第四十三話
源一郎は息を呑んだ。
「……死んだのか」
「ああ。苦しむこともなく……穏やかな顔で、そのまま息を引き取った。死ぬってことも気づいていなかったんだろう……」
巨漢の目から、涙が一筋零れ落ちた。
「俺たちは……殺すつもりなんてなかったんだ。ただ、記憶を消すだけのはずだった。本当だ……仲間を……仲間を殺すつもりなんて……」
「あのクソ野郎……」
浪人が歯を食いしばった。ポツポツと涙が落ちる。
「最初からそのつもりだったんだ……!俺たちに兼嗣を殺させるために、あんな嘘をっ」
「いや……俺たちがやりすぎたんだ。兼嗣が死んだのは俺たちが薬の使い方を誤ったせいだ……」
方や御師を恨み、方や自身の不注意を悔やむ。源一郎は黙って聞いていた。
兼嗣が死んだのは偶然に思える。だが、恐らくは――御師と呼ばれる男は、最初から兼嗣を殺すつもりだったのではないだろうか。奉納金の盗みの実行を止めさせないために。兼嗣が知れば止めると予測していて、最大の障害である兼嗣を排除した。
そして、二人の手を汚させたのにも理由はある。仲間を自らの手で殺させることで、彼らの良心に罅を入れて歯止めのタガを外し、無慈悲な盗賊へと仕立て上げた。後戻りできないようにさせた。──その方が筋が通る。
「遺体はどうした」
「……破れ寺の片隅に、埋葬した」
巨漢が絞り出すように言った。
「仲間の遺体を粗末に扱うことはできなかった。せめて、眠れる場所を……と思って」
「場所は」
「寺の裏手に小さな墓標を立てた。名前も彫っていない、ただの木の板だが……あそこに兼嗣は眠っている」
源一郎は深く息を吐いた。
兼嗣――最初は脅される相手だった。だが、無宿人たちと関わるうちに心を動かされ、自ら進んで彼らの仲間となった。神社を追われた後も彼らと共に生きようとした。
そして──仲間の手によって、命を落とした。──悪意を持っていた『御師』に利用され。
「……兼嗣が死んだ後、どうしたのだ。盗みをやめようとは思わなかったのか」
「……どうしようもなかった。盗みを諦めるべきかも話し合った……だが仲間たちは飢えていた。病人も増えていた。金がなければ、どうにもできなかったんだ……」
「だから、盗みを実行したと」
「ああ……俺たちには他に道がなかった。兼嗣から聞き出した情報を使って、蔵を破り、金を奪った。あの金があれば、仲間たちを救える……全て上手くいって救われる――そう思っていた」
巨漢が拳を握り締めた。
「だが……結局、俺たちは捕まった。講の仲間たちも巻き添えになった」
源一郎は黙って二人を見つめた。やるせないものだ……だが、この男たちは確かに盗賊だ。金を奪い、その過程で社人を死なせた。それは決して許されることではない。
「結局のところ、御師の目的は何だったのだ。何を求めてきた」
源一郎が問うと、浪人と巨漢が消沈した顔を見合わせた。
「……奇妙なことに、奉納金の分け前を求められることはなかった」
「……金を狙う手助けをしておいて、見返りを求めないなど、不自然だろう。俺たちもそう思った。だが、御師は実際に金には興味がないようだった」
「では、何を求めた」
「……種だ」
「種?」
「ああ――。日枝神社の蔵の中にしまってあるという、麻の種を欲しがった」
源一郎は眉根を寄せた。理解できない。麻の種――未来ならいざ知らず、この江戸の世では麻などそこらに腐るほど生えている。
「麻の種が、なぜ神社の蔵に」
「知らん。あの男は神社の蔵には奉納金だけでなく、様々な供物がしまわれていると言っていた。その中に特別な麻の種があるはずだと」
「特別な、麻の種?」
「ああ……詳しくは聞いていない。ただ、あの男はそれをひどく欲しがっていた。奉納金など俺たちにくれてやると言っていたくらいに」
源一郎は考え込んだ。四千両を超える大金よりも、麻の種を欲しがる男。一体、何のために。そして、その種にはどのような価値があるのか。――わからない。
「その種をどうしろと言われた」
「……日枝神社の裏門のあたりに置いておけと言われた」
浪人が答えた。
「蔵から種を持ち出したら、裏門の近くにある古い祠の脇に置いておけと。後で取りに来ると言っていた」
「っ、それで、どうしたのだ」
「……祠に置いてきた。奉納金を盗んで、逃げようとする際に。あの男に言われた通り、裏門近くの祠の脇に置いてきた」
源一郎は目を見開いた。逃走の場面は源一郎も監視していた。確かに祠に向かって手を合わせているのは見た。だが、まさか……
「では、その種は──」
「もうないだろうな。俺たちが捕まる前に、あの男が回収しているはずだ」
してやられた――源一郎は歯をギリィと噛み締めた。
――御師。富士講に属していると名乗り、長年にわたって物を融通し、信頼を築いた。そして、山王祭の奉納金のことを教え、薬の使い方を指示し、最後には目標である麻の種を手に入れた。全ては計画通りだとでも言うのか──。
§
「――盗みに入った理由は……これで全部だ。なあ、一つ教えてくれないか。あの時、弓を使ってた女がいたろう。凄腕の。あいつのことを聞きたい。あいつは今、どうしてる。無事なのか」
巨漢が源一郎に尋ねる。
「……あの女との関係を教えるのであれば、教える」
巨漢と浪人の顔色が同時に変わった。心配するような──どこか優しげな色が浮かぶ。やはり仲間思いではあるのだろう――それが人を殺した犯罪者であるとしても。
「あの女も講の仲間だ。俺たちと一緒に生活し苦楽を共にしてきた」
「比較的新しい仲間だったがな。俺たちの元に来たのは……一年ほど前のことだったか」
「素性は知っているか」
「確か……地方の小藩の出だと言っていた。弓術家の娘だったそうだ」
浪人が答えた。
「父親の仇を討つために江戸に来たらしい。だが、女一人では……生きていくのも難しいからな。哀れな奴なんだ」
「……仇討ちか」
「ああ。だが、詳しいことは聞いていない。あの女は口下手というか、無口でな。自分のことはほとんど話さなかったからよ」
「江戸に来たはいいが、女一人で金を稼ぐのは難しい。まともな仕事などありはしない。遊女か夜鷹になって体を売るしかなく……だが、奴はそれすら拒んだみたいだ。それで困窮していた」
「俺たちが見つけた時は、死にかけだった。痩せ細って、破れ寺近くの道端に倒れていた……あのまま放っておけば、数日もたずに死んでいただろうよ」
巨漢の目が、遠くを見つめるように細まった。
「俺たちは、あの女を助けた。食い物を与え、寝床を用意し、仲間に加えた。……最初は警戒していたみたいだが、次第に心を開いてくれた」
「……どんな女だった」
「とにかく口下手で、無口だ。自分のことはほとんど話さなかったし、笑うこともほとんどない。まぁ……多分、行き倒れになる前に辛い目にあったんだろう。女にとっては珍しいことでもないのだろうからな……」
「だが……口数の少ない女ではあるが……人を裏切ることを知らない、皆を思いやれる、いい奴だった。それは確かだ」
浪人が確信を持って言う。……そこに疑いなど一片たりとて存在しない。だが、源一郎は──いい奴?共感することはとてもじゃないができないと感じた。
「病人の世話を進んでやったり、子供たちに弓の稽古をつけてやったり。口数は少ないが、行動で示す女だった。仲間たちは皆、あいつを頼りにしていた」
「……弓の腕は?」
「それはもう、凄まじかった!あれほどの腕前は広い江戸と言えど、そうそういない。父親が弓術家だったというのは本当だろう。夜目でも的を外さなかった」
巨漢がまるで自慢をするように、笑みを浮かべて言う。
「本当は盗みに連れていくつもりはなかったんだ……だが、あいつがどうしても来たいと言ったんだ。役に立てると……殺しなんてさせたくなかったが、盗み働きも殺しも既に経験していると言われた。……だから連れて行った。あの弓の腕があれば何かあった時に役立つのは事実だったからな……」
源一郎は黙って聞いていた。
弓使いの女の虚像が、少しずつ見えてきた。父の仇を討つために江戸に来た、地方の弓術家の娘。困窮し、死にかけていたところを盗賊たちに助けられた。そして、彼らの仲間となった。
だが──その正体は御庭番の密偵だ。
何かしらの目的を持って潜入していたのだろう。弓術家の娘という話も、困窮していたという話も、全て作り話。いや、あるいは……一部は本当で、一部は嘘なのかもしれない。真とも嘘とも判断がつけられない。いずれにせよ、女はもう火盗改の手を離れている。源一郎にはその本心も素性も確かめる術がない。
「女の名前を知っているか」
「あ、あぁ……あいつ、名も言わねえのか……卯木だ」
『卯木』――おそらく偽名だろうが、覚えておくことにしよう。
「それで……あいつは今どうしてる」
巨漢が問うた。その声には切実な響きがある。仲間のことを心配するような、盗みに連れて行ったことを悔いるような……もしかしたら、助命の嘆願でもしようと考えているのかもしれない。
二人の伺うような目。源一郎に対して、やけに良い印象を抱かせようとしている。その稀有な技能を火盗改のために使わせればいい。あの女だけでも助けてくれ、密偵として使えばいいとでも言って。だが――。
「……責めにかけた――」
源一郎は淡々と答えた。なるべく感情を出さないように。
「何も喋らなかった。最後まで、一言も。だから加減を間違えたのだろう。責めに耐えられず牢死した」
嘘だ。女は上役であろう御庭番の男に引き取られていった。今頃は将軍家の元で新たな任務についているのかもしれない。だが、それを伝えるわけにはいかない。御庭番の存在は公にできるものではない。
源一郎が死んだと伝えると――二人は呆けた。そして、目に燃え上がるような怒りを宿した。
「……殺したのか」
「責めの末に死んだ。それ以上でも以下でもない」
砕かれた膝を物ともせずに巨漢が立ち上がろうとした。だが、縛られた縄がそれを許さない。
「貴、様ァッ……!」
地の底から轟くような声。激しい怒りが、巨漢の全身から噴き出した。その巨躯が震え、縄が軋む音が響いた。浪人も同様だった。それまで諦めたような態度だった男が、目を血走らせて源一郎を睨みつける。
「責め殺しただと……!?女を苦しめて殺したというのか……!」
「このような冷血な男に後を頼もうとしたのが間違いだったか……!」
「やはり火盗改は鬼ばかりかッ!人でなしッ!」
巨漢が唾を飛ばしながら叫んだ。
「お前らには人の心がないのだろうなッ!罪人、無宿人とはいえ人扱いすらされんとは……!」
浪人が歯を食いしばり、涙を流しながら怒鳴った。二人の憤怒の情が牢の中に響き渡る。壁に、床に、天井に。彼らの叫びが木霊する。
源一郎は黙ってそれを受け止めた。何も言わない。言い訳もしない。弁解もしない。ただ、二人の罵倒を静かに聞いていた。
「鬼畜ッ!悪鬼ッ!お前らこそ忌み嫌われる存在だッ!」
「所詮、お前らも俺たちと変わらねぇ人殺しってことさなァ!」
巨漢と浪人が、涙と怒りに震えながら叫び続ける。その声はやがて嗚咽に変わった。怒りが悲しみに変わり、怨嗟が悲嘆に変わっていく。
源一郎は一言も反論しなかった。本当のことを言えば彼らの怒りは収まるかもしれない。女は死んでいない、御庭番に引き取られたのだと。
――御師と呼ばれる謎の男には騙され、兼嗣という友を死に追いやり、果てには卯木には裏切られていた。彼らは哀れな存在には違いない。だが……。
怒りを叫び尽くし、涙を流し尽くし、二人の嗚咽が次第に収まっていく。虚脱したように項垂れる。源一郎は静かに口を開いた。
「一つ、聞く──」
低く、だが牢の隅々まで届く声だった。二人がゆっくりと顔を上げる。涙と怒りで赤く腫れた目が源一郎を睨みつけた。
「俺たちを鬼畜と罵り、人でなしと蔑んだな。火盗改は人殺しだと」
「ああ……その通りだろう……!」
巨漢が掠れた声で吐き捨てた。
「てめえらは……てめえらこそが……!」
「ならば問おう」
源一郎の声が、鋭く二人を射抜いた。
「お前たちの手で命を奪われた、日枝神社の社人五人――。彼らにも、仲間がいた。家族がいた。帰りを待つ者がいた。それを、お前たちはどう思う」
二人の顔が強張った。
「あの夜、蔵を破った時……お前たちは五人の社人を亡き者とした。邪魔だったからと、口封じのために。違うか」
「……それは……仕方なく……」
浪人が口籠もった。巨漢も、何かを言おうとして口を開き――そして、閉じた。
「あの社人たちにも、それぞれの暮らしがあった」
源一郎は淡々と続けた。その声には怒りも憎しみもない。ただ、静かな重みだけがあった。
「朝、家を出る時に家族と言葉を交わし……夜には帰って共に飯を食う。そんな当たり前の日々があった。子を持つ者もいたろう。老いた親を養う者もいたろう。妻を娶ったばかりの者もいたかもしれん」
二人は黙っている。先程までの激昂が嘘のように、口を噤んでいた。
「だが、お前たちがそれを奪った。五人の命と共に、その家族の日々も、未来も、全て」
「…………」
「お前たちは仲間を大切にした。兼嗣の死を悔い、卯木の死を悲しんだ。その情は本物だろう。俺はそれを否定せん」
源一郎の目が、二人を真っ直ぐに見据えた。
「だが――。お前たちが殺した社人にも、同じように悲しむ者がいる。同じように悔やむ者がいる。同じように、その死を受け入れられずに泣いている者がいる」
巨漢の巨体が微かに震えた。浪人は俯き唇を噛み締めている。
「卯木の死に怒りを覚えたのならば……お前たちが奪った命の重さも分かるはずだ。仲間を失う痛みを知っているのならば……遺族の痛みも、想像できるはずだ」
源一郎は一拍置いて、続けた。
「お前たちは火盗改を人殺しと罵った。鬼畜と、畜生にも劣ると。それは否定できん――だが、お前たちは理由があった、仕方がなかったと言うかもしれん。だが、死んだ社人たちにとっては、そんなことは関係ない。ただ命を奪われたという事実だけが残るのだ」
牢の中に重い沈黙が落ちた。その肩が小刻みに震えている。浪人は顔を上げられないまま床を見つめていた。
「俺たちは……」
浪人が絞り出すような声で呟いた。
「俺たちは……」
「どうしようもなかったか」
源一郎が静かに言葉を継いだ。
「だが……動機がどうあれ、事情がどうあれ、結果として五人の命を奪った。その事実は変わらん」
「…………」
「お前たちの境遇には同情する。無宿人として生きる辛さ、仲間を守りたいという思い。それは分かる。だが――」
源一郎は立ち上がった。
「共感はできぬ。だからといって、人を殺していい理由にはならん。お前たちが殺した社人たちも、お前たちと同じように生きていた。同じように、誰かを大切に思い、誰かに大切に思われていた」
二人は、もう何も言わなかった。
巨漢は嗚咽を漏らしていた。それは先程の怒りの涙とは違う――己の罪の重さに押し潰されるような苦悶の声だった。浪人は拳を握り締め、床に額をつけた。まるで、見えない何かに許しを乞うかのように。
「……すまなかった」
浪人が掠れた声で呟いた。誰に向けた言葉かは分からない。源一郎にか、死んだ社人たちにか、あるいは――。
「すまなかった……俺たちは……」
「その言葉は俺に向けるな」
源一郎は静かに言った。
「もし本当に悔いているならば……せめて、残された日々を悔い改めて生きよ。それしか、もはやお前たちにできることはない」
源一郎は踵を返した。
「尋問は終わりだ。お前たちの処分は追って沙汰が下る。だが、無宿人たちのことは頭取に話を通しておこう。真面目に働けば戸籍を与える。故郷に帰る算段もつける」
「……」
二人は何も答えなかった。ただ、先程までとは違う目で源一郎を見ていた。憎しみでも怒りでもない。複雑な、名前のつけようのない感情が、その目に宿っていた。
源一郎は牢を出た。背後から、もう罵声は聞こえてこなかった。代わりに、押し殺した嗚咽だけが、微かに響いていた。
§
源一郎は廊下を歩きながら、深く息を吐いた。
あの男たちは確かに盗賊だ。金を奪い、結果として五人もの社人を死なせた。それは決して許されることではない。
ただ――彼らには、彼らなりの絆があった。仲間を守ろうとする心があった。それを御師と呼ばれる者に利用され、取り返しのつかない罪を犯してしまった。
兼嗣の死を悔い、卯木の死を悲しんだ。それは本物の感情だった。だからこそ、彼らが殺した社人たちにも、同じように悲しむ者がいるのだと。最後には源一郎の言葉が届いたと、そう信じたかった──。
江戸の世は過酷だ。未来に謳われるような美化された面ばかりではない。無宿人たちに余裕はなく、人の善心は貧困を前にして消え失せる。
――源一郎は、深く息を吐いた。尋問の結果、窃盗団の全貌は概ね明らかになった。
『赤坂山王蔵破り』──。それは主犯の二人が画策した──表向きはそういうことになる。だが、源一郎の胸には依然として疑念が燻る。
御師――講へと痛み止めを譲り、山王祭の奉納金のことを教え、間接的に兼嗣を死に追いやった。奉納金の分け前ではなく、麻の種を欲しがり……そして、既にそれを手にしていると思しき男の影が、事件の裏に見え隠れする。
場には幾つものキーワードが散らばっている――廃寺の後ろ堂にあった須弥壇。弥勒菩薩像。弥勒下生信仰。無宿人と富士講。御師。痛み止め。御庭番の影。そして――特別な麻の種。
謎は増えたが、少しずつ点と点が繋がり始めていた。




