第二話
倉は店の裏手にあった。
白壁の土蔵で、二階建て。扉には大きな錠前がかかっている。周囲は石畳になっており、確かに足跡は残りにくい。砂利がある訳でもなく、人がいても足音には気づきにくいだろう。
「ここでございます」
三郎兵衛が錠前を開け、扉を開いた。
倉の中は薄暗い。窓はあるが、小さく、高い位置にある。源一郎は中に入り、辺りを見回した。
棚には反物が整然と並べられている。絹、木綿、麻──色とりどりの反物が、倉の中を埋め尽くしている。
匂いは──布と、わずかな埃。そして、カビの匂い。盗みを警戒して窓を閉め切っているせいで、空気が籠もってしまっているのだろう。反物を保管するのに適しているとは思えない。
源一郎は床を見た。
確かに、足跡はない。頻繁に人が出入りすることもあってか綺麗に掃き清められており、足跡となるような埃もない。
高い場所にある窓を見た。
小さく、高い。大人が通るのは難しそうだ。そしてやはり閉まっている。
天井を見た。
梁が組まれており、その上には板が張られている。二階の床だろう。
「二階には何がある?」
「反物以外の使用頻度の低い備品を保管しております。そちらにはあまり高価なものはないかと……」
「二階への入り口は?」
「一階天井部分に出入口がございますが、階段などはございません。出入りする際は梯子をかけることになっております。一階の扉を開けなければ、二階にも上がれません」
「上がらせてもらえるか」
「はい、すぐに梯子を」
三郎兵衛が手代を呼び、梯子を運ばせた。源一郎は梯子を上り、二階の出入口から中を覗いた。
二階もやはり薄暗い。窓からわずかに光が差し込むだけだ。床には古い帳簿や使い古した道具などが置かれている。
源一郎は天井の梁を見上げた。
そこにもやはり何もない。いや──わずかな擦れた跡がある。まるで何かが引っかかったか、ズラしたような──?
「主人」
「はい」
「この梁、最近何か引っかかったことはないか?」
「いえ、特には……」
三郎兵衛は首を傾げた。
源一郎は梁を見上げたまま、考えた。
もしかすると──この屋根裏が侵入に関係しているのかもしれない。
だが、今はまだ確証がない。もう少し調べる必要がある。
「分かった。他に何か不審な点はないか?」
「いえ、思いつくのは他には……」
源一郎は頷いた。
普通に考えれば天井裏からの侵入は考えにくい。一階の扉を開けなければ二階にも上がれないのなら、正面から入るのは難しい。密室だ。だが──。
今はまだどうやって侵入したかの経路が不明。前世の探偵の物語のように颯爽と謎を解くような頭脳は、残念ながら源一郎は持ち合わせていない。
「番人が見張っている時、何か音は聞こえなかったか?」
「いえ、何も」
「では、番人に話を聞かせてもらおう」
「承知いたしました」
三郎兵衛は倉を出て、番頭を呼んだ。
「与三郎、こちらへ」
ほどなくして、一人の男が現れた。三十前後だろうか。精悍な顔立ちで、きびきびとした動作。いかにも「できる番頭」という雰囲気だ。
「渡辺様、こちらが番頭の与三郎でございます」
「与三郎と申します。お見知り置きを」
与三郎は丁寧に頭を下げた。
「ああ。お前が何者かの影を見たそうだな」
「はい」
与三郎は真面目な表情で答えた。
「私は被害のあった二晩目、倉の近くを通り掛かることがありました。四つから九つ頃でございましたか、ふと影のようなものが横切ったような気がしました」
「どんな形だった?」
「それが……はっきりとは見えませんでした。ただ、ふわりと何かが動いたように……」
「大きさは?」
「人ほど、でございましょうか。いえ、もう少し小さかったかもしれません」
「方向は?」
「倉の方へ……いえ、倉の上の方へ、動いたように見えました」
源一郎は頷いた。倉の上──つまり、屋根の方か。
「その後は?」
「追いかけようとしましたが、すぐに見失いました。そして、倉を確認しましたが、何も異常はございませんでした」
「鍵は?」
「閉まっておりました」
「他に何か、気づいたことは?」
「いえ、特には……」
与三郎は首を振った。
源一郎はしばらく考えてから、言った。
「分かった。他の者にも話を聞かせてもらおう」
「承知いたしました」
§
源一郎は店の者たちに、一人ずつ話を聞いた。
手代、丁稚、女中──皆、丁寧に応じてくれた。
だが、特に有用な情報は得られなかった。皆、盗みの晩は何も聞いていないし、何も見ていないという。
ただ、一つだけ気になったことがある。
店の雰囲気だ。表向きは和やかだが、どこか微妙な緊張したような空気が流れている。
番頭の与三郎は、店主の三郎兵衛から厚く信頼されている様子だ。店主は与三郎に指示を出し、与三郎はそれをきびきびとこなしている。
だが、他の手代たちは──特に年配の手代たちは、与三郎から指示をされ、どこか不満そうな表情をしている。
一人、吉蔵という手代は、源一郎が話しかけた時、明らかに表情が暗かった。
「盗みの晩、何か聞こえなかったか?」
「いえ、何も」
吉蔵は短く答えた。
「お前は、どのくらいこの店に勤めている?」
「二十年ほどでございます」
「二十年か。長いな」
「……はい」
吉蔵は俯いたまま答えた。
源一郎は吉蔵の様子を観察した。四十前後だろうか。やつれた顔、疲れた目。どこか覇気がない。二十年も勤めているのに、手代のままか。普通なら、番頭になってもおかしくない年数だ。
だが、番頭は若い与三郎だ。吉蔵はそれに不満を持っているのかもしれない。もう一人、清次という手代も、どこか不満そうだった。
「盗みの晩、何か気づいたことは?」
「いえ、何も」
清次も短く答えた。
三十後半ほど。吉蔵ほどではないが、やはり表情が暗い。
源一郎は店の中を見回した。表向きは立派な店だ。商売も繁盛している。主人も人が良さそうだ。だが、内部には──わずかな亀裂がある。それが何なのか、まだ分からない。だが、気になった。
源一郎は三郎兵衛に言った。
「今日のところは、これで失礼する。また明日、来させてもらう」
「はい、お待ちしております」
三郎兵衛は深々と頭を下げた。
「それと、今夜も盗みがあるかもしれん。番人を増やしておいた方がいい」
「承知いたしました」
こっそり耳打ちすると源一郎は店を出た。
外に出ると、昼の陽射しが眩しい。町は相変わらず、人々の営みで溢れている。
源一郎は懐の包みを確認した。付け届けだ。一分金が四枚入っている。推測は当たりだ。前世の価値で言えば、六万円ほど。これで、少しは楽になる。部下に奢る金もできる。
だが──。
源一郎は苦笑した。前世なら、これは完全に「賄賂」だ。受け取れば「汚職」に他ならない。だが、この時代では当たり前。与力はこうした付け届けで生活を支えている。
文化の違いとは、実に面白いものだ。
源一郎は深川の町を歩き始めた。まだ昼前だ。もう少し、町の様子を見て回ろう。
§
深川の町を歩きながら源一郎は人々の会話に耳を傾けた。
昼を過ぎた町は朝とはまた違う空気を纏っている。朝の清々しさは消え、代わりに昼の暑さと人々の疲労が混ざり合った、少し緩んだ雰囲気が漂っていた。井戸端では長屋の女たちが手を休め、桶を抱えたまま噂話に花を咲かせている。手拭いを頭に巻いた女たちの声は、暑さのせいか少しだるそうで、だがその分だけ饒舌だった。
「聞いたかい、丸屋でまた盗みがあったって」
「怖いねえ、妖怪の仕業だって言うじゃないか」
「鍵も壊さず足跡もなしだって、どうやって盗んだんだろうねえ」
「妖怪なら壁も抜けられるんだろうよ」
「やだねえ、うちにも来るんじゃないかしら」
「アンタんとこに盗むものなんてあるのかい?」
源一郎は足を止め、女たちに声をかけた。武士が声をかけてくるなど滅多にないことだろうと申し訳なく思いながらも、この町の人々から情報を得るには直接話を聞くのが一番だと前世の記憶が告げていた。前世では「聞き込み捜査」という言葉があったはずだ。
「少し聞きたいことがあるのだが、構わないか」
女たちは源一郎を見て驚いた顔をした。武士だと気づき、慌てて桶を置いて頭を下げる。この時代の身分制度というものは面倒なものだと源一郎は思ったが、まあこれも文化の違いだと受け入れるしかない。
「は、はい、何でございましょう」
一番年配らしい女が代表して答えた。声は緊張で少し震えている。
「丸屋の盗みのことを調べているのだが、他に何か噂を聞いていないか」
「いえ、特には……ただ妖怪の仕業だって皆が言っておりますが」
「妖怪か……他には何か聞いていないか、どんな些細なことでもいい」
源一郎はなるべく穏やかな声で尋ねた。この時代、平均身長は現代と比べれば大分低い。体の大きな男が怖い顔をして尋問すれば、町人の女たちは萎縮して何も話せなくなる。それは前世でも今世でも同じだろうが、今世では更に酷い。
「いえ……ああ、そういえば」
一人の女が思い出したように言った。三十代半ばくらいだろうか、日焼けした顔に人の良さそうな笑みを浮かべている。
「丸屋の手代が、最近、賭場に出入りしているって噂がありますよ」
「ほう、賭場?」
源一郎は少し身を乗り出した。これは重要な情報かもしれないと直感が告げていた。
「ええ、ウチの馬鹿な旦那が隠してるみたいなんですがね、深川の裏通りの方に賭場があるんです。そこで丸屋の手代が負けが込んでるって噂で」
「誰だ、その手代は」
「さあ、名前までは……ただ年配の手代だって聞きましたけど。二人くらいいるって話ですよ」
年配の手代が二人──吉蔵と清次のことだろうか。源一郎の脳裏に二人の暗い表情が浮かんだ。あのやつれた顔、疲れた目がずっと気になっていた。
「賭場で負けが込んでいるのか……金が必要だな」
源一郎は独り言のように呟いた。女たちは不思議そうに源一郎を見ている。
「ありがとう、助かった」
「いっ、いえいえ、お役に立てて」
女たちは恐縮したように頭を下げ、また井戸端での噂話に戻っていった。源一郎が去った後、きっと「あのお武家様、変わった人だったねえ」などと噂するのだろうと思いながら、源一郎は町の奥へと歩みを進めた。
陽は中天に昇り、町は暑さを増している。夏至も近づくこの時期、江戸の昼は長く暑い。前世なら冷房の効いた部屋でお茶でも飲んでいる時間だろうかと思うと少し笑えてきたが、まあこの暑さも前世ほど悪くはない。汗をかきながら、ゆるゆると町を歩くこの感覚は、以前の生では中々味わえなかったものだ。
蕎麦屋の前を通りかかると店の主人が声をかけてきた。
「お侍様、一杯どうですか、腹が減ってはいませんかい」
「ん……ああ、ではいただこうか」
源一郎は居見世へと入った。狭い店だが清潔で、客が二、三人、黙々と蕎麦をすすっている。皆、立ち食いか床几に腰掛けて食べていた。
「へい、お待ち」
ほどなくして蕎麦が運ばれてきた。湯気が立ち上り出汁の香りが鼻をくすぐる。源一郎は箸を取り、二八の蕎麦をすすった。喉越しが良く、醤油と鰹出汁の塩辛い汁の味が口の中に広がる。江戸の蕎麦は前世のものとは異なるが、これはこれでうまいと源一郎は思った。
「うまいな」
源一郎は心から言った。
「へぇ、ありがとうございます。お侍さん」
店の主人が嬉しそうに笑った。五十過ぎの、人の良さそうな顔だ。
「主人、丸屋の盗みのこと、知っているか」
「ええ、聞いてますよ。妖怪の類の仕業だって皆が噂してまさぁ」
主人は新たな蕎麦を茹でながら答えた。湯気の向こうの顔は、少し困ったような表情をしている。どこもかしこも妖怪の噂ばかりで、隠れた事実を探すのが大変だ。
「妖怪ね、本当にそう思うか」
「さあ……でも鍵も壊さず足跡もないんでしょう?人間には無理じゃないですかね」
「人間にもやり方はある」
源一郎は蕎麦をすすりながら言った。密室トリックというやつだ。推理小説や探偵ドラマでよく見た。犯人は必ず何らかの方法で侵入している。鍵がかかっていても、窓が閉まっていても、隠されているだけでどこかに必ず道がある。
「そうなんですかい」
「ああ、それに妖怪は盗みなどしない。盗むのはいつも人間だ」
店の主人は感心したように頷いた。
「さすがお役人様は違いますねえ、頼もしいや」
源一郎は蕎麦を食べ終え、代金を払った。十六文。前世の価値で言えば250円ほどか。この時代の蕎麦は本当に安い。庶民の味方だ。だからこそ、江戸の町には蕎麦屋があちこちにあり、人々は気軽に立ち寄る。ファストフードというやつの江戸版だなと思いながら、源一郎は店を出た。
店を出ると昼の陽射しが眩しかった。陽は高く昇り町は暑さの中にある。源一郎は額の汗を拭った。手拭いが汗を吸う感触が心地よい。ああ、冷房が欲しいと思わないでもないが、まあこの暑さも悪くはない。人々は皆、この暑さの中で生きている。それがこの時代の当たり前なのだ。
源一郎は深川の裏通りへと足を向けた。
賭場があるという場所だ。これは「違法賭博場の調査」というやつになるだろうか。火付盗賊改方の仕事の一つが賭博の取り締まりだが、今日は取り締まりに来たわけではない。警戒されないとよいのだが──




