は息を呑んだ。


 ――富士講。


 昨日の尋問で、巨漢と浪人が語っていた。彼らは富士講で出会い、仲間となった。そして、謎の男『御師』もまた、富士講に属していると名乗っていたと。


「富士講には八百八講と言われるほどに様々な派があります。多くは健全な信仰ですが……その中に、弥勒下生の思想を取り入れ、終末論的な教えを説く一派があるのです」


 堀田は周囲を警戒するように言った。聞かれてはならないとばかりに。


「『この世は穢れきっている。苦しみのない弥勒の世の到来は近い、弥勒の降臨に備えなければならない』──そのような教えを広めている者たちです」

「……世直しを唱える者たち、ということですか」

「はい。民衆を扇動し、現世の支配者を否定する。旗頭を立て、現政権に対する反抗勢力とする。幕府にとって、それは大きな脅威です。大陸で起きていることが、この国でも絶対に起きぬとは限りません。ゆえに、寺社奉行方は富士講の動向を注視しています」


 源一郎は昨日の尋問を思い出した。


 主犯二人が属していた講――無宿人、流れ者、世間から爪弾きにされた者、行き場のない者たちが信仰を通じて繋がり、互いに助け合っていた。そして、富士講に属していると名乗り、主犯二人に物を融通し、信頼関係を築いていた御師。


 彼らが、堀田の言う「一派」の者なのか。


「……実は昨日、盗賊の主犯と話をいたしました」

「なんと、それは……」

「彼らは富士講で出会い、仲間となったと言っていました。破れ寺を寝床にしていた無宿人たちは講の一員であり、そして──とある男から様々な物を融通されていたとも」


 堀田の目が鋭くなる。


「とある男?」

「はい。御師と呼ばれ、富士講に属していると名乗っていたそうですが、どの講の者かは分からないと。顔も覚えていないと言っていました。中背、中肉、これといった特徴のない男だと」

「……御師……印象に残らない男、ですか」


 堀田が眉間に皺を寄せて呟いた。堀田は何か心当たりがないか記憶を探っているようであった。


「盗賊の者たちに何を渡していたのか分かりますか」

「講で使う道具や、無宿人たちの生活に必要な物を。そして──痛み止めの薬を」

「痛み止めの薬?」

「はい。線香のように焚いて煙を吸わせると、痛みが和らぐのだそうです。病人の苦しみを取るために使っていたと言っていました。ですが……」

「ですが?」

「使い続けると、体がおかしくなる。煙を吸わないと落ち着かなくなり、吸えないと震えが止まらなくなる」


 源一郎は続けた。


「あの夜、廃寺で捕らえた無宿人たちの中に、様子のおかしな者がいました。あれは、その痛み止めによる障りだったようです」


 堀田の顔色が変わった。目を細める。


「なるほど……」

「何か心当たりが?」

「以前から、報告を受けていたのです。ある種の香を焚き、煙を吸わせることで離れられないようにする。その煙を吸うと幸福な気分になり、次第に依存し、やがては言いなりになる。そのようにして信者を増やしている一派があると」

「信者を増やすために、薬を使っていると?」

「はい。そしてその正体は──阿芙蓉。阿片とも言われています。廃寺の祭壇にあった燃え滓……あれが、そうだと思われます」


 堀田は深く息を吐いた。


「渡辺殿。あの廃寺にあった須弥壇。弥勒菩薩像。そして阿芙蓉。あれらは全て、その一派から齎されたものである可能性があります」

「では、あの盗賊たちは……」

「……それは分かりません。彼らが本当にその一派に属していたのか、それともただ繋がりがあっただけなのか」


 堀田は考え込むように目を伏せた。


「それと、尋問でもう一つ分かったことがあります」

「何でしょう」

「御師は盗み出された奉納金には興味がなかったようです。金の分け前を求めることはなかった。代わりに求めたのは──麻の種でした」

「麻の種?」


 堀田が眉を怪訝そうにした。


「日枝神社の蔵の中にしまってあるという、特別な麻の種を欲しがっていたそうです。奉納金など盗賊たちにくれてやると言っていたと」

「麻の種……」


 堀田が考え込んだ。その表情が次第に険しくなっていく。


「麻は神事には必須の植物です。注連縄や鈴の尾、幣帛、精麻、供物、神官たちの装束にも使われる。神社の蔵に麻の種があっても、何ら不思議ではありません。ですが……」

「ですが?」

「……阿芙蓉の件を鑑みれば、別の用途も思い浮かびます。信じがたいことですが」


 堀田が声を潜めた。


「大陸では刻み煙草のように吸うことがあると聞きます。煙を吸うと人が変わったようになり、幻を見るようになる……本朝においても煮出して茶として飲んだ者が錯乱したという話はあります。本来はそのような使い方はしない筈なのですが……」

「っ……」


 源一郎は言葉を詰まらせた。それは未来においても問題となっていたこと。しかし……この江戸においては何ら制限がないことではある。何故なら、この江戸の時代において麻はそういった使われ方は殆どされなかったから。


「つまり……御師は神事以外の用途のために種を手に入れようとしていた?」

「……わかりません。ですが、可能性はあります。基本的に本朝の麻にそのような効果はありません。ですが……日枝神社の蔵にある麻の種が通常のものとは違う……そういった作用のある麻の種である可能性もあります」


 堀田は首を振った。


「──ですが、これはただの推測に過ぎません」


 源一郎は黙って頷いた。


 富士講と弥勒信仰の関連については分かった。しかし、御師の正体と目的については未だ判然としない。


「今回の強盗は主犯の二人が全てを画策したと。尋問の結果も、そのように報告されると聞いています」

「はい」

「ですが……本当にそうなのでしょうか」


 堀田が源一郎を見つめた。その目には、源一郎と同じ疑念が宿っていた。


「阿芙蓉はどこから齎されたのか。それが何故、講に渡ったのか。話に聞く御師にはまた別の目的があるのではないか……そう疑ってしまいます」


 源一郎は黙って頷いた。同じ疑念を、源一郎自身も抱いていたのだから。


「渡辺殿──。此度の件、表向きは窃盗団の単独犯行として決着いたします。それが、幕府にとっても都合が良い。弥勒下生信仰と結びついた富士講が事件の裏で暗躍していた、などという話が広まれば、民衆の不安を煽りかねません」

「理解しています」

「富士講は庶民の間に深く根付いた信仰です。その多くは民衆の心を慰撫するものですが……一部が世直しを目論んでいる。そんな話を公にすれば、多くの民を疑わなければならなくなり、幕政にも余計な混乱を招くことになります」


 堀田は深く息を吐いた。


「ですが……心の片隅に、留めておいていただきたい」


 堀田は立ち上がった。


「いつか、この件の本当の姿が明らかになる時が来るかもしれません。その時は──」

「えぇ。その時は、必ず解決してみせましょう」


 源一郎も立ち上がり、深く一礼した。


「此度のこと、感謝いたします。堀田殿」

「いえ……こちらこそ。渡辺殿のような方が火盗改にいてくださって、心強く思います」


 堀田は障子を開け、廊下に出た。だが、去り際にふと振り返った。


「渡辺殿」

「はい」

「御師……謎の富士講の男。もし、再び姿を現すことがあれば……お気をつけください」

「もちろんです」


 堀田の目には、真剣な警告の色があった。源一郎は頷いた。


「また、何かあれば、いつでもお訪ねください。私の知る限りのことは、お伝えいたします」

「ありがとうございます。その時は遠慮なく」


 堀田が去った後、源一郎は一人、座敷に残った。


 茶を啜りながら、考える。弥勒下生。富士講。大陸での不穏な動き。そして──背後に潜む、見えない影。


 今回の事件は終わった。盗賊団は捕らえられ、奉納金は戻り、表向きは全てが解決した。


 ──だが、本当に事件は解決したのか?


 御師は今どこで何をしているのか。痛み止め──阿芙蓉はどれだけ江戸に広まっているのか。麻の種を欲しがった理由は。弥勒信仰を掲げる富士講の一派は本当に何かを企んでいるのか。


 それらの問いに答えはない。


 だが、いつか──。その答えが明らかになる時が来るのだろう。源一郎は茶碗を置き、窓の外を見た。


 夏の日差しが強く照りつけている。蝉の声が遠くから聞こえてくる。


 祭りの喧騒が去った江戸の町は、いつもの日常を取り戻しつつある。商人たちが荷車を引き、子供たちが路地を駆け回り、物売りの声が響いている。


 平和な、いつもの江戸だ。だが、その日常の裏には──深い闇が静かに息づいている。源一郎はそれを忘れないことにした。──火付盗賊改方与力として。鬼切りの血を引く者として。


 源一郎は立ち上がり、客間を出た。今日はまだ、やるべきことがある。


 これから日枝神社に行かねばならない。宮司に会い、兼嗣の死を伝えねばならない。千鶴にも挨拶は必要だ。そして──神猿にも報告をしなければならないだろう。


 源一郎は廊下を歩きながら、疲れたように深く息を吐いた。


 事件は終わった筈だ。だが、闇は深く──何も終わった気はしていなかった。

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