第二十九話
時は過ぎ──旧暦六月十五日。
天下祭である山王祭──神幸祭の朝が来た。
宮司は寅の刻──午前四時に目を覚ました。まだ夜明け前だが、いつものことだ。それに今日は一年で最も晴れがましい日。すべきことは、たくさんある。寝る時間さえ惜しかった。
ここ数日の疲労は頂点に達し、肉体は悲鳴をあげており、休息を求める体に鞭打つ。井戸で水を汲み、冷たい水で身を清め、禊ぎをする。初夏とはいえ、明け方の井戸水は肌を刺すように冷たい。だが、その冷たさが心身を引き締めてくれた。
清浄な白衣に着替え、神前に向かう。外はまだ陽は昇っていない。東の空がわずかに白み始めたばかりだ。静謐な空気の中、宮司は正座し深く頭を下げた。
今日は天下祭──日枝神社の神輿が江戸城内に入り、将軍家の上覧を賜る。二年に一度訪れる最も重要な日である。
宮司は祝詞を奏上し始めた。
「──掛けまくも畏き山王大権現の大前に、恐み恐みも白さく。高天原に神留まります皇親神漏岐神漏美の命以て、皇御祖神伊邪那岐大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等、諸々の禍事罪穢を祓へ給ひ清め給へと白す事を聞こし召せと、恐み恐みも白す──」
日枝の神への畏敬と奏上。天上の神々、祓戸の神への祈願。声は静かに、しかし厳かに拝殿に響いた。祝詞を終え、宮司は再び深く頭を下げる。山王大権現への感謝と、今日の祭りの無事を祈願して。
やがて、東の空が茜色に染まり始め、宮司は立ち上がり拝殿を出た。
§
境内に出ると、既に神職たちが動き始めていた。
空は雲一つない快晴。初夏の陽光が、次第に境内を照らし始めている。神輿に飾りつけられた金糸が朝日を受けて輝き、まるで神々しい光を放っているようだった。
三基の神輿が社殿の前に並んでいる。
金と黒で彩られた神輿は、江戸の職人たちの粋を集めた逸品だ。屋根には鳳凰の飾り、柱には精緻な彫刻、四方には錦の幕。一基ごとに数百両もの費用がかかっている。それが三基。まさに天下祭にふさわしい豪華さだった。
神職たちは忙しく動き回り、最後の準備に余念がない。幕を張り直す者、提灯を確認する者、神輿の飾りを整える者。皆、緊張した面持ちで働いていた。
宮司の胸には、静かな高揚があった。
今年の祭りは、例年にも増して盛大になるだろう。各町内から奉納された山車は四十五台。行列の規模は数千人に及ぶ。
そして何より──奉納金が例年以上に集まっていた。
奉納金──それは、江戸幕府から支出される祭礼費用や各大名、将軍家からの寄進を合わせた物を指す。山王祭の開催にあたり、将軍家を筆頭に、譜代大名、親藩大名、さらには外様大名までもが寄進を行う。それは単なる金銭ではない。将軍家と産土神を祀る日枝神社との結びつきを示す証であり、各大名が幕府への忠誠を示す機会でもあった。
そして、幕府から支出された祭礼費と寄進金を合わせた総額──およそ四千五百両。
金額以上に重要なのは、その政治的意味だった。もし、この金が失われるようなことがあれば──いや、そんなことはあり得ない。あってはならない。
蔵の中に厳重に仕舞われている奉納金を思い、宮司は首を振った。
寺社奉行方が祭礼の全体を監視監督し、南町奉行所が警備を担う。奉納品蔵には番人を昼夜交代で複数人配置し、錠前は江戸でも指折りの錠前師に特注で作らせた頑丈なもの。蔵の周囲には柵も設けられている。
不埒者が入り込む隙などどこにもない。
ふと、火付盗賊改方のあの男──渡辺とかいう若い与力が、境内で騒ぎを起こした先日のことを思い出す。
あの男は言った。
『この者が不審な動きをしていたので調べようとしていました』
宮司はそれを一もなく、二もなく糾弾した。祭りの準備で忙しい最中に、騒ぎを起こし、不遜にも神域内であちらこちらを嗅ぎ回っている。目障りだし、神職たちの邪魔だった。それに、火付盗賊改方などという罪穢れた連中を、いつまでも神域に入れておくわけにもいかなかった。
すると、あの男はこう吐き捨てた。
『人の職分に口出しすると碌なことにならんぞ』
何という無礼な言葉だろう。更には人とは到底思えぬような威圧までしてきた。宮司は怒りを覚えた。穢れた火付盗賊改方ごときが、将軍家の産土神を祀る日枝神社の宮司に説教するとは。身の程を知らぬにも程がある。
だから、寺社奉行に掛け合い、早急に赤坂廻りの任から火盗改を外させたのだ。このままでは天下祭の催行に障りがあると。
そして──それは正解だった。
人を捕らえ、拷問にかけ、時には斬り捨てる──そんな地獄の獄卒のような者が神域の内側を歩き回っていては、山王大権現に申し訳が立たぬ。血塗れた、死穢の不浄は神域には相応しくないと──。
宮司は満足げに境内を見回した。
今日の祭りは、必ず成功させると意気込みながら。
§
卯の刻──午前六時。
神前奉納の舞が始まろうとしていた。
本殿の前に、祭壇が設えられている。白木の八脚案には神饌──米、塩、水、酒、野菜、果物、干物──が並べられ、榊の枝が左右に立てられていた。篝火が焚かれ、その炎が朝の空気を揺らめかせている。
神楽殿の前には、巫女たちが整列していた。朝日が神楽殿を照らし、金色の光が舞台を包んでいる。笛と太鼓を担当する楽人たちも、既に所定の位置についていた。
──この舞は、神前への奉納である。
故に、一般の参拝客が見物するものではない。神職と巫女、そして神に仕える者たちだけが立ち会う、厳かな儀式。随神門は閉じられ、境内には神職以外、立ち入ることはできない。
舞台の中央に立つのは千鶴。宮司の娘であり、今日の奉納舞を務める巫女である。
千鶴は祭礼用の正式な巫女装束を身に纏っていた。通常の白衣に緋袴とは異なり、より格式の高い装いである。
白衣の上には袿──花菱文様の刺繍が施された淡い藤色の上衣をまとい、その上から白絹で仕立てられた千早を羽織っている。緋袴は通常よりも裾が長く、歩くたびにさらさらと優雅に揺れる。白の千早が朝日を受けて淡く神秘的に輝いていた。
長い黒髪は後ろで一つに結い、白い和紙の元結で束ねられている。その髪は腰まで届き、艶やかな黒が白い装束に映えていた。額には金銀の飾りがついた天冠を戴き、その姿は神に仕える者としての清浄さを体現している。
その手には神楽鈴と榊の枝。真鍮製の鈴が五つ重なり、振るたびに清らかな音色を奏でる。榊の枝には白い紙垂が結ばれ、神の依り代としての役割を担っていた。
千鶴は静かに目を閉じ、舞の前の精神統一をしていた。呼吸を整え、心を鎮め、神と一体になるための準備。その横顔は凛として美しく、神に仕える巫女の顔になっていた。
宮司は娘の姿を見て、深い感慨を覚えた。
千鶴は五つの年から神楽を学び始めた。最初は足運びもおぼつかず、鈴を落とすこともしばしばだった。だが、毎日毎日、厳しい稽古を重ねてきた。泣きながら稽古した日もあった。足の皮が剥けても、冬の寒さに手足が震えても、それでも舞い続けた。
その努力が、今日、実を結ぶのだ。
「千鶴」
宮司は声をかけた。千鶴がゆっくりと目を開ける。その瞳は澄んでいて、深い静けさを湛えていた。
「はい、父上」
「今日の舞、しかと頼んだぞ。これまでの稽古の全てを、今日、神前に捧げよ」
「……承知しております」
千鶴は静かに頭を下げた。だが、その表情にわずかな翳りがあった。何かを言いかけて、躊躇っているような。
「……父上。一つ、お伝えしたいことが」
千鶴が言葉を続けようとした時、宮司は手を上げて遮った。
「待て。今は舞の前だ」
「ですが、父上──」
「千鶴」
宮司は娘の目を真っ直ぐに見据えた。
「今、お前がすべきことは何だ。神前に舞を捧げることであろう。他の一切を忘れ、ただ神と向き合え。それが巫女の務めだ」
千鶴は口を噤んだ。父の言葉は正しい。舞の前に心を乱すことは、神に対する不敬にあたる。だが──。
「……承知いたしました」
千鶴は静かに頭を下げた。その表情からは翳りが消え、ただ静謐な覚悟だけが残った。だが、胸の奥底には伝えられなかった言葉が不安として残る──。
「必ずや、大権現様にお喜びいただける舞を奉納いたします」
「うむ。頼むぞ」
その言葉に、宮司は目頭が熱くなるのを感じ、娘の肩に手を置いた。千鶴は微かに微笑み、再び目を閉じた。
宮司は神楽殿の正面、神職たちが控える場所に戻った。周囲には神官、禰宜、権禰宜たちが正座している。皆、白衣に烏帽子という正装で、厳かな表情を浮かべていた。
──笛の音が、静かに響き始めた。
龍笛の澄んだ音色が朝の境内に染み渡っていく。篳篥がそれに和し、笙が優雅な響きを添える。雅楽の調べが下界の神域の空気を、天上の聖なるものへと変えていった。
巫女たちが所定の位置につく。千鶴を中心に、左右に二人ずつ。五人の巫女が神楽殿の上に並んだ。
千鶴が一歩前に出た。その瞬間、空気が変わった。
篝火の炎が、風もないのにゆらりと大きく揺れた。朝日が雲間から差し込み、千鶴の姿を照らし出す。まるで、天上の神がその存在を見ているかのように。
千鶴は鈴を持ち上げ、最初の所作をとった。
──しゃらん。
神楽鈴の音色が、朝の境内に響き渡った。清らかで、澄み切った音。その音色は空気を震わせ、神域全体を清めていく。
巫女神楽の舞が始まった。
§
それは、神に捧げる舞だった。
千鶴は鈴を振りながら、ゆったりと、しかし確かな足取りで舞う。一歩、また一歩。白い足袋が神楽殿の床を滑るように進む。
その動きには一切の無駄がなく、流れる水のような優美さがあった。
これは「浦安の舞」や近代に創作された舞ではない。古来より伝わる巫女神楽──神懸かりの舞であった。
巫女が神の依り代となり、神霊を己が身に降ろす。そのための、千年を超えて受け継がれてきた秘儀。
──しゃらん、しゃらん。
鈴を高く掲げ、天に向かって振る。これは「降神」の所作。天上の神々に、この地への降臨を願う祈り。鈴の音が天に届き、神の耳に入るように。
千鶴の動きは緩やかだが、その一挙一動に意味がある。右足を一歩踏み出し、左足を引き寄せる。体を半回転させ、鈴を振る。その動きの一つ一つが、言葉を持たぬ祈りとなっていた。
──しゃらん、しゃらん。
鈴を胸元に引き寄せ、静かに左右に振る。これは「鎮魂」の所作。降臨された神の御霊を鎮め、和らげる。荒ぶる神を慰め、穏やかな神へと変えるもの。
──舞う千鶴の顔は、もはや人のそれではない。
目は半ば閉じられ、口元には歓びを示す微かな笑みが浮かんでいる。だが、その表情には、目には自我がない。まるで、別の存在が千鶴の体を借りているかのような──神懸かりの相。
宮司はその姿を見て息を呑んだ。千鶴は神と繋がっている。これは形式的な舞などではない。千鶴の魂が、神の領域に触れているのだと。
──しゃらん、しゃらん。
鈴を低く下げ、大地に向かって振る。「言寿」の所作。神の言葉を地上に伝え、この地の繁栄と平安を寿ぐ。
千鶴は榊の枝を掲げた。祭壇の白い紙垂が風に揺れる。いや、風などなかった。神気が、紙垂を揺らしているのだ。
神職たちは、皆、頭を垂れていた。誰一人として、千鶴の舞を正面から見つめる者はいない。神前の儀式においては、神に直接目を向けることは畏れ多いこと。ましてや、神懸かりの巫女を見つめるということは、神をその目で見たと同じく『神罰』を賜るということ──。
しかしながら──宮司は娘の姿を視界に収めていた。娘の、千鶴の舞から目を離せなかった。そこに宿る神の気配から目を背けることができなかった。
千鶴の舞は、父として見ても、宮司として見ても完璧だったから──。長年の稽古の成果が、この瞬間に結実していたから。どうしても目を離すことなど出来なかった。
笛と太鼓の音が高まる。舞の佳境が近づいていた。千鶴の動きが速くなる。回転が増える。鈴の音が激しくなる。緋袴の裾が翻り、千早が風に舞う。
くるり、くるり、くるり。
三度回転し、最後に榊の枝を高く掲げた。
その瞬間──。
再び朝日が雲間から射し込み、千鶴の姿を照らした。まばゆい光が、まるで後光のように千鶴を包んだ。神気が満ちる──神職たちから、かすかな息を呑む音が漏れた。
そして──音が鳴り止み、舞が終わった。
千鶴は最後の所作を決め礼をする。鈴の余韻が消え、笛と太鼓が止まる。
静寂が境内を満たした。篝火の爆ぜる音だけが、かすかに聞こえる。誰も声を発しない。誰も、動かない。
神前奉納の舞を、拍手で迎える者などいない。ただ、静かに、粛々と神への感謝を胸に刻むのだ。
千鶴は静かに神楽殿を下りていった。その足取りは静かで、舞い終えた後の疲労など微塵も感じさせなかった。
宮司は立ち上がり、神前に進み出た。祝詞を奏上するためである。
「──神前に奉納せし舞、恙なく終えしこと、謹みて申し上げ奉る。山王大権現の大御心に適いしことを、恐み恐みも白す──」
宮司の声が、静かに境内に響いた。
舞は成功した。今日は良き日だ──祭りは必ず成功する。宮司はそう確信していた。




