第三十四話
寺社奉行役宅は、江戸城の北に位置していた。
寺社奉行とは、全国の寺社およびその領地の管理、僧侶・神官への監督、寺社をめぐる訴訟の裁定などを担う役職である。三奉行の一つに数えられ、老中に次ぐ重職とされていた。その職には譜代大名が就くことが通例であり、役宅は奉行を拝命した大名の上屋敷がそのまま用いられる。
白壁の塀に囲まれた広大な敷地。門には寺社奉行を拝命する大名の家紋が掲げられ、その格式の高さを示していた。
源一郎が上屋敷の門前に立つと、門番が怪訝な顔をした。
火付盗賊改方の与力が寺社奉行の上屋敷を訪れることは珍しい。両者の管轄は異なり、互いの領分に踏み込まないのが不文律だった。だが、全くの関わりがないという訳でもない。寺社が絡む盗賊事件や、管轄を跨ぐ案件では、実務担当者同士が協力を求めることもある。
とはいえ──先触れもなく突然訪れるのは、いささか異例のことだった。
「火付盗賊改方与力、渡辺源一郎。吟味物調役の堀田殿にお取り次ぎ願いたい」
源一郎が告げると、門番は目を丸くした。
火盗改の与力が、本来領分の異なる寺社奉行方の吟味物調役に「会いに来た」のだ。普通であれば事前に先触れを出し、書状を送り、面会の許可を得てから訪れるもの。それを、いきなり押しかけてくるとは──。
だが、与力と吟味物調役は同じ御家人。身分上の問題はない。公務上の必要性に基づいて協力を求めることは、決して不自然なことではなかった。
門番は源一郎の放つ雰囲気に気圧されたのか、咎める言葉を飲み込んで奥へと走った。
しばらくして、上屋敷の中から案内の者が現れた。
中間らしき男が、怪訝な顔で源一郎を見ている。先触れもなく突然訪れた客人を、どう扱ってよいものか困惑しているのだろう。だが、何か緊急の公務であろうと察したのか、何も言わずに源一郎を奥へと案内した。
庭には松が植えられ、池には錦鯉が泳いでいる。大名屋敷の格式を示す立派な庭園だった。だが、源一郎はそれを一瞥もせずに通り過ぎた。
奥の間に入ると、そこには一人の男が座っていた。
四十過ぎだろうか。細い目は知性を湛え、口元には常に薄い笑みを浮かべている。一見すると穏やかな風貌だが、その奥には鋭い観察眼が潜んでいる。
寺社奉行吟味物調役、堀田──日枝神社の警備に関わっていた男である。
吟味物調役は、寺社奉行に持ち込まれる訴訟を実質的に裁いている役柄だ。法律や古文書、宗派に関する深い知識を持ち、訴訟を取り扱う行政・司法の専門家。寺社奉行は四人いるが実際の訴訟には詳しくなく、評定所より各一名ずつ派遣、配置されることになっていた。つまり、吟味物調役とは役人の中でも重要な地位にあり、その頭脳は折り紙付きだということだ。
源一郎は内心で警戒を強めた。この男は口で言い負かせる相手ではないと。
当の堀田は、源一郎を見るとにこやかに微笑んだ。不気味にも、以前のような嘲るような視線は見られない。
「これは、火盗改の渡辺殿。先触れもなく突然のお越しとは……よほど火急の用向きとお見受けいたします。どうぞ、お掛けください」
その物腰はやはり丁寧。だが、源一郎は騙されなかった。「先触れもなく」という言葉に、暗に無礼を咎める響きがある。丁寧さの奥に、侮られたことに対する苛立ちを感じ取っていた。
「お構いなく。用件だけ済ませて退散いたします」
源一郎は座布団に座ることなく、立ったまま言った。堀田がピクリと眉根を寄せた。しかし、すぐに表情を元に戻す。
「日枝神社の奉納金が盗まれた件、堀田殿も既にご存知かと」
堀田の表情は変わらなかった。微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと頷く。
「ああ、聞いております。誠に遺憾なことでございますな」
「遺憾、ですか。して、寺社奉行方としては、今後どのようにお考えで」
堀田は扇子を開き、ゆるりと扇いだ。その仕草には余裕がある。
「渡辺殿。率直に申し上げましょう」
堀田の声は穏やかだったが、その目は笑っていなかった。
「此度の件、寺社奉行方としては──これは宮司の責任と考えております」
「……ほう」
「まず、渡辺殿がお気にされているであろう火盗改を神域から排除した件。これは宮司の判断でございます。宮司は寺社奉行を通じて正式に御老中へと嘆願しており、我々は御老中からの裁定を受け入れたに過ぎません」
堀田は扇子を閉じ、源一郎を真っ直ぐに見た。
「次に、蔵の管理と番人の配置は神社の内部問題。寺社奉行方は監督の立場にありますが、実務は神社側に委ねております。社人が凶賊に遭遇したのは痛ましいことですが、それは神社側の警備体制の問題と言わざるを得ません」
源一郎は黙って聞いていた。
「さらに申せば──」
堀田の目が、僅かに細くなる。
「内部犯行の可能性も否定できません。奉納金の在り処、警備の配置、蔵の構造……これらを熟知している者でなければ、誰にも悟られることなく盗むなど不可能。渡辺殿がご存知かは知りませんが、宮司の身内には神社を追われた元神官がいるのですよ」
源一郎の眉が動いた。兼嗣のことを言っているのだろう。
「つまり──」
堀田は微笑んだ。その笑みには、冷徹な計算が透けて見えた。
「寺社奉行方としては、宮司の監督責任を追及する方向で御老中に報告する所存です。防犯の要である火盗改を排除したのも宮司、内部に不穏分子を抱えていたのも宮司、杜撰な警備体制を敷いたのも宮司──全ては宮司の責任ということで落着させるのが妥当かと」
「……宮司に全ての責を負わせると」
「左様。そうすれば、寺社奉行方も町奉行所も傷つかずに済みます。渡辺殿とて、火盗改が山王祭より排除されていた以上、責任を問われることはございますまい」
堀田は扇子で口元を隠した。その目は笑っている。
「悪い話ではないと思いますが」
源一郎は堀田を見つめた。この男は頭が切れる。論理は筋が通っており、政治的にも最も穏当な落としどころを提示している。寺社奉行が奏上すれば御老中は受け入れる可能性も高い。その論理を口で言い負かすのも不可能だろう。
だが──源一郎は最初から、口で戦うつもりはなかった。
「一つ、お聞きしたい──宮司が御老中へ嘆願した折、寺社奉行方はその仲介をなさいましたな」
穏やかな声で問われた堀田の目が、僅かに細くなった。
「……左様ですが、それが何か」
「寺社奉行方の実務を実質的に取り仕切っているのは吟味物調役……寺社奉行に仲介をお勧めになったのは──堀田殿ご自身ではありませんか」
堀田の顔が僅かに強張った。
「宮司は当初、火盗改の排除までは考えていなかった。お忘れか──?『火盗改方のような者が神域に立ち入ること自体、穢れではないのか。盗賊を追うような者が清浄な神域に足を踏み入れることが、どれほど不敬なことか』──これは堀田殿、あなたの言葉だ」
つまりは、堀田が『神域に穢れた者を入れるべきではない』と宮司に進言し、御老中への嘆願を勧めたとも取れる。源一郎は淡々と言った。
「つまり──火盗改を排除するよう仕向けたのは、堀田殿ご自身ではありませんか」
堀田の顔から、笑みが消えた。
「それは……宮司の判断だ。私は助言をしたに過ぎない」
「助言ですか。結構な助言ですな」
源一郎の声に、僅かに皮肉が滲んだ。
「して、堀田殿。このまま宮司に全ての責を負わせ、寺社奉行方は知らぬ存ぜぬを通すおつもりですか」
「それが最善の策だと申し上げている」
「最善──。なるほど。では、もう一つお聞きしたい」
源一郎は一歩前に出た。
「御老中への嘆願を仲介したのは寺社奉行様です。その寺社奉行様の面目はどうなります」
堀田の顔が、僅かに歪んだ。痛いところを突かれたという顔だ。
「御老中は寺社奉行の仲介を受けて火盗改の排除を認められた。その結果、奉納金は盗まれ社人は殺された。もし寺社奉行方がこのまま逃げ続ければ──御老中に『あの仲介は何だったのか』と問われることになりませぬか」
「それは……」
「仲介を勧めたのは堀田殿だ。寺社奉行の面目を潰したとなれば、その責は堀田殿にも及ぶ。違いますか」
堀田は黙り込んだ。
源一郎の言う通りだった。宮司に全ての責を負わせるという策は、一見すると巧妙に見える。だが、寺社奉行が嘆願を仲介したという事実は消えない。御老中の裁定を仰いだ上での結果が、この惨事だ。
逃げ続ければ寺社奉行の面目は地に落ちる。そして、その仲介を勧めた堀田もまた、責任を免れない。
「社人が五人、殺されました。その件については」
源一郎は続けた。
「大変に心苦しく、遺憾なことです。ですが、それも含めて宮司の責任かと。そもそも寺社奉行方の役割とは寺社の監督にあり、本分が警備にある訳では──」
「──遺憾ですか」
源一郎は、その言葉を遮った。声は相変わらず穏やかだ。だが、その穏やかさの奥に、何か冷たいものが滲み始めていた。
「遺憾、遺憾と。便利な言葉ですな。堀田殿は、人の命も『遺憾』の一言で片付けるおつもりか」
源一郎の険のある言葉に堀田の目に苛立ちが宿る。
「……渡辺殿。感情論では何も解決しません。現実的な──」
「堀田殿」
源一郎が、一歩前に出た。
たった一歩。それだけのことだった。
だが──その一歩で、部屋の空気が一変した。
源一郎の周囲に、何かが立ち込めた。目には見えない。だが、確かにそこにある。重く、冷たく、鋭い何か。
──言うなれば、それは武威。
それは剣を抜かずとも相手を圧する武人の気。鍛え抜かれ、武の頂に立つ者だけが放つことのできる、殺気にも似た重圧。
堀田の顔から笑みが消え、顔色が青ざめる。
「な……」
背筋に冷たいものが走る。心臓が早鐘を打つ。呼吸が浅くなる。目の前に立つ若い与力が、突然、別の存在に見えた。
堀田は吟味物調役だ。法に通じ、訴訟を裁く立場にある。武士ではあるが、実質的には文官。刀は腰に差しているが、人を斬ったことなどない。剣を振った記憶など、子ども頃の修練が最後だった。
その堀田が、今──本物の武威に晒されていた。
「堀田殿」
源一郎の声が、静かに響いた。
「俺は、あなたと論を戦わせるつもりはありません。そういうことは苦手でしてな」
源一郎の目が、堀田を射抜いた。
「ただ、一つだけ申し上げておく」
源一郎が、さらに一歩近づいた。その瞬間──堀田は、首に刃が当たったような感覚を覚えた。ひやりとした冷気。鋭い痛み。喉を切り裂かれる恐怖。
「ひっ──!」
堀田は悲鳴を上げて首を押さえた。
だが、血は出ていない。傷もない。源一郎は刀を抜いてすらいない。殺気だけで、斬られたと錯覚させられたのだ。
「盗賊の拠点は、既に突き止めました」
源一郎の声は、氷のように冷たかった。
「浅草の──いえ、これは伏せておきましょうか。今宵、火盗改が御用改めを行います」
「は……」
堀田は首を押さえたまま、呆然と源一郎を見上げた。
「堀田殿にも、ぜひ──お越しいただきたい」
源一郎は言った。
「汚名をそそぐ良い機会となりましょう。火盗改方が音頭を取りますゆえ、御用改めにご参加ください。そして、その場で是非とも働きを見せていただきたい」
「ま、待ってくれ……」
堀田は震える声で言った。その顔は蒼白だ。
「私は……寺社奉行方は、捕物など……」
「できぬと仰るか」
源一郎の目が、再び冷たく光った。
その瞬間──堀田の右腕に、激痛が走った。肘から先が斬り落とされた感覚。骨が断たれる音。腕が落ち、血が噴き出す幻覚。
「ああぁあぁぁっ!」
堀田は右腕を押さえて悲鳴を上げた。だが、腕はある。斬られていない。幻覚。全て幻覚だ。
「いかがされた」
源一郎の声が、空虚に響いた。堀田はがたがたと震え、源一郎を見た。歯の根が合わない。全身が震えている。
「や、やめ……やめてくれ……」
堀田は畳に額を擦りつけた。吟味物調役としての誇りも、評定所から出向してきたエリートとしての矜持も、全て吹き飛んでいた。
「参り、ます……必ず参りますから……」
「よろしい」
源一郎の声が、少しだけ和らいだ。
「今宵、戌の刻。浅草・観音堂前にお集まりください。遅れることのないように」
源一郎は踵を返した。部屋を出る間際、振り返らずに言った。
「下手人を捕らえ、奉納金を取り戻せば──寺社奉行方の面目も、堀田殿のお立場も守られましょう。御老中への報告は、それからでも遅くはありますまい。それでは次の用事がありますので、これにて御免──」
堀田は、額に脂汗を浮かべ、畳に突っ伏したまま動けなかった。源一郎が去った後も、しばらくの間、震えが止まらなかった。
あれは──何だったのか。
刀を抜いてすらいなかった。ただ立っていただけだ。それなのに、首を斬られ、腕を斬られる感覚を味わった。
体の芯が恐怖で震えている──火盗改には化け物がいる。堀田は、そう確信した。
論理も、弁舌も、政治力も──あの男の武威の前では、何の意味も成さない。化け物には人の論理は通じないのだと、敵対するのは得策ではないと──この時、本能的に悟ったのだった。




