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鬼切与力つなもり事件帖  作者: ミミック
二章 赤坂山王裏御用
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第三十二話

 山王祭本祭りの翌日──尾行を終え、役宅に戻った源一郎は、役宅にある与力部屋の自席に腰を下ろした。


 朝の光が障子を通して柔らかく差し込んでいる。まだ辰の刻──午前八時前頃だろうか。詰所には人影が少ない。早朝ゆえ、他の与力の大半はまだ出仕もしていなかった。


 机の上には、途中まで書きかけた書類が置かれている。今回の『赤坂山王蔵破り』の中途報告書だ。だが、それは途中まで書かれた所で、紙の真ん中に大きなバツが書かれていた。


 源一郎は机の上に両手を置き、静かに目を閉じた。


 役宅に訪問者があったのは、卯の刻──午前六時を回った頃だった。賊の根城を突き止めた後、白狐の配下に後の見張りを任せ、源一郎自身は報告のため一端役宅に戻り、報告書を書いていたのだ。


 そんな文机に向かう源一郎のもとに、一匹の小猿が姿を現した。朝焼けの中に浮かび上がるその姿は、普通の人間には見えず、しかし、源一郎には見える霊体──神猿からの使者である。その小猿が告げた。


 ──社人が五人殺された。


 その報告を聞いた時、源一郎の胸に鈍い痛みが走った。


 源一郎は見ていたのだ──萬屋の二階から、閉ざされていた裏門を賊が飛び越えて内側から閂を外し、堂々と境内に侵入してゆくのを。闇の中を忍び足で進む人影。奉納金の箱を担ぎ出し、舟に乗せて流す瞬間を。盗みを終え、賊が四方八方散り散りに退散してゆく姿を──。全てを見ていた。


 だが……その者たちが殺される瞬間を源一郎は見ていなかったのだ。萬屋の位置からは蔵の裏手までしか見えず、境内の中の様子は伺えない。報告を受けるまで気づきもしなかった。


 もしも源一郎がもっと近くで警戒していれば、社人は助かったかもしれない。盗賊たちが溜池側の裏道を上っていった時点で飛び出していれば、賊たちに危害が加えられる前に止められたかもしれない。


 ──だが、それは出来なかった。


 平蔵の命令は「見張りに徹しろ」だった。盗賊を捕らえるのではなく、その全貌を掴むこと。潜伏先を突き止め、素性を明らかにすること。それが源一郎に与えられた任務だった。


 社人を救うために飛び出せば、盗賊は逃げ、正体に迫ることはできなかっただろう。源一郎はそれを理解していた。だからこそ、動けなかった。いや──結局はそれも言い訳だ。可能性を考えなかった訳じゃない。どこかで不安に思いながらも、命までは取らない筈だという甘い考えがあったのだ。


 ──その結果、五人の命が失われた。


 源一郎は天井を見上げ。そして、誰にも聞こえないように囁いた。


「……これは俺の甘さのせいだな」


 罪悪感が胸を締め付ける。源一郎は己の無力さを呪っていた。果たして自分の選択は正しかったのかと自問自答を繰り返す。外から聞こえる雀の声が、妙に遠く感じられた。机の上にある筆と硯が視界に入る。墨の匂いが微かに漂っていた。


 ……考えても仕方がない──源一郎は心の中で、そう言い聞かせた。


 犠牲者があった。それは変わらない。いくら悔やんでも、時は戻らない。ならば、今できることをするしかない。それは確かなことだ。盗賊を捕らえ、奉納金を取り戻し、人を殺した下手人を裁きの場に引きずり出す。


 それが、今の源一郎にできる唯一のこと。


 源一郎は立ち上がった。まず、事の子細を平蔵に報告しなければならない──。


 §


 平蔵は既に執務室代わりの書院にいた。


 火付盗賊改方の長官である平蔵は、早起きで知られている。朝餉を終えた後なのだろう。茶を啜りながら、書類に目を通していた。その手元には江戸の地図が広げられている。


「渡辺です。昨夜の件についてご報告が」

「入れ」


 源一郎が入室すると、平蔵は顔を上げた。その目は鋭い。一目見ただけで、源一郎の表情から何かを読み取ったようだった。


「首尾はどうだった」

「はっ、やはり赤坂山王、日枝神社の蔵に盗みが入り、奉納金が狙われました。蔵破りの結果、五人の犠牲者が出ています。それと関連は不明ですが、同時刻に麹町で小火があり祭りの山車が焼けています。恐らくそちらは夜警の撹乱のためかと」


 平蔵は瞑目し、深く長い溜息を吐いた。予想していたというより、覚悟していたという面持ちだった。


「ふむ……やはり撹乱が起こったか。小火の件は俺も昨夜の内に把握している。定火消が言うには不審火の可能性が高いらしい。……犠牲となったのは日枝神社の社人か?」


 定火消しとは、火災が起こった際の火消し役となる幕府直轄の常設組織であり、旗本や御家人により構成された役方のことだ。


「はい。二人が弓矢で頭を射貫かれ、一人は絞殺、一人は頚部を捻られ、一人は喉を刃物で一突きだそうです」


 源一郎は淡々と事実だけを報告した。その素人とは思えない殺し方に平蔵の眉が僅かに動く。


「……そうか。源一郎。犠牲者が出たこと、お前が深く気に病むことはない。全て俺の指示だということを忘れるな」

「いえ……この結果は俺の甘さでもあります」

「……そうか。そのまま報告を続けろ」


 平蔵の目に源一郎を慮る色が見えた。しかし、源一郎が事態を冷静に受け止めていると見るや、フ、と小さく鼻を鳴らして静かに話の続きを促した。


「奉納品蔵から盗まれたのは千両箱が五つ分──他に盗み出された物があるかどうかは、現地を確認しないことにははっきりしたことは言えません」


 千両箱が五つということは少なくとも四千両はあるということ。莫大な奉納金。現代換算で言えば、簡単に1両を十万だと仮定すれば四億になる。その額に平蔵の目が細く鋭くなった。


「盗賊の行き先は」

「はい。溜池で舟に千両箱を乗せた後、下手人達は船頭、他数名を残し、散り散りに逃げ離散。しかし、全員の逃亡先は把握済みです。千両箱自体が運ばれたのも浅草の奥、山谷堀にある破れ寺と分かっています。赤坂豊川稲荷の白狐の配下に尾行を依頼し特定しました」


 源一郎は小声で言った。平蔵は源一郎が「見える」ことを知っている。だが、あまり大っぴらに言えることでもない。


「ほう……豊川稲荷といえば、大岡越前守忠相公が篤く信仰したという、あの……やはり、霊験あらたかな寺社にはいるものなのだなぁ。……俺も詣でた方がいいか?」

「それは……ご随意に」


 ふむ、と頷くと平蔵は湯飲み茶碗を置いた。軽口を叩いてはいるが、その眼光は鋭いままだ。


「山谷堀と言えば──あそこら一帯は明和の大火で焼けて以来、檀家もなく再建されないまま放置された破れ寺がまだ幾つか残っている筈だな」

「はい」


 源一郎は頷いた。


 明和九年──1772年の大火は、江戸の歴史に残る大災害だったといわれている。目黒行人坂の大円寺から出た火が、強風に煽られて江戸中を焼き尽くした。死者は一万五千人を超え、多くの寺社仏閣も焼失した。


 あれから十数年。再建された寺も多いが、檀家の整理された小さな寺は存在意義を失い、そのまま朽ち果てていったものも少なくない。平蔵の言うとおり、今回の山谷堀の破れ寺もその一つと考えられた。


「しかし、そこが盗賊たちの『本拠点』であるのか、確証は得られていません。賊一党を一網打尽にするつもりでしたが、手際を見る限り相当に手慣れています。実態が大きな組織であるとするならば、破れ寺が本拠点であると確定してしまうには違和感が残ります」

「確かに。分かれて逃げたという点では明らかな計画性と常習性が見て取れる。どのような者たちの集まりなのか気になるところだな……」


 厄介なことだ、と平蔵の口から呟きが漏れる。


「その破れ寺に、お前が気にしていた元神官とやらは出入りしていたのか?」

「いえ……正直なところ、まだ元神官の行方は掴めていません。ただ、山谷堀の辺りで見かけられていることもあり……黒装束の者たちの一員である可能性は否定できないかと」

「ふむ」


 それに、と源一郎は続ける──神社の蔵破りを行うには、その神社の内情を深く知っていなければ実行に移すことなど不可能。特に番人の動きや、宿直の人数、金がいつ運ばれるか、警護の配置状況を広く把握している必要がある、と。


 そして──そうした情報を持つ者は必然的に限られている。元神官であり、宮司の身内でもあった兼嗣という男のように──。


「ならば、散り散りに逃げた下手人の行方は」

「一人は両国、一人は吉原、一人は小石川、最後の一人は神田──残りは山谷堀にまとまっています」

「バラバラだな」

「はい。それぞれ逃げ込んだ先については把握していますが、その素性と繋がりについてはまだしっかりとした確認が取れていません」


 平蔵は顎に手をやり、しばし思案する。そして、鋭く切り出した。


「よし──。ならば先ずは奉納金を取り戻す所からだ。他の場所に分散して移される前に早急に押さえなくてはならん。問題は、この散り散りに逃げた四人が今後、賊に合流するかわからないことだが……合流しない場合、個別に捕まえる必要がある。一端、後回しにするしかあるまい」

「はっ」

「あとはどうやって奉納金を取り戻すかだが……恐らく、安全な場所に再移送しようとするのは……人目の減る今夜──。それまで御用改めに備えろ。逃げられる前に一斉に叩くぞ」

「はっ。ただ、それについて私に少々考えがございます──」

「うん?何だ、申してみろ」


 源一郎は御用改めの前に訪ねたい場所があると言った。


「──此度の一件、実際に山王祭の警備を取りしきっていたのは寺社奉行方と南町奉行所です」

「ふむ」


 平蔵は顎を撫でた。続きを話せと促す。


「宮司が寺社奉行を通して御老中へと掛け合い、火盗改は赤坂廻りの任から外されておりました」


 源一郎の声には、微かな苦みが滲んでいる。


 あの時のことは、今も鮮明に覚えている。宮司の冷たい目。神官たちの蔑むような視線。そして、寺社奉行方の堀田と南町奉行所の木村が浮かべていた冷たい笑み。このような重大事件が起こってしまい宮司は哀れに思うが……未だに思い出すだけで腹が立つ。


 「火盗改のような者が神域に立ち入ること自体、穢れではないのか──。あの言葉、訂正させないまま解決とするには火付盗賊改方の矜持が許しませぬ」


 あの時の言葉が今も耳に残っている。源一郎が気炎を吐き──平蔵は呆気に取られた後、心底面白そうに声をあげて笑った。平蔵が目を細める。


「なんだ、冷静な奴と思っていたが……源一郎、お前。存外に、熱くなりやすい男だのう」


 普段の源一郎は、怒りの感情を表に出さない。温厚で、物腰が柔らかく、部下の面倒見も悪くない。火盗改の与力としては珍しいほど人当たりの良い男だった。


 ──だが、今は違った。


 腹の奥底に、静かに青く燃える怒りが潜んでいる。燃料があれば直ぐにでも燃え上がりそうな──苛烈さを感じさせる高熱の炎。それが本当に矜持なのか血気なのか、はたまた子供じみた意地なのかは、この際どうでもいい──。大事なのは、この男もまた、やはり火付盗賊改方の人間なのだということだ。


「寺社奉行方と町奉行所は警備を怠たりました。盗賊の侵入を許し、社人を死なせた。それには……我々だけでなく連中にも責任の一端があります」

「ふむ……それで、どうするつもりだ」


 平蔵が問う。その目は鋭く、源一郎を見据えている。


 試されている──源一郎はそう思った。部下がどう動くか、見定めようとしている。


「──寺社奉行方と南町奉行所方にも御用改めに参加させてはどうかと」


 源一郎は言い切った。


「失態を犯した汚名をそそぐ機会を我々が与え、火付盗賊改方を旗頭として連中を働かせてやるというのはいかがでしょうか」


 平蔵は少し考え込んだ。茶碗を手に取り、一口啜る。そして、口元に笑みを浮かべ──喉を鳴らしてクツクツと笑った。


「……面白い。やってみろ。それに、火盗改だけでさっさと解決してしまうと、やっかみも増えそうだしな。ここで一つ、特大の貸しを作っておくのも悪くあるまい」

「はい」

「だが──奴らが素直に従うとは思えんぞ。寺社奉行方も南町奉行所も、火盗改とは仲が悪い。縄張り意識の強い連中だ」

「承知しております」


 源一郎は頷いた。


「ですから、出て来たくなるよう、少々……強引に参ろうかと」


 源一郎の平坦な声に、平蔵の目が愉快そうに光った。


 この男は、こういう話が好きなのだ。型破りで、豪胆で、常識に囚われない。だからこそ、「鬼平」と呼ばれ、恐れられ、そして部下たちに慕われている。


「ならば思うようにやれ。行ってこい」

「はっ!」


 源一郎は一礼し、書院を出た。


 廊下を歩きながら、源一郎は拳を握り締める。日枝神社で受けた屈辱。「穢れ」と呼ばれ、赤阪廻りを外された恥辱。売られた喧嘩は必ず買う。受けた屈辱は万倍にして返してやる。


 そう……密かに青い熱を滾らせて意気込んでいる時に、今度は別方向から源一郎を呼ぶ声がした──。


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