第三十五話
南町奉行所は、未来で言う千代田区有楽町──数寄屋橋御門の近くに位置していた。
町奉行とは、江戸の町方の行政・司法・警察を一手に担う役職である。寺社奉行、勘定奉行と並ぶ三奉行の一つであり、江戸の治安を守る要として幕府の重要な機関。奉行所には北町と南町の二つがあり、月番で交代しながら職務にあたっている。
源一郎の所属する火付盗賊改方と、町奉行所とではその性質を異にする組織であった。
町奉行所は役方──すなわち文官の組織であり、町人地の管理、町人に対する犯罪捜査、町行政や民事訴訟の裁定を主とする警察、裁判所、行政役所が合わさったような役割を持つ。対して火付盗賊改方は番方──武官の組織であり、頭領は御先手組頭が選任、武装した盗賊集団を相手に武力行使を行う、言わば特殊部隊のような性格を持っていた。
──ただし、これら両者は決して関わりがないという訳ではない。
火盗改が持つのは強い捜査権と捕縛権──だが、裁判権は持っておらず、裁判権を持つ町奉行所に引き渡されていた。火盗改が捕縛した罪人の多くは町奉行所へと移管され、奉行所では重追放までの裁定を取り扱う。それ以上の裁定に関しては老中の裁可を仰ぐ必要があった。
──それ故に、容疑者の引き渡しや公務に関する書類のやり取り、証言の確認など、火盗改の役人が町奉行所に出入りすることはさほど珍しいことではなかった。
源一郎が奉行所の門をくぐると、門番が軽く頭を下げた。それから大玄関脇に立つ番士に声を掛けた。
「火付盗賊改方与力の渡辺と申す。南町奉行所与力、木村殿に火急の用件がある。お取り次ぎ願いたい」
その名乗りに番士は僅かに眉を上げた。
火盗改の与力同心が奉行所を訪れること自体は珍しくない。だが、用件が通常の引き渡しや書類手続きではなく、特定の与力への面会となれば、それはいつもとは少し異なる。
「少々お待ちを」
番士が中へと入り──しばらくして案内の者が現れ、源一郎は与力部屋へと通された。
そこは広い部屋だった。机がいくつも並び、書類が山と積まれている。壁には江戸の地図が貼られ、事件の発生場所に印がつけられている。町奉行所の役人が日々ここで働いているのだろう。
その与力部屋と廊下で繋がった隣部屋は同心部屋となっているようで、頻繁な行き来がある。部屋の中にはちょうど七、八人の与力や同心がいた。源一郎が入ると、何人かが顔を上げる。
「おや。あなたは……」
年配の与力が声をかけてきた。以前、賭場の取り締まりで捕えた博打打ちを引き渡した際、顔を合わせたことのある男だった。
「確か、渡辺殿だったかな。今日は何の用だい。捕縛人の引き渡しがあるとは聞いていないが──」
「いや、今日は別件です。少し、木村殿に用がありまして」
「木村に──?」
源一郎がそう言うと、年配の与力は怪訝そうにした。詰所の空気が僅かに変わった気がした。
木村──山王祭の警備を担当していた与力の名だ。その木村を火付盗賊改方が訪ねて来た。──日枝神社の一件は既に他の与力同心の間でも噂になっていた。そんな中のことだ。何か進展があったのだろうか。そんな空気が詰所内に流れた。
「渡辺殿、本日は何用でございますかな」
奥から一人の男が進み出てきた。
三十代後半。痩せた体躯に、神経質そうな顔立ち。目は鋭く、口元は憮然としたように固く引き結ばれている。源一郎が想像する典型的な役人然とした風貌だった。
南町奉行所与力、木村──山王祭当日、赤坂周辺の警備を担当していた男が現れた。
「これは日枝神社の一見以来……久方振りですなァ。木村殿」
源一郎は詰所の中央に進み出た。周囲の与力や同心たちの視線が集まる。
「日枝神社の奉納金窃盗の件でお伺いしました。ご存知かと思いますが」
木村の顔、口元が僅かに引き攣った。
「……無論、承知している。遺憾なことだ」
「遺憾、ですか。寺社奉行方の堀田殿も、同じことを仰っておりました」
堀田──その名前を聞いたことで、木村のただでさえ細い目が更に細くなった。
「それで、何用だ。我々に何の関わりがある」
「山王祭当日、赤坂周辺の警備を担当されていたのは木村殿と聞いております。その警備の最中、社人が五人、殺されました。その件についてお伺いしたい」
木村は表情を歪ませ、不快感を露わにした。それも当然のこと──源一郎の言葉は、お前の管理下で事件が起きたのだと、明らかに挑発するものだったからだ。
「それは──我々の責任ではない」
木村は苛立ちを滲ませて言った。
「神社境内は寺社奉行の管轄だっ……!我々は境内外の警備を担当していたに過ぎん。蔵の管理は神社の内部問題であり、そもそも火盗改を神域から追い出したのは宮司の独断だ。南町奉行所に責任はない!」
「左様ですか」
源一郎は頷いた。なんとも分かりやすい反応だった。木村は当日の警備の実務者として、事件の責任を否定した。
「では、強盗殺人という凶悪犯罪について南町奉行所は如何お考えか」
「それこそ火付盗賊改方の職分であろう」
木村は小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「強盗、押し込み、凶悪な盗賊──そういった荒事を取り締まるのが火盗改の役目だ。本来ならば火盗改が対処すべき事件。我々の責任ではない」
「ほう」
源一郎の目が細くなる──。
「火盗改の職分と仰るか。では、最初から我々に任せていただければよかったものを」
「……何だと」
「不審人物の尋問を妨げておいて、事が起きれば素知らぬ顔で火盗改任せ。随分と都合の良い話ですな」
源一郎の揶揄に木村の顔が怒りで紅潮する。木村という男は顔に表れている通り、随分と神経質な人物であるらしい。
「貴様……若造の分際で、何を偉そうに──」
「──木村殿」
源一郎の声が、詰所に響いた。その声は穏やかだったが、冷や水を浴びせ掛けるような……何か冷たいものが滲んでいた。
「盗賊の拠点は、既に火盗改方が突き止めましたぞ」
「……何、だと」
木村の顔に、動揺が走った。木村自身、焦りから密かに事情を聞いて回っていたのだろう。しかし、有力な手掛かりは何もなく……痕跡も残されていない。そんな状況の中──火盗改方はいち早く盗賊の行方を掴んでいた。その衝撃は計り知れない。
「今宵、火盗改が御用改めを行います。既に寺社奉行方の堀田殿にもお話し、お越しいただくことになっております」
木村の目が見開かれた。有り得ないというは話を聞いたように──。
「なに、堀田が……?馬鹿な、あの男が火盗改に協力するだと……?」
「左様。堀田殿は事の重大さをよくご理解しておりました。是非とも参加させていただきたいと」
源一郎は淡々と続けた。木村は訝しげな顔のままだった。
「如何か。木村殿にも、ぜひ御用改めにお越しいただきたいと誘いに参りました」
「断る」
木村は即座に言い放った。
「火盗改の御用改めに、南町奉行所が協力する義理はない。堀田が何を考えているか知らんが、我々はこの一件、これ以上関わり合いになるつもりはない」
「なるほど」
源一郎はあからさまに溜息をついてみせる。
「では、一つお聞きしたい。寺社奉行方は荒事を専門としておりません。にも関わらず、堀田殿は御用改めに参加されることを承諾された」
源一郎の目が、冷たく光った。木村の心胆を見通すような鋭い視線。
「──南町奉行所は、寺社奉行方よりも荒事を恐れていらっしゃるのですかな」
詰所の空気が、凍りついた。今度は木村の表情だけではない、詰所にいる者全員の反応だった。舐められている──源一郎の言葉にそう感じたのだろう。
「何だと、いい加減無礼だぞ貴様ッ!町奉行所を愚弄するか……!」
木村が怒鳴り、怒りで顔が紅潮した。その横で他の与力や同心らも不愉快そうな顔をして源一郎を見ている。
「愚弄などしておりませんとも。事実を申し上げているだけです」
源一郎は一歩、木村に近づいた。
そう──源一郎は事実を言っているだけだ。奉行所の与力同心は刀を持ってはいるが、実際に刀を抜くことはない。取り扱う職域は町人地を対象とした軽犯罪に喧嘩の仲裁。武士階層ではない町民や農民が刃物を振り回せば、逃げ惑う様相を見せるほどには荒事に耐性がなかった。
「寺社奉行方の吟味物調役は生粋の文官です。捕物など経験もない。それでも堀田殿は来ると仰った。対して、町奉行所の与力は日々、江戸の治安を守っておられる。捕物の経験も豊富なはず。その町奉行所が荒事を恐れて尻込みする──世間はどう思いましょうな」
「き、貴様っ」
「寺社奉行方が協力するのに、町奉行所だけが逃げる。そうなれば、どちらに世間の非難が向くかなど……火を見るより明らか。──町人に舐められる原因をつくったのが、木村殿だと言われたいのですかな」
木村は歯噛みした。言い返す言葉が見つからない。
「それに──」
源一郎の声が、さらに冷たくなった。
「御用改めが成功すれば、協力した者の手柄にもなりましょう。協力しなければ、失態と汚名だけが残る。奉納金を取り戻し、下手人を捕らえれば……御奉行への申し開きも、だいぶ楽になるのでは」
木村は黙り込んだ。その顔には苦渋の色が浮かんでいる。
源一郎の指摘通りだった。ここで協力を拒めば、町奉行所だけが白い目を向けられることになりかねない。だが、それでは火盗改方に、目の前の若い武士に頭を下げることになる──。
「……断る……!町奉行所の威信にかけて、火盗改の下風に立つわけにはいかん……!」
果たして──木村は絞り出すように言った。火盗改方に大きな借りを作るよりも、自身の見栄を選んだのだ。
「──ハァ……」
それを理解したのだろう、源一郎が呆れるように溜息をついた。




