第三十一話
その夜、丑の刻──午前二時。
境内は静まり返っていた。
賑わいは後の祭り。亥の刻──午後十一時頃には大分収まり、今は人も疎ら。露店は片付けられて見世物小屋は閉じ、日枝神社の随神門も閉ざされる。町人たちも多くは家路についた。
月は雲に隠れ、闇が濃くなる。灯された提灯の火も絶え、境内は漆黒の闇に沈んでいた。虫の声だけが、静寂を破っている。
──奉納品蔵の前に在るのは、番人が三人。
皆、疲れ切った様子だった。見張り番は昼夜で交替はあるものの、祭りの期間中はどこもかしこも人手不足のため、休みなしの連続勤務を強いられていた。それに加え、昼間は参拝者たちの対応の手伝いに追われ、夜は見張り番──疲労が蓄積していた。ここ数日ろくに眠れていない。今夜も夜通しの番になる。
二人は蔵に背を預けて座り込み、もう一人は槍を杖にして立っているが瞼が重そうだ。
──何も起きない。いつもと変わらない夜。
そう思っていた。
祭りは終わった。あれほどの警備をしたのだ。盗賊など、入り込める隙などどこにもなかったはずだ。町方の役人も日枝神社周辺の夜回りをしてくれている。それに明日になれば奉納金は移送される。この辛さとも、もう暫くでオサラバ。今夜だけ乗り越えればいい。
番人の一人が、大きな欠伸をした。
「なぁ……交代で少し眠らないか。このまま夜明けまでは、もたねぇよ。明るくなってからも手伝いに駆り出されるんだろ」
「あぁ、俺も神輿のしまい方に行かなきゃなんねぇ」
「俺は参道の清掃だ」
「そうだな……お前らが先に眠れ。俺が見張っておく」
「すまねぇ。一刻したら代わるから」
番人の二人が、蔵にもたれて目を閉じた。すぐに寝息が聞こえ始める。残った一人も次第に瞼が重くなってきた。槍に体重を預け、意識がぼんやりとしてくる。
大丈夫だ。どうせ今夜も何も起きない。起きる訳ない。──そう思って、意識を落としかけたその時だった。
──カンカンカン……!
遠くから、半鐘の音が聞こえてきた。
見張りの番人は、はっと目を覚ました。浅く眠っていた二人も慌てて起き上がる。
「な、なんだぁ」
「お、おいおい……火事か?」
「どこだ……?ちょっと見てきてくれ」
一人を残して二人が蔵の前から離れ、神仏習合の特性──火の見櫓代わりの鐘楼まで移動する。音のする方角を見た。西の方角。麹町だろうか。夜空がうっすらと赤く染まっているように見える。
──カンカンカン……!
半鐘の音が、遠く、夜の闇に響き続ける。火事は江戸の華とも言われるが、それでも火の粉が飛んでくれば一大事だ。番人たちの意識は否応なしにそちらへ向いた。
「こっちまで来ねぇだろうな……」
「風向きは……大丈夫そうだが……」
蔵の前に残った一人も火事の方角が気になって仕方がない。二人の背中を見ながらそわそわと落ち着かない様子で立っていた。
二人が夜空を見上げ、火事の様子を窺っていた、その隙に──。
影が動く。溜池側の裏手から音もなく何人かの人影が境内に侵入してきた。
闇に紛れる黒に近い濃紺の装束を身に纏い、布で鼻口を覆っている。足音一つ立てない。まるで闇に溶け込むように、滑るように移動する。その動きは明らかに手慣れた者のそれだった。
蔵の前に残っていた番人が、ふと何者かの気配を感じた気がした。振り返ろうとした、その瞬間──。
「──」
声を上げる間もなく、番人の頭に飛来した矢が深々と突き立った。瞬間的に意識を断絶させ、番人は音もなく崩れ落ちた。
境内の端にいた二人の番人も、まだ火事の方角を見ている。半鐘の音に気を取られ、背後の気配に気づかない。黒装束の者たちが、音もなく背後に忍び寄った。
二人目が不意に背後から口を塞がれ、同時に太い腕で首を絞め上げられた。足が宙に浮く。藻掻き苦しむ表情。涙を浮かべたまま息の根を止められた──。
最後の三人目は起きた異変に気づいた。同僚が黒装束の巨漢に持ち上げられているのを見、直ぐさま声を上げようとした。だが──それよりも早く、月の光を反射した暗刃が喉を貫いた。そして、喉を貫かれたまま口を塞がれる。かすかな呻き声すら漏らすことなく、膝から崩れ落ちた。
三人の番人は声を上げることもできずに殺された。──だが、厄災はそれだけでは終わらなかった。
──社務所の戸がガラリと開く。
半鐘の音を聞きつけ、宿直の神職が二人、様子を見に中から出てきたのだ。白衣姿の権禰宜と、その下で働く若い出仕。疲労の色濃い、寝ぼけ眼を擦りながら夜空を見上げる。
「火事か……?どのあたりだ」
「西の方角のようですね……麹町あたりでしょうか」
「念のため鐘楼まで行って確認しておくか。こっちまで火の手が来たら大変だ」
二人は火事の方角に気を取られていた。闇の境内で何が起きているかなど知る由もない。闇の中を頼りない灯りと共に歩む。
──その背後から、黒い影が音もなく迫った。
権禰宜が、ふと背筋に寒気を感じた。振り返ろうとした瞬間──風切り音が聞こえ、頭部に衝撃が走った。目が霞み、手足が唐突に不随意運動を起こす。力が入らない。口を開こうとするとも、何か言葉を発する前に意識は闇に沈んでいく。
灯りを持ち先導していた若い出仕が背後で崩れ落ちるような物音に気づき、振り返った。そこには地面に倒れ踞る、矢が頭部に刺さった先達の姿──。
「ひっ──」
驚き、悲鳴をあげようとする──だが、その時には既に黒装束の大男が背後に忍び寄っていた。
声をあげようとした出仕の口を大きな手が塞ぐ。そのままギリギリと可動範囲を超えて無理矢理に回す──。鈍い、骨が砕ける音。出仕はそのままうつ伏せに倒れ、動かなくなった。
黒装束の一人が倒れた二人の首筋に順に手を当てて確認する。
「……」
──そして、境内に人の気配がいなくなったと確認し、黒装束の一人が何か合図をすると、新たに影から現れた小柄な黒装束の者が素早く蔵へと向かった。
蔵に掛けられた錠前を外し始める。黒装束の一人が懐から出した鍵──『親鍵の写し』。しかし、それを使うことなく、意地とばかりに態々特殊な道具を使い錠前を開ける。
──カチリ。錠前が外れる音。蔵の扉が開いた。江戸で評判の錠前師が作った頑丈な錠前も、その者の前では何の意味を成さずに無力だった。
黒装束の者たちが三人の番人と二人の神職の死体を蔵の中へと引きずり込む。僅かに溢れてしまった血溜まりには砂をかけ、痕跡を隠す。
そして、中に侵入した黒装束の者たちは、中から重そうな箱──千両箱を次々と外へと運び出していった。それから分担しながら溜池に待たせた舟へと積み込む。静かに、素早く、確実に。全ての作業がほんの僅かな時間で終わった。
最後に──小柄な黒装束の者が錠前を再びかけた。何事もなかったかのように。
黒装束の者たちは来た時と同じように音もなく姿を消した。後には、しんと静まり返った境内だけが残される。蔵の前には誰もいない。まるで、番人など最初からいなかったかのように。
遠くの半鐘の音もすぐに止んだ。江戸の城下町に静寂が戻る──。火事は小火で済んだのか、あるいは……最初から、市中を廻る夜警の注意を逸らすためだけの火付けだったのか。その真実を知るのは、黒装束の者たちだけであろう──。
§
翌朝──卯の刻、午前五時。
社に勤める禰宜の一人が、境内に設けられた社家から出仕し、蔵の前を通りかかった。朝拝の時間までに供物の準備をしなければならないのだ。だが、ふと違和感が過る──蔵の前に誰もいない。
「ん、おかしいな……」
番人たちの姿が見えない。交替の時刻はまだの筈だ。どこかで休んでいるのだろうか。それとも厠にでも行っているのか。いや、三人で──?
禰宜は周囲を見回した。やはりいない。しかし、蔵の錠前はしっかりとかかっている。異常はないようだ。
「まったく、どこへ行ったんだ。気が緩んでいるぞ……」
禰宜は番人たちを探して境内を歩き回った。だが、どこにも姿がない。社務所にも、厠にも、休息所にもいない。三人とも忽然と消えていた。
不審に思った禰宜は、他の権禰宜や出仕の者たちにも声をかけた。
「蔵の番を見なかったか?」
「いえ、見ていませんが……」
「おかしいな。蔵の前に誰もいないんだ。三人とも」
「そういえば昨夜の宿直の者の姿もないのです。どこかで見ていませんか?」
「いいや、見てないな……」
神職たちが集まってきた。皆、首を傾げている。
「そういえはま夜中に何か聞こえなかったか?」
「遠くの方で半鐘が鳴っていたようですね。直ぐに鳴り止んだようですが」
「……もしかしたら火事の具合でも聞きに行ったのでは?」
「三人……いや五人揃ってか?馬鹿な。蔵の番も宿直の引き継ぎもほったらかしにするわけがない」
不安が広がっていく。やがて、一人の権禰宜が言った。
「……蔵の中は本当に無事なのでしょうか?」
そんな馬鹿な話があるか──しかし、嫌な予感が神職たちの間に走る。直ぐさま宮司が呼ばれ、鍵を持って蔵の前に来た。
「全く……何事だ。朝から騒々しい」
「昨夜の宿直と番人の姿が見えないのです。五人とも。念のために蔵の中を確認させてください」
宮司は眉をひそめた。宿直と番人がいない?五人揃って?そんなことがあるものか。だが、確かに蔵の前には誰も立っていない。錠前は確かにかかっているが──。
宮司は鍵を取り出し、錠前を外した。重い扉が音を立てて開いてゆく──。中は薄暗い。朝の光が差し込み、蔵の奥を照らし出した。
──そこには。
三人の番人と、二人の神職が横たわっていた。
虚ろな表情の者、呆気に取られた表情の者、苦悶の表情の者──既に絶命している。流れ出した血と糞尿の、すえた臭いがした。
「ひっ……!」
神職の一人が悲鳴を上げた。宮司は動揺を堪えきれぬ眼差しで蔵の中を見回した。
──大事な物が見当たらなかった。
蔵の中は荒らされ、物色した形跡があった。そして、奉納金の箱があったはずの場所には何もない。保管されていた千両箱が一つ残らず消えていた。ただ、ポカリと空いた空間だけが、そこに何かがあったことを示している。
「馬鹿な……」
宮司は呆然と呟いた。
奉納金──幕府からの祭礼費。将軍家からの寄進。老中、若年寄、各大名……多くの者からの寄進。その全てが、消えていた。
四千五百両──。いや、金額の問題ではない。
奉納金が盗まれたということは──将軍家の権威に泥を塗ったということだ。幕府を愚弄したということだ。喜捨した大名の面目を潰したということだ。これは単なる窃盗事件ではない。幕府への反逆にも等しい大罪。
宮司は膝から崩れ落ちそうになった。その時──。
「ち、父上……」
背後から、声がした。振り返ると、騒ぎを聞きつけたのだろう──そこには千鶴が立っていた。
昨日の祭礼装束ではなく、普段の白衣に緋袴。だが、その顔には、いつもの穏やかさがなかった。蒼白な顔。震える唇。そして──何かを堪えているような、涙を浮かべた苦しげな表情。
「ち、千鶴……来てはならん。ここは穢れで満ちている」
「父上……お話ししなければならないことがございます」
千鶴の声は、震えていた。
「……今はそれどころではないのだ……後にしてくれ」
「いいえっ……!今でなければ……!」
千鶴は、フラリと覚束ない足取りで、しかし決意を込めて一歩前に出た。
「──実は……神猿様より、お告げがあったのです……」
千鶴の言葉に宮司の体が強張った。
「御使い様、から……?」
神猿──日枝神社に棲む、山王大権現の使いとされる猿。その存在は宮司も知っている。誰にも視えぬその存在は、この赤坂日枝神社を影ながらに見守って下さっている。よく知られた話だ。
だが、神の御使いである神猿が人間に言葉を告げるなど、滅多にあることではない。長く務めている宮司自身とて、御使いの声を聞いたことなど一度たりともなかった。
「何と……仰られたのだ」
宮司の声は掠れていた。
千鶴は……震えながら目を伏せた。
「『火付盗賊改方、鬼切の末裔を神域に戻せ』と」
「……」
「『神域に鬼が入り込んでおる。穢れを祓わねばならぬ』と」
宮司の顔から、血の気が引いていった。
「っ、ぅ……ぁ……そ、それは……いつのことだ」
「……祭りの、三日ほど前……でございます」
「な……なぜっ……なぜだっ、なぜすぐに言わなかったっ……!」
怒声をあげた宮司の声は震えていた。
千鶴がバッと顔を上げる。その目からは大粒の涙がホロホロと零れ落ち光っていた。
「何度も申し上げようといたしました……!」
千鶴の声は悲痛だった。
「神猿様が夢枕に立たれた後の数日前から……何度も父上にお伝えしようとしていました……!直前の、祭りの朝も──ですが、父上はお忙しく……」
そして思い出した──。ここ数日の千鶴の様子を。惑い、不安げな目。祭りの朝にも。神楽殿に向かう前、千鶴が何か言おうとしていたのを。だが、宮司は聞く耳を持たなかった。「後にしろ」「今は忙しい」「舞に集中しろ」と、千鶴にそう言って──。宮司は祭りの成功のことしか頭になかった。娘の言葉に耳を傾けることなく、集中しろと遮ってしまったのだ。
「それに……」
千鶴は、言葉を切った。
「それに、何だ」
「父上は……火付盗賊改のお方を追い出されたばかりでした。神猿様のお告げを伝えても……私が疲れている、哀れに思っているだけと、聞いていただけないのではないかと……」
「っ……!」
宮司は言葉を失った。
千鶴の言う通りだった。
大祭を直前に控え……あの時、宮司は火盗改を追い出したことを心底得意気に思っていた。神域から穢れを払ったと自己満足していた。
そんな時に、「火盗改を戻せ」などと言われても──。何だかんだと理由を付けて行動を起こすことはなかっただろう。
神猿のお告げであっても、千鶴が大役を前に不安になっているだけと、自身の判断が誤りであったと諌めようとしているのかと……逆に叱り、渇を入れたかもしれない。
それに寺社奉行を通して御老中に嘆願までしたのだ。何と申し開きすればよいのか……判断が間違っていたと?お告げがあったからと?不安になったからと?──大祭の祭主として一度下した判断を覆すことなど今更できはしなかった。
「父上……申し訳ありません……」
千鶴の声が、震えていた。
「私が……もっと強くお伝えしていれば……まさか……こんな……」
「……違う……お前のせいではない……」
宮司は首を振り、蔵の中に倒れた者たちを見た。火盗改の若い与力が言っていたことを思い出してしまう。
『人の職分に口出しすると碌なことにならんぞ』
山王大権現に仕える神猿も警告していたという。
『神域に鬼が入り込んでおる。穢れを祓わねばならぬ』
皆、知らせてくれていた。だが、宮司は聞かなかった。江戸中に蔓延る凶悪な下手人を追い、その数を減らすことに特化した役方──火付盗賊改方。その悪に対する嗅覚は並ではない。彼方を神域から追い出し、娘の声にも耳を傾けず慢心し、自分の判断は全て正しいと自惚れていた。その結果が──これだ。
「どうして……どうしてこんなことに……」
宮司は膝から崩れ落ちた。黒い糞尿混じりの血溜まりの傍に、力なく座り込む。白い装束が、不浄で穢れていく。だが、そんなことはもう、どうでもよかった。
この失態。誰が責任を取るのか──宮司自身だ。
千鶴が宮司の傍に跪いた。昨日、あれほど美しく舞った娘。神に仕える巫女として、誇り高く生きてきた娘。その娘の努力を自分の愚かな選択で台無しにしてしまった。
「父上……」
「千鶴……お前は……悪くない。何も……悪くないのだ……」
宮司は、娘の顔を見た。千鶴の目から涙が零れ落ちた。
「父上……」
幕府は激怒するだろう。将軍家の面目が潰された。あの口先ばかりの寺社奉行方も、責任を問われまいとして宮司に全ての責任を押し付けようとするだろう。南町奉行も何だかんだと理由を付けて警備に問題はなかったと言葉を曲げることはないだろう。
責任が問われれば首が幾つ跳ぶかもわからない……それほどの重大な失態──。全ての罪を被り、贄となるのは誰なのか──そんなものは決まりきっている。宮司は震える声で呟いた。
「あの者を追い出していなければ……このような事態にはならなかったのか……」
神職たちの声が、遠くで聞こえた。だが、宮司にはもう、何も反応する気力はなかった。ただ、絶望だけが胸を満たしていた。目の前が暗くなっていく。
祭りは成功したはずだった。将軍のお言葉も賜った。千鶴の舞も見事だった。
──だが、全ては幻だった。
盗賊は警戒の緩む、祭りの後を狙っていたのだ。警備の緊張が解け、皆が疲れ果て、油断した、その瞬間を──。
あの男の言葉が、何度も何度も、頭の中で繰り返される。間違っていたのは、自分だった。
宮司は両手で顔を覆った。
「ぅ、っ……くっ……」
後悔の涙が──止めどなく指の間から零れ落ちた。




