第三十三話
「渡辺様──、お客がお見えでございますが……」
廊下を歩いていた源一郎の足が止まった。与力部屋の前で待っていた同心の一人が、困惑した表情で報告してくる。
「客?こんな朝早くに?」
「は、はい。そしてそのお客というのが若い女子でして……日枝神社の宮司の娘御と名乗っております」
源一郎は眉を顰めた。宮司の娘──まさか。
「名は聞いているか」
「はい。千鶴様、と」
その名を聞いた瞬間、源一郎は早歩きで玄関へ向かっていた。
火付盗賊改方の役宅に年若い女子が訪ねてくるなど、尋常なことではない。ましてや神社の宮司の娘ともなれば、周囲の目も気にしなくてはならない。それを押して来たということは……余程の用があるということだろう。
玄関に出ると、そこには確かに千鶴が立っていた。傍らには女中らしき者が介添人として控えている。
千鶴の装いは、以前に見た巫女装束ではなかった。控えめながらも上質な小袖──鼠色地に淡い藤色の草花文様が入った、日枝神社宮司の娘に相応しい品のある装い。髪は控えめに結い上げ、簪も飾り気のないものを一本だけ挿している。清楚な印象──だが、その顔色は青白く、目は泣いていたのだろう赤くなっていた。
「千鶴殿、今日は如何様な──」
「渡辺様……!」
千鶴は源一郎の姿を認めると、はっと息を呑んだ。そして、玄関の敷台前の土間で膝を折り、着物を汚すことも厭わずに深々と頭を下げた。
「な、ぁっ……!」
「どうか、お願いがございますっ……!」
その声は震えていた。必死に、何かを堪えるように。
「お前ら見るなッ!今見たものは全て忘れろ!」
源一郎は周囲を見回し一喝した。門番の槍持ちや、出仕してきた同心たちが遠巻きに様子を窺っていたが──源一郎に一喝されて一斉に顔を引っ込めた。
宮司の娘が火盗改の役宅で土下座する姿など、見世物ではない。しかも与力とはいえ一介の役人である源一郎に対してだ。流石にこの状況を見られて噂が流れたら困る。千鶴にとっても良いことにはならない。
「……まずは中へ。話はそれからにしましょう。……少し失礼致します」
源一郎は直ぐさま土間に降りて千鶴を立ち上がらせた。着物に土埃がついてしまっていた。懐から手拭いを出して土埃を払う。
「か、かたじけなく存じます……」
「構いません。早く、こちらへ」
源一郎は千鶴を詰所の一角にある小部屋へと案内した。対面所として使われている小さな畳敷きの部屋だ。普段は来客や事情聴取に使われるが、今は誰もいない。介添人の女中は廊下で待たせた。
襖を閉め、二人きりになると、源一郎は千鶴の正面に座った。
「……まずは落ち着いてから本日の用向きを話していただきたい」
源一郎が固い口調で言うと千鶴は顔を俯かせた。その肩が小刻みに震えている。
「……千鶴殿。顔をお上げください」
穏やかに言うと、千鶴はゆっくりと顔を上げた。真新しい涙の跡が頬に残っている。以前に見た、舞の稽古の時の凛とした美しさは、今は影を潜めていた。
「……それで、今日はいかがされたのです」
源一郎の問いかけに、千鶴は唇を噛んだ。そして、絞り出すように語り始めた。
「昨夜……神社の奉納品蔵に盗みが入りました」
「……」
「そこで、蔵の番人が……五人、骸となって見つかりました」
千鶴の声が震える。源一郎は黙って聞いていた。既に知っていることだったが、それを悟らせる必要はない。
「奉納金が……千両箱が五つ、盗まれました。御公儀から支払われる祭礼費、将軍様からのご寄進、諸大名からの喜捨……それら全てです……」
「……それは、大変な一大事ですな」
「父は……宮司は、今朝から床に伏しております。盗みが発覚して、骸を見て気を失い……意識が戻っても譫言ばかりを繰り返して……」
話をしている内に千鶴の目から、ホロリホロリと涙が溢れた。懸命に拭うが、次から次へと流れ落ちる。源一郎がウッと胸を詰まらせる……それは男という生き物に対して憐れみを誘い、かつ極大の心的ダメージを負わせる啜り泣きだった。
「こ、このままでは……父は切腹を命じられるかもしれません……いえ、全ての責を負わされ……奉納金を盗んだ張本人とすらされる可能性もあると……禰宜が言っておりました……」
その声は悲痛だった。
源一郎は腕を組み、黙って聞いていた。千鶴の言葉は全て真実だろう。将軍家や幕府、大名の面目を潰した責任は、必ず誰かが取らねばならない。宮司がその矢面に立たされるのは火を見るより明らかだ。
「寺社奉行方と町奉行所に……報せはどうされました」
源一郎が問うた。
「はい。発覚して直ぐに大禰宜と禰宜が……ですが……」
千鶴は言い淀んだ。その様子から、源一郎には何を言おうとしているのか分かった。
「……連中は中々動こうとしなかった」
「っ……」
千鶴は俯いた。図星だったのだろう。
寺社奉行方も南町奉行所も、責任を極力被りたくないのだ。元より警備体制に問題があったことは明白。責任逃れに徹している。
寺社奉行方の言い分はこうだろう──警備の実働は町奉行所の管轄であり我々は監督責任のみ、神社側の警備体制に問題があったのは宮司の責任、そもそも火盗改を排除したのは宮司の判断、と。
対して、南町奉行所方の言い分も想像がつく──神社境内は寺社奉行の管轄であり我々は境内外の警備担当、祭礼警備の指揮系統は寺社奉行方にあった、蔵の管理は神社の内部問題。
そして、分かりやすい責任逃れの方向は宮司に向く──火盗改を追い払ったのは宮司の独断、蔵の番人の配置は神社側の責任、「内部犯行の可能性」を示唆し宮司や神職を疑わせる方向へ誘導、最悪の場合には宮司を「奉納金横領の張本人」に仕立て上げる動きも出かねない。
故に、下手に動けば責任を負ったと見なされるばかりでなく、実際に捜査に動いたとしても下手人が捕まえるに至らなければ無能の誹りは免れられない。両者共に一応は調査する振りをしつつ、あくまで責任は宮司にあるというスタンスを貫き、御老中がどのような『結末を描く』のか待っているのだろう。
故に──動きは鈍く、余計な責任を負わせられないように様子見を決め込んでいる──そう考えれば辻褄は合う。反吐が出る論理だ。
「そこで火付盗賊改方に来られた」
「……はい」
千鶴は小さく頷いた。
「虫の良いお願いだと、分かっております。父が……宮司が渡辺様を追い出したというのに……今更、助けを求めるなど……」
千鶴の声が途切れる。その目には、それでも縋るしかないという切羽詰まった思いが浮かんでいた。
「ですが……他にどこへ行けばよいのか……どなたに縋ればよいのか分かりません。父は寝込み、神官たちは狼狽え……寺社奉行方も町奉行所も何もしてくれない。下手人を捕らえ、奉納金を取り戻さなければ……父が、神社がっ……」
千鶴は再び深く深く頭を下げた。額を畳につかせて。
「それに……」
千鶴は言い淀んだ。何かを迷うように。
「……それに?」
源一郎が促すと、千鶴は顔を上げ、意を決したように口を開いた。
「……おかしな事をと、思われるかもしれません。祭りの数日前のことでございます。神猿様が夢枕に立ち……私はお告げを賜っておりました」
「……」
源一郎の目が細くなった。神猿──日枝神社に棲む、山王大権現の使いとされる猿。その存在は源一郎も知っている。それに当の神猿も言っていた──娘の方に託宣を入れておく、と。
「『火付盗賊改方の鬼切の末裔を神域に戻せ』と」
千鶴の声は震えていた。
「『神域に鬼が入り込んでおる。穢れを祓わねばならぬ』と──そう、仰せになられました」
源一郎は黙って聞いていた。
「私は……何度も父にお伝えしようとしました。ですが、父は聞いてくださらず……私自身もこのような一大事になるとは、夢にも思ってもいませんでした……」
千鶴の目から、また涙がツゥ、と流れ落ちた。
「私は父の言葉の通り……舞に集中するため後回しにし……そして、このようなことに……」
その声には悔恨が滲んでいた。父に伝えられなかった己を責めているのだろう。何故、ちゃんと伝えなかった。何故、軽く考えてしまったのか──。
「あなた様がいてさえくだされば……私がもっと意思を強く持ち……強くお伝えしていればと……そう思わずには……」
「──それは、あなたの責ではありません」
源一郎は静かに、しかし確信を持って言った。千鶴がはっと顔を上げる。
「神猿様のお告げであろうと、人の忠告であろうと、聞かぬ者はどれだけ言い聞かせても理解せぬもの。神霊のお告げであっても、それは結局は、ただの気づきの切っ掛けにしかすぎないのですから」
結局のところ──行動には、その者に責任が付き纏うというだけだ。視野が狭くなりがちな人間に、意見を言う相手が神霊か人かの違いでしかない。アドバイスを聞くか聞かないかは人次第。お告げがあったから必ず聞かなければならないなどという論理も存在しない。より身近に人ではない者たちを感じている源一郎は、そのことをよく知っている。それに……源一郎がいたから、どうなっていたというのは仮定の話でしかない。
しかし──千鶴は唇を噛んだまま。源一郎の言葉は届かず、その目には未だ自責の念が揺らいでいる。
「だから、神猿様からのお告げだからと、そう重責を感じることはない。それは元々あなたが背負うべきものではありませんから」
「ですが……」
「ところで──」
源一郎は千鶴を真っ直ぐに見た。
「神猿様のお告げを聞くことができる──それは、大変に稀有なお力でしょう」
「そ、そんな、畏れ多い」
「もしや……千鶴殿は神猿様の姿を見ることもできるのですか」
千鶴は首をブンブンと横に振った。
「まっ、まさか!お姿を見ることなど叶いません。ただ、時折お声だけが……夢枕に立たれた時に聞こえるのでございます」
そうですか──源一郎は小さく呟いた。声は聞けるが姿は見えない。それでも、神に近しい存在と繋がることができるというのは、巫女として特別な素質があるということなのだろう。
「渡辺様っ、どうかっ……恥を忍んでお願いいたしますっ……!」
源一郎が思案していると、千鶴は再び深く、深く頭を下げた。
「神猿様が火付盗賊改方の『鬼切の末裔』を頼れと仰せになられました。それは……きっと渡辺様のこと……だから……だから私は、ここへ参りました。どうか……どうか、お力をお貸しくださいませっ……!私に出来ることでしたら、何でもいたしますっ。この身を差し出せと仰せでしたら……それでも構いませんっ……!」
その言葉に源一郎は眉を顰めた。
「顔をお上げください」
「……」
「千鶴殿」
源一郎の静かに諌める声に千鶴はゆっくりと顔を上げた。その千鶴の目には覚悟の色がある。何でもする──その言葉に嘘はないのだろう。ただ、それは一時の気の迷いで、それだけ追い詰められているということでもある。
源一郎は溜息をついた。
この目の前の娘は、覚悟を持って来たのだ。女子が一人で、それも神職たちが穢れと蔑む火盗改の役宅に乗り込んでくるなど、並大抵のことではない。父を救いたい、神社を守りたい。その一念で、恥を忍び、周囲から非難されることを承知で覚悟を決めて来たのだろう。だが──。
「随分と失礼なことを仰る」
源一郎はぴしゃりと言った。千鶴がびくりと肩を震わせる。
「え……?」
「身体など求めていません。千鶴殿は俺をどんな畜生だと思っておいでなのか……それとも、それが火付盗賊改方の世評なのですか?」
目頭を揉んだ源一郎は、そう言うと居住まいを正した。そして、千鶴を真っ直ぐに見据える。
「それに──頼まれずとも、俺は最初からこの事件を追っております」
千鶴の目が見開かれた。
「え……」
「あなたのお父上が火盗改を忌み嫌おうと、俺はこの事件を見過ごすつもりはありません」
源一郎の目が、静かに冷たい光を帯びる。
「穢れだの卑しいだのと何と言われようが、それは言う者の勝手。しかし──五人の命が奪われた。罪のない社人が賊の手にかかって死んだ。その下手人を野放しにしたままでは、火付盗賊改方の名が廃ります」
その声には、静かな怒りが籠もっていた。一網打尽を狙うためとは言え、盗みを見逃したことは事実。その事実の中には五人の殺害を見逃したという言い逃れのできない罪が含まれている。源一郎の甘さ──その忸怩たる思いが自身に対する怒りに変わっているのだ。
「あなたが来ずとも、俺は動いていました。それだけはお忘れなきよう。下手人を捕らえ、奉納金を取り戻し、人を殺した罪を償わせる。それが我々の務めです」
千鶴は言葉を失ったように源一郎を見ていた。その目には驚きと、そして──かすかな希望の光が宿り始めている。
「……本当に……本当でございますか……」
「嘘を申してどうします」
源一郎は瞑目し腕を組んだ。
「ただし──」
「はい……」
「あなたには聞きたいことがある。答えられますか」
千鶴は強く頷いた。その目に迷いはない。
「は、はい。問われることは、何でもお答えいたしますっ」
「では──あなたは以前、神社を辞めた元神官、兼嗣のことを話してくれました」
「……はい」
「その男について、もう少し詳しく聞きたいのです。どこへ行ったのか、何をしているのか。どうして神職を辞したのか。どのような性格だったのか。知っていることは全て」
千鶴は一瞬怯んだ様子だったが、意思を固めたように頷いた。
「……わかりました。私の知っていることを全てお話しいたします」
そうして、千鶴は語り始めた。
日枝神社で何があったのか。元神官の兼嗣がどのような人物だったのか。兼嗣と宮司、千鶴らとの人間関係。兼嗣の役割。素行不良と言われる所以。女遊びの実態。そして──神社の内情、力関係。千鶴のその証言には、源一郎をして驚かせる真実が含まれていた。
千鶴は懸命に話した。時に言葉に詰まり、時に恥じ入るように。だが、その声には芯があった。父を救いたい、神社を守りたい。その必死な思いが、彼女の声に現れていた。
源一郎は黙って聞きながら、胸の奥で思った。
──この娘は強い。
巫女として育ち、神に仕える身でありながら、いざという時には泥を被ってでも動く覚悟がある。穢れと忌避している火盗改に頭を下げ、身を差し出すとまで言った。それは弱さではない。追い詰められた者の必死の強さだ。
そして──それだけの覚悟を持った者を、無下にはできない。
源一郎は千鶴の話を聞き終えると、静かに頷いた。
「……分かりました。話は聞きました」
「渡辺様……」
「千鶴殿はもう神社にお戻りなさい。お父上はきっと、あなたのことをお待ちでしょう。落ち着き次第、また話を聞きに行きますから」
「はい……」
「それと」
源一郎は千鶴を真っ直ぐに見た。それから強い口調で言った。
「──身を差し出すなどと、二度と言うな。あなたの身は、あなただけのものだ。誰かに差し出すようなものでは、決してない」
千鶴は目を見開いた。その動揺に揺れる目から──どうしてか涙がまた溢れる。だが、それは先ほどまでの悲痛で、悲嘆の籠もった涙とは違った。どこか、温かいものの滲む涙だった。
「……はい」
「ならばよし。では、帰りはお気をつけて」
源一郎は襖を開けた。すると同心が何人か廊下から顔を出して此方の部屋の様子を伺っていたのが見えた。年若い女子──千鶴のただならぬ様子をずっと気にしていたのだろう。襖を開けた源一郎と目が合うと、同心達は慌てて顔を引っ込めた。
「はぁ……全く……失礼いたしました。おい、新吾!この方を日枝神社参道までお送りしろ!」
「は、はいっ」
それは理由こそ告げないものの、押し込み強盗があり未だ不安がっているだろう千鶴への心遣い。新吾と呼ばれた若い同心の一人が慌てて廊下に出て来て答え──千鶴は再度、源一郎に深く頭を下げた。
「……渡辺様。本当に、ありがとうございます」
「礼を言われるようなことは、まだ何もしておりません」
源一郎は素っ気なく答えた。
「下手人を捕らえてから、またお聞きします」
千鶴は小さく微笑んだ。涙の跡が残る顔に、ほんの少しだけ明るさが戻っている。
「……お待ちしております」
そう言って、千鶴は介添人の女中と共に、同心に付き添われて去っていった。源一郎はその後ろ姿を見送った。そして、一つ息をつく。
──さて、どう始末をつけてくれようか
寺社奉行方と南町奉行所は奉納金の窃盗を防げなかった責任を負わせられることを恐れ、下手人を追うのに尻込みしている。
もし、ここで火盗改方が動けば……源一郎が赤阪廻りから排除されていることや、そもそもが火盗改方がいなかったから起きた事件ではないこと、神域への介入は御老中への命令違反と主張することだろう。
そんな奴らに目に物言わせる──火盗改が旗頭となって御用改めを行う。カードを持っているのは、向こうではなく火盗改方。既に下手人の居場所は把握済みであり、協力すれば奉納金は取り戻せる。
反対に協力を拒めば御老中──ひいては幕府にその評判が知れ渡ることになる。実質的に、これは提案などではなく、脅迫に他ならない。
──協力すれば汚名返上の機会を与える、という名目で両者は火盗改方に特大の借りを作る羽目になるのだ。
連中がどんな顔をするか、見ものだ。売られた喧嘩は買う。受けた屈辱は万倍にして返す──。源一郎の目は爛々としている。
それに──それだけではない。
千鶴の覚悟を無下にはさせない。宮司に思うところがない訳ではないが──彼女の心意気に免じて一端忘れてやろうと源一郎は思った。
故に──五人の社人を殺した。その罪の重さを、下手人どもに思い知らせてやろう。
源一郎は拳を握り締め、そして、再び廊下を歩き始めた。
まずは寺社奉行方だ。堀田という男の、あの冷笑を思い出す。今度は逆の立場だ。どんな顔をするのか──楽しみだ。
源一郎の口元に獰猛な笑みが浮かび……擦れ違った同心一同は訳も分からず背筋を震わせたのだった。




