第四十一話
──赤坂山王で起きた奉納金の強盗事件は、一夜にして決着を見た。
山谷堀の廃寺で捕縛した盗賊たちは火付盗賊改方の仮牢へと護送された。反抗した無宿人たちも含めて総勢四十名近い大捕物となったが、死者は盗賊側で激しく抵抗した二名のみ。火盗改方に怪我人はなく、上々の結果と言えるだろう。
その日──奉納金は朝日が昇るとすぐに日枝神社へと返還された。
千両箱五つ、四千五百両。それを載せた大八車が火盗改方の同心たちに護衛されながら赤坂日枝神社へと向かう。源一郎もその列に加わった。
盛夏のはしり。朝の空気は澄んでいた。昨夜の喧騒が嘘のように、江戸の町は静まり返っている。祭りの後の独特の寂しさと空虚さが、町全体を包んでいた。
――石段を登り、日枝神社の境内に到着すると、宮司以下、神職たちが出迎える。
宮司の顔色はやはり優れなかった。ことの起こる数日前、「穢れ」と呼んで追い出した相手に、盗賊から盗まれた奉納金を取り返して届けてもらう──その心境は、いかばかりか。頬はこけ、目の下には隈が浮かび、一夜にして十も歳を取ったかのようだった。
だが、源一郎はそれを今更咎めるような素振りは見せなかった。
「強奪に遭った奉納金、火盗改が全額奪還いたしました。不足がないかご確認いただきたい」
淡々と事務的に告げる。宮司は深々と頭を下げた。その頭は、なかなか上がらない。
「……かたじけない。心からの感謝を申し上げます」
その声は震えていた。傲岸だったあの宮司が、まるで別人のように萎れている。
寺社奉行方の堀田と、南町奉行所の木村も同席していた。二人とも、気まずそうな顔をしている。あの夜、源一郎に威圧されて腰を抜かした二人だ。今は少しマシになっていたが、源一郎と目を合わせようとはしない。
御用改めには、源一郎の進言通り、寺社奉行方と南町奉行所も参加させた。盗賊の捕縛に加わったことで、彼らにも「失態を挽回した」という実績を作ってやったのだ。
――火盗改方が単独で解決すれば、方々から恨みを買う。だが、共に働かせ、手柄の一端を分け与えれば、貸しを作れる。
源一郎が考えた、火盗改方を侮った寺社方、町方の鼻を明かすための一計だった。もっとも、この策は事前に相談済みであり、面白がった平蔵からの許可を得て実行したものでもあったが──。
「堀田殿、木村殿。此度はご助力いただき、感謝いたします」
源一郎が頭を下げると、二人は複雑な表情を浮かべた。
「いや……礼を言われる筋合いではない。結局のところ我々は何も……」
堀田が言葉を濁す。
あの夜、破れ寺での戦闘を間近で見た二人は、火盗改方の実力と必要性を思い知らされていた。凶賊どもを次々と制圧していく同心たち。無宿人を合わせれば、火盗改よりも多い人数と緊張感。そして──源一郎が三人の手練れを相手に傷一つ負わず制圧した光景は今も目に焼き付いている。
――あれがもしも、自分たちに向けられたものであったなら。
そう想像するだけで身が竦む。寺社奉行方も南町奉行所も、あのような修羅場は経験したことがない。帳面と筆を扱うことには長けていても、刃を交えることには慣れていないのだ。
「いえ、ご同道いただけたからこそ、奉納金の返還も滞りなく行えます。寺社奉行方、南町奉行所のお力添えあってのことです」
源一郎は重ねて礼を述べた。
これで良い。三方の面目は立った。火盗改方を追い出した直後に盗難が起き、結局は火盗改方に救われた──という話には表向きにはならない。あくまで「三者が協力して事件を解決した」という体裁になる。
恨みを買わず、貸しを作る。それが、源一郎が前世において学んだ処世術の実践であった。敵を作らず、味方を増やす。組織の中で生き抜くための知恵だ。
宮司が千両箱の中身を確認し、震える声で言った。
「確かに……全額、間違いございません。火付盗賊改方の皆様には、重ねて御礼申し上げます」
「では、これにて」
源一郎は一礼し、同心たちを率いて境内を後にした。
石段を下りながら、振り返る。
鳥居の向こうに、深々と頭を下げ続ける宮司の姿が見えた。
§
奉納金の返還を終え、源一郎が役宅に戻ると、平蔵が待っていた。
「首尾はどうだった」
「滞りなく。強奪された奉納金、恙なく返還を終えております。宮司殿も堀田殿も木村殿も、神妙な顔をしておりました」
「そうか、よくやった。これで火盗改の面目躍如というもの。若年寄にも良い報告ができそうだ」
平蔵は茶を啜り、愉快そうに笑った。それは、してやったりとでも言わんばかりの悪そうな笑みであった。この人は、こういう痛快な話が好きなのだ。
「連中も肝が冷えたことだろう。火盗改を追い出した途端に窃盗が入ったのだからな。御老中への言い訳にも苦労したはずだ」
「はい。ですが、これで貸し一つ。今後、何かと融通が利くかと」
「うむ。上出来だ」
平蔵が頷く。しかし、すぐにその表情が引き締まった。茶碗を置き、源一郎を見据える。
「さて……残る問題は盗賊の尋問、それに──あの女のことだ」
廃寺で捕らえた、謎の弓使いの女。源一郎は頷いた。
「はい。他の者共はともかくとして、あの女は未だ一言も喋りません」
弓使いの女は、火盗改方の牢に入れられていた。他の盗賊たちとは別に、独房に収監されている。源一郎の判断だった。
――あの女は、ただの盗賊ではない。
何者かは分からないが、尋常ではない訓練を受けた者──それだけは確かだった。夜闘の中で見せた弓の腕前。正確な射撃。冷静な判断力。そして、捕らえられても動揺を見せない精神力。
盗賊の中に紛れているには、あまりにも異質。源一郎は何度か会話を試みたが、女は一言も発しなかった。
問いかけても、黙秘。
脅しても、黙秘。
御用改めの夜にはあった激しい憎悪といった感情は既に見られなかったが、鋭い目で源一郎を睨みつけるのみ。
すぐにでも拷問にかけることはできた。火盗改方には、その権限がある。だが、源一郎はそれを避けた。
この女には何か事情がある。それを見極めるまでは下手な手出しはできない──そう判断していたのだ。あの女の纏う気配は、単なる盗賊のそれではない。何か、もっと大きなものの一部であるような──そんな直感があった。
そして、その判断は間違っていなかったことを思い知る。
§
奉納金返還から二日後の朝。火盗改方の役宅に、一人の男が現れた。
「火付盗賊改方頭取、長谷川平蔵殿にお目通り願いたい」
門番からの報せを受け、ただ事ではないと感じた平蔵は表座敷で男を迎えた。用件を尋ねれば、内容は先の大捕り物について。平蔵はその場に一件を収めた源一郎を呼び寄せ、同席させた。
男は三十半ばほど。身なりは質素だが、よく見れば源一郎どころか、旗本の平蔵よりも仕立ての良い着物を纏っている。
腰には刀を差しているが、番方、役方の武士どちらとも言えない──何かまた別の気配を感じさせる男だった。物腰は丁寧で、目元も柔らかい。一見すると、穏やかな武士に見える。だが――隙がない。
座った姿勢一つ取っても、いつでも動けるような重心の置き方をしている。呼吸は静かで深く、視線は部屋全体を捉えている。男は常に周囲を警戒していた。
源一郎は直感した──この男、只者ではない。
「して、お客人殿。本日のご用向きは」
平蔵が問うと、男は懐から書状を取り出した。その動作も滑らかで、無駄がない。
「此度、長谷川殿のところでお預かりになっている女を引き取りに参りました」
書状を受け取り、平蔵が目を通す。その表情が、驚愕に変わった。眉が跳ね上がり、目が見開かれる。平蔵ほどの男が、これほど動揺を見せるのは珍しいことであった。
「……なるほど」
平蔵は書状を源一郎に渡した。書状を受け取り目を通す。そこには簡潔な文言が記されていた。
──御用改めで捕縛した女人の身柄、引き渡されたし。
署名はない。だが、書状の片隅の押印を見て源一郎は口元を引きつらせた。
――葵の御紋。徳川将軍家を象徴する紋章だった。この紋を使えるのは、将軍家に連なる者のみ。
「承知いたした。源一郎、捕らえた女を連れてこい」
「はっ」
源一郎は表座敷を出て、牢へと向かった。廊下を歩きながら、考える。葵の御紋を持つ者が、あの女を引き取りに来た。それが意味するところは──。
牢に着き、女を独房から出した。縄を解く。女は相変わらず無言だったが、ふと、源一郎の目と視線が合った。その視線には、当初あったはずの憎悪はない。
あの夜、覆面を剥がされた時に見せた激しい怒りは、どこにも見当たらない。代わりにあるのは、何か不思議なものを見るような──あるいは、見定めようとしているかのような──複雑な色だった。
「……迎えが来ている。行け」
源一郎が言うと、女は小さく頷いた。それが、この女が源一郎の声に反応して見せた唯一の行動だった。
表座敷に戻ると、男が立ち上がって女を迎えた。
「ご苦労だった」
男が女に短く言い、女は無言で頭を下げた。その仕草には明確な上下関係が感じられる。この男は女の上役なのだろう。
「長谷川殿、渡辺殿。此度の件、感謝いたす」
男が平蔵と源一郎に向き直った。
「この女の扱いについてですが──苛烈な拷問により死んだということで、よしなに」
「……承知いたした」
平蔵は唸るように承諾した。つまり、この女は公式には「死んだ」ことになる。火盗改方の牢で、拷問の末に死亡した女囚。そういう記録が残ることになるのだろう。
「では、これにて御免」
男は平蔵と源一郎に一礼すると、女を連れて去っていった。二人の姿が門の外に消えるのを見届けてから、平蔵が呟いた。
「……御庭番、か」
「やはり、そうでしたか」
源一郎が言うと、平蔵は深く頷いた。
「将軍家直属の密偵だ。恐らく、盗賊団に潜入して内情を探っていたのだろう」
御庭番――。その名は、源一郎も聞いたことがあった。
将軍家に直接仕える隠密集団。その起源は八代将軍吉宗の時代に遡る。紀州から江戸に入った吉宗が、信頼できる紀州の郷士たちを側に置いたのが始まりとされている。
表向きは、江戸城の庭の手入れを担当する「御庭番」という役職。だが、その実態は、将軍直属の諜報機関だった。
全国に散らばり、諸藩の動向を探り、幕府に報告する。時には、将軍の密命を受けて暗躍することもあるという。その存在は公然の秘密とされ、詳細を知る者は限られていた。火盗改方のような役方とは、全く異なる世界に生きる者たちだ。
「我々と同じことをしていたと?」
源一郎が問うと、平蔵は首を横に振った。
「同じではない。俺たちが盗賊を追っていたとすれば、御庭番はもっと深い場所を探っている。上様の目となり、耳となって情報を集めることが目的だ。盗賊の捕縛などは、彼らにとっては些事に過ぎん」
「では、何を探っていたのでしょうか」
「さてな。それは俺たちの知るところではない」
平蔵は茶を啜り、窓の外を見た。
「御庭番が動いていたということは、将軍家でも何かを掴んでいたのかもしれん。盗賊団の背後にある、より大きな何かを」
「あの廃寺にあった弥勒菩薩像に、狂い薬……」
「そうかもしれんし、全く別の何かかもしれん。どちらにせよ、俺たちには分からんことだ」
平蔵はため息を一つ、肩を竦めた。
「気にはなるだろうが、御庭番の仕事には触れぬが吉だ。あちらの領分に踏み込めば、火傷では済まん。向こうも俺たちと関わろうとすることはあるまい。それで良い」
源一郎は頷いた。
御庭番──将軍家直属の諜報機関。あの女が何を探っていたのか。なぜ盗賊団に潜入していたのか。それは源一郎たちが探ろうとしても、決して明るみにできるものではないだろう。
闇から闇へ――。そういう世界に生きる者たちなのだ。
「さて……残るは盗賊どもの尋問だ」
平蔵が話を切り替えた。表情が引き締まり、火盗改頭取としての顔に戻る。
「幸いなことに、その処遇については書状に何もなかった。既に関知していないということなのだろう。御庭番にとって、あの盗賊どもは用済みというわけだ」
「では、我々の裁量で」
「ああ。奴らから、洗いざらい吐かせろ。特に主犯格の二人──あの巨漢と浪人からは、全てを聞き出せ」
「はっ」
源一郎は一礼し、表座敷を出る。廊下を歩きながら、源一郎は考えていた。
御庭番が動いていた。それは、この事件に将軍家が関心を持っていたということだ。単なる盗賊の仕業として片付けられない、何かがある。
あの廃寺の須弥壇。弥勒菩薩像。無宿人たちと盗賊の関係性──。それらは、どこに繋がっているのか。
源一郎は仮牢への道を急いだ。まずは、盗賊どもから真実を聞き出すことだ。




