第三十話
巳の刻──午前十時、神幸祭の行列が始まった。
日枝神社の随神門が開かれ、壮麗な行列が出発する。
先頭を行くのは、先導の神職たち。斎服に烏帽子という正装で、一言も発さず、粛々と歩む。足並みは揃い、まるで一つの生き物のように整然と進んでいく。
その後に合流し続くのは、諌鼓鶏の山車。大伝馬町が奉納する一番山車である。諌鼓鶏とは、天下泰平の世に鳴らされることのない諌めの太鼓に鶏が巣くうという、平和を象徴した古事。その吹貫が風にはためき、行列の先触れを務めていた。
続いて、猿田彦大神の装束を纏った者が現れる。天狗のような高い鼻の面をつけ、長い棒を持ち、道を清める役目を担う。猿田彦は天孫降臨の際に道案内を務めた神であり、その姿は行列を先導するに相応しいものだ。
その後ろには大真榊。神域の清浄さを示す大きな榊が、担ぎ手たちに支えられて進む。青々とした葉が陽光を受けて輝き、神聖な空気を漂わせていた。
沿道の町人たちは、行列が過るのを静かに待った。
商家の者は店先で膝をつき、頭を垂れる。通りがかりの人々も皆足を止め、同じように行列を見送る。子供たちでさえ、親の袖を握りしめて静かにしていた。
これは神の道行きである。騒ぎ囃し立てるものではないのだと、皆が知っていた。
──やがて、神輿が姿を現した。
三基の神輿が、白装束の担ぎ手たちの肩に乗って、ゆっくりと神門を出てくる。
担ぎ手たちは、揃いの白装束に身を包んでいた。祭りの前には精進潔斎を行い、肉や魚を断ち、身を清めてきた者たちである。覆面──彼らは口を紙で隠し、声を発しない。ただ静かに、一歩一歩、神輿を運んでいく。
神輿が通り過ぎる時、沿道の人々はさらに深く頭を下げた。
神輿は神の乗り物。未来よりも信仰心の篤かった時代──神輿の前では誰もが敬虔な気持ちになった。ある者は涙を流し、ある者は手を合わせて祈り、ある者はただ静かに頭を垂れていた。それがいつか廃れてしまう感覚なのだとしても──。彼らにとっては生活の一部。
その様子を見て、誇りと喜びを感じながら、宮司は神輿のすぐ前を歩いていた。
宮司としての正装を身に纏い、厳かな表情で歩む。足元の小石を避け、一歩一歩、地を踏みしめ確かな足取りで。行列の規模を考えれば、江戸城に着くまでに数刻はかかるだろう。
だが、宮司にとって、その道のりは何の苦にもならなかった。
§
神輿渡御の後に続くのは、各町から出された山車行列であった。
その数、実に四十五番。江戸中の氏子町が競い合って資金を注ぎ込み、準備してきた山車が牛に引かれながら列を成す。
南伝馬町の幣猿の吹貫。日枝神社の神使である猿を象ったであろう意匠が、陽光を受けて輝く。
麹町十二丁分からは傘鉾が六本。女猿、太鼓打ち人形、神功皇后、馬乗り人形、八幡太郎、鐘馗──それぞれに趣向を凝らした人形が載せられている。
桶町の松に羽衣漁夫の山車は、天女の伝説を題材にしたもの。白い衣を纏った艶やかな人形が、今にも天に舞い上がりそうに見えた。
本銀町四丁分からは弁財天の山車。琵琶を抱えた弁財天の姿が優美である。
品川町からは春日龍神の山車。能の演目である春日龍神を題材とした人形で、荒ぶる神の姿が表現されていた。
瀬戸物町の静御前の山車は、義経を慕い白拍子を舞う姿を模したもの。物悲しい表情の人形が見る者の心を打つ。
室町三丁分からは加茂能人形の山車。こちらも能の演目を題材にした人形が厳かな雰囲気を漂わせていた。
どの山車も豪華絢爛で町人たちの誇りと心意気が込められていた──。
そして、その山車行列の後には附祭が続く。
これは各町が趣向を凝らした踊りや出し物、曳き物の行列である。神幸の厳粛さとは打って変わって、こちらは賑やかな代物だった。
揃いの衣装を纏った踊り手たちが、囃子に合わせて踊りながら進む。笛や太鼓の音色が響き、華やかな掛け声が飛び交う。
曳き物には様々な趣向が凝らされていた。張り子の鯨、巨大な鯛、作り物の船──町人たちの遊び心と技が光る出し物の数々。
附祭が通り過ぎる時、沿道の空気は一変した。先ほどまでの厳粛さは消え、江戸っ子たちの威勢のいい声が飛び交う。
「来たぞ、来たぞ!」
「おお、見事じゃねぇか!」
「今年の踊りは気合が入ってるな!」
「あの鯨を見ろ!でっかいなぁ!」
町内同士の意地の張り合いも、祭りの醍醐味。江戸っ子たちは自分の町内の出し物を誇りに思い、他の町内に負けまいと競い合うのだ。
子供たちは親の肩車に乗り、目を輝かせて曳き物を指差す。
「お父っつぁん、あれ見て!鯨だよ、鯨!本物はあんなに大きいの!?」
「さぁ、どうだろなぁ。お父っつぁんも見たことがねぇよ。でも、きっと立派なのさ。あの張り子のようによぉ」
「僕も大きくなったら、あれを引きたい!」
「おう、大きくなったらなぁ」
物売りが人混みを縫って飴や団子を売り歩き、その声が祭りの賑わいに彩りを添えていた。
「飴ぇ、飴ぇ、山王様の飴はいらんかね~」
「団子ぉ、団子ぉ、みたらし団子はいかがですか~!」
これが江戸の祭りである。神幸の厳粛さと、附祭の華やかさ。天下人である将軍家と、江戸の庶民。
山王祭とは、その両方を取り込んだ天下祭の名にふさわしい壮大な祭りだった。
§
午の刻──正午になり、神幸の行列は江戸城内に入った。
大手門をくぐる時、宮司は身が引き締まる思いだった。
江戸城。天下人の居城。徳川将軍家の本拠地。この城内に足を踏み入れることを許される者は限られている。まして、神輿と山車を入れることを許されるのは、山王祭と神田祭だけ。
まさに天下祭と呼ばれるにふさわしい栄誉である。
城内は、外の賑わいとは打って変わって静かだった。
白砂が敷き詰められた庭園、整然と並ぶ松の木、威厳ある石垣。全てが秩序立っており、一点の乱れもない。警護の武士たちが、行列を厳しい目で見守っている。
行列は粛々と進み、やがて上覧所の前に着いた。
神輿が据えられ、神職たちが整列する。宮司は最前列に立ち、祝詞を奏上する準備を整えた。心臓が高鳴っているのが分かる。この瞬間のために、二年間の精進があった。
高い櫓の上。そこには将軍家斉の姿があった。──いや、姿ははっきりとは見えぬ。櫓の窓の向こうに、その存在を感じるだけだ。だが、確かにそこにおわす。天下人が、山王祭を上覧されている。
将軍の周りには、老中、若年寄、大目付といった幕閣の重臣たちが控えているのだろう。彼らの視線も神輿や山車、宮司へと注がれていた。
宮司は深く頭を下げ、祝詞を奏上し始めた。
「──掛けまくも畏き将軍家の前に、謹みて申す。皇御孫命の敷きます国と定め奉りて、下つ磐根に宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて、皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて、天の御蔭日の御蔭と隠り坐して、天下を治めくにひらきたまふ、天日継ぎ高御座の御業を見そなはし坐す──」
声は静かに、しかし厳かに上覧所に響いた。
一言一句、間違いなく。抑揚をつけ、声を張り上げ、そして静かに。祝詞の奏上は、宮司としての最も重要な務めの一つだ。祝詞が終わり、宮司は再び深く頭を下げた。額が地面に触れるほど深く。
しばしの沈黙。
将軍の御言葉があったのだろう。側近が伝達役として櫓より降りて前に出る。
「上様より、お言葉を賜る」
側近が恭しく告げた。
「『今年の祭りも見事である。江戸の鎮守たる山王大権現に深く感謝し、日枝神社の繁栄を祝す』とのこと」
宮司の胸に、熱いものが込み上げた。将軍のお言葉。これ以上の栄誉があるだろうか。
「ありがたき幸せにございます……!」
宮司は声を震わせながら答えた。深く、深く頭を下げる。これで今年の山王祭も成功だ。将軍のお言葉を賜った。日枝神社の名声はさらに高まるだろう。
宮司は、深い満足感に浸っていた。
§
申の刻──午後四時、行列は日枝神社へと還御した。
神輿が境内に戻り、境内に安置される。還御祭の儀式が執り行われ、神を本殿にお戻しする。宮司は再び祝詞を奏上し、神への感謝を捧げた。
随神門を閉め、一息つく。長い一日だった。
寅の刻に起きてから既に十四時間が経っている。立ちっぱなしで、歩き続け、神経を張り詰めていた。足は棒のようで、還御すると同時に一気に気が抜けてしまっていた。
だが、その安堵感と疲労は心地よいものだった──。祭りは成功した。何事もなく。将軍のお言葉も賜った。千鶴の舞も見事だった。山車の行列も華やかだった。
全てが完璧だった。
坂下の参道にはまだ多くの人々が残っていた。
露店が並び、見世物小屋が賑わい、子供たちが駆け回っている。射的や輪投げに興じる者、蕎麦や天ぷらを頬張る者、酒を酌み交わす者。山場は越えたが、祭りの余韻はあと数日は続くだろう。
提灯に火が灯され、境内全体が橙色の光に包まれ始めていた。昼間の陽光とは違う、温かみのある光。人々の笑顔が、その光に照らされて輝いている。本当に良い一日だった──。
宮司は神職たちを集め、労いの言葉をかけた。
「今日は皆、よくやってくれた。神幸祭は無事に終わった。将軍様のお言葉も賜ることができた。これも皆の働きあってこそだ」
「ありがとうございます」
神職たちが頭を下げる。皆、疲れた顔をしているが、達成感に満ちた表情だった。
「明日からは後片付けも頼むぞ。神輿の収納、境内の清掃、奉納品の整理──やることは多い。だが、今夜は休め。皆、ゆっくり休んでくれ」
「はい」
神職たちが解散していく。
宮司は奉納品蔵の方を見た。
蔵の前には、番人が三人立っている。昼夜交代で見張っている番人たちだ。今立っているのは夜番の三人で、篝火を焚いて、周囲を警戒している。
蔵の錠前も、しっかりとかかっている。特注で作らせた錠前。親となる『鍵』は宮司の手元に一本しかなく、子鍵は存在しない。
奉納金──祭礼費や各大名からの寄進は、蔵の中に安全に保管されている。既に明日にでも両替商の蔵に移す手配はしてある。
宮司は満足げに頷き、社務所へと向かった。
──今夜ばかりは、ゆっくり休もう。
社務所の奥の間で、宮司は疲れた体を横たえた。
障子の向こうから、まだ祭りの賑わいが聞こえてくる。人々の笑い声、囃子の音、子供たちの歓声。──心地良い。その音を子守唄のように聞きながら、宮司は深い眠りに落ちていった。
祭りは無事に終わった。
──そう、信じていた。




