第二十八話
源一郎は平蔵の書院を辞すると、一路、日枝神社南側──赤坂の溜池へと急いだ。
萬屋に着くと、店はまだ準備中だった。茶屋女たちが掃除をしたり、開店の支度をしたりしている。惣兵衛が店前の床几台に座り帳面を見ていた。
「惣兵衛」
源一郎が声をかけると惣兵衛はバッと顔を上げた。その顔には少し緊張の色がある。お鈴が日中に働いている時間、これまで源一郎が訪ねてくることは基本的にはなかった。普段とは異なる対応──それが惣兵衛へと緊張感を伝えていた。
「こ、これは、渡辺様。いかがなされましたか」
「お鈴はいるか」
「は、はい、奥におります。少々お待ちください」
惣兵衛が奥へと消え、しばらくしてお鈴が現れた。その足取りはいつもと変わらず軽やかだったが、表情には微かな翳りがある。
「源一郎さま」
お鈴は笑顔で近づいてきたが、その目には──不機嫌そうな色が滲んでいる。昨日、報告を聞きに訪れた時から、お鈴はずっとこの調子であった。
「少し話がしたい。外で」
「はい」
二人は店を出た。溜池沿いを歩きながら、源一郎は周囲を確認した。朝の溜池は静かで舟が数隻浮かんでいる。人通りも少なく、話をするには都合がいい。
お鈴が口を開いた。
「源一郎さま。店の他の女たちとも話をしましたが、やはり皆が噂しています。昨日の日枝神社での騒ぎのこと」
「もう噂になっているのか。悪事、千里を走るとは、よく言ったものだ」
「何を呑気な……この分では噂好きな女たちが喋って、一日で赤坂中に悪い噂が広まってしまっていますよ」
お鈴の声が震えている。源一郎は立ち止まり、お鈴を見た。
「火付盗賊改方が、『日枝神社で参拝客に乱暴をした』、『宮司様を脅して、神域を穢そうとした』、『神域で騒ぎを起こし、祭りの準備を妨害した』、『南町奉行所と寺社奉行の役人が火付盗賊改方を追い払った』──そんな噂が」
お鈴はぎゅっと拳を握っていた。その目には、悔し涙が滲んでいる。
「皆、火盗改を悪し様に言っています。『乱暴者の乞食芝居』『神域を弁えぬ不信者』『天下祭を台無しにする無粋な輩』『夜盗よりもたちが悪い』と」
お鈴は源一郎が侮辱されたことが許せないのだ。お鈴にとって源一郎は、主であり、家族に等しい。その源一郎が理不尽に貶められることが耐えられないのだろう。
「源一郎さまは何も悪くないのに……!不審な男を捕まえようとしただけじゃないですか!それなのに、宮司も寺社奉行方も町奉行所も、源一郎さまを悪者扱いして──そんなの、許せない……!」
お鈴の声が徐々に大きくなり、ザワリと狐憑きの血が沸き立つ気配がした。源一郎はそれを感じてか、周囲に人がいないことを確認してから静かに言った。
「お鈴」
その声は低い。だが、そこに威圧感はなく、優しさが込められている。
「落ち着け」
「でも、源一郎さまっ!」
「大丈夫だ。俺は何も気にしていない」
源一郎が優しく言うと、お鈴は唇を噛んだ。だが、まだ納得できないという顔をしている。
「噂なんて、所詮は噂だ。真実は『大切な者』だけが知っていればいい。人は自分に都合の良い物には好意的になるものだ。好きなように言わせておけ」
お鈴が困ったように黙り込み……源一郎が続けた。
「お前が怒ってくれる気持ちは嬉しい。だが、俺は平気だ。噂で傷つくような繊細な男じゃない」
源一郎が笑いかけると、お鈴はつられて少し表情を緩めた。
「でも……」
「それに、この噂は都合がいい」
「都合がいい、ですか……?」
お鈴が怪訝そうに首を傾げた。その目には疑問の色がある。
「ああ。実はな、宮司が寺社奉行を通して御老中に嘆願したらしい。火盗改は山王祭の警備から外れることになった」
「なっ……」
「流石に俺も腹は立った。だが──これは好機でもある。このことが噂として広がれば……日枝神社を狙っているであろう盗賊団にとっての障害は、一つ消えることになる」
「まさか……盗賊が赤坂山王祭の隙を狙っていると……?もしや……源一郎さまは、狙いが祭りの奉納金だと踏んでいるのですか?」
源一郎が静かに頷いた──聡いお鈴は源一郎の言葉の裏の意味を直ぐに理解した。増えた舟。奇妙な客。神社の内状に詳しい元神官の存在。不審な参拝者。神猿からの警告──パズルのピースは既に場に揃っている。お鈴も流石に、まさかと驚いているようではあったが。
「つまり……源一郎さまは、噂の火消しをするのではなく、寧ろ、その上で罠となる噂を混ぜて盗賊の行動を促そうとしていらっしゃる……?」
「結果的にはそうなる。念のために言うが、頭取のご指示でもある」
源一郎が説明した。盗賊団は警戒している。火盗改が警備から外れたという噂が流れれば、ハードルが下がったことに安堵して動きやすくなるだろう。そして、その動きを源一郎が追う──それが平蔵の狙いだ。
「ですが……本当に、来ますでしょうか」
「俺や頭取は来ると踏んでいる。そう心配するな」
「でも……もしも、来なければ……」
「お鈴、俺を信じろ。祭りの裏で何かが動いているのは確かだ。どのみち、その正体は確かめねばならん。お鈴。火付盗賊改方は山王祭の警備から手を引いたらしい──そう、噂を流してくれ。不自然でないように、火盗改を悪し様に言う噂もな」
「……っ、分かりました」
お鈴は意を決したように口をつぐんで頷き、しばし瞑目した──。頭の良いお鈴は分かっているのだ。これでもし、本当に盗賊が入りでもしたら、どんな事態になるのか。宮司、寺社奉行、町奉行所──火盗改を侮辱した者たちが、どれほど慌てふためくかを。
「では……萬屋で幾つか噂を広めます。『火盗改は宮司に嫌われて、警備から外された』、『御老中は祭司である宮司の願いを受け入れた』、『御老中は祭礼が穢れることを恐れた』、『寺社奉行方と南町奉行所は火盗改に一泡吹かせて鼻高々』と」
「いいぞ。それで頼む」
源一郎は頷いた。──宮司、寺社奉行方、南町奉行所は顔を青ざめさせるだろう。その上で気づくことになる。正しかったのは火付盗賊改方であり、失態を犯したのは宮司、寺社奉行方、南町奉行所の方だったと。これで評価は逆転することになる。
「それと、二つ目」
「はい」
お鈴が真剣な顔で頷いた。
「引き続き、不審な客の動向を監視してくれ。相手は用心深い。いつものように様子見には訪れるだろうが……店に現れなくなったり何か変化が起きたら教えてくれ。それが盗みを決行する合図になるかもしれん」
「承知いたしました」
お鈴の目が鋭くなる。既に覚悟を決め、密偵としての顔に戻っている。
「いつも通り、不審な客の様子を観察します。何か変化があれば、すぐにお知らせします」
頼むぞ、と一言伝えると源一郎は頷いた。
「そして、三つ目だ」
「はい」
「数日間、秘密裏に日枝神社の裏手が見える部屋を借り受けたい。萬屋の二階に、『そういう』部屋があるだろう」
「はい、ございます」
「惣兵衛に伝えてくれ。俺が使うと」
そういう部屋──茶屋女のいる茶屋のほとんどは、遊興の場所と宿泊の機能を兼ね備えている。つまり、客は表で働いている女を選んだ後、茶屋の奥にある個室や二階の座敷に移動し、そのまま性的な関係を持ったという訳だ。
源一郎が続けた。事件の起こるタイミングは神職たちの緊張が緩んだ時、警備の目が綻んだ時と予測できるが──それまでに起こらないとも断言できない。
「いつ動くことになるか分からない。だから、日枝神社の裏手の見える萬屋の二階から見張る。そうすれば、盗賊団が侵入した瞬間に気づける」
お鈴は源一郎の意図を理解した。
「なるほど。日枝神社の裏手は、溜池に面しています。二階の部屋からなら、境内の様子も、溜池の舟の動きも見えますからね……」
「ああ。最適な場所だ」
「神社の北側は大丈夫でしょうか?」
「日枝神社の北側には表の参道があるが、江戸の郊外に逃げようとするならば必ず御門を通らなければならない。──つまり、盗賊団は北側に抜けるより、溜池の舟を使って逃げる可能性が高い。念のため北側にも見張りは置くつもりだがな」
そう。源一郎は北側の見張りには別の者の力を借りるつもりだった。人ではない者たちの──。
「盗賊団が動き出したら、足取りは俺が追う。実行犯の一人や二人をその場で捕らえても組織の全貌は分からん。だから盗みを実行させ、その後を追う。拠点を突き止め、仲間を炙り出し、一気に黒幕まで辿り着く──それが目的だ」
これは大きな博打だ。下手な尾行では敵に勘付かれ逃げられるかもしれない。しかし一方で、成功すれば盗賊団の根城まで辿り着き、一網打尽を狙える。
源一郎の、その悪巧みをするような目を見て……お鈴はクスリと笑った。本当に男というものは──古来から狩りに夢中になるものなのだな、と。
「……かしこまりました。では、惣兵衛に伝えましょう。すぐに部屋を用意させます」
「頼む」
──お鈴と別れた源一郎は、萬屋に戻った。
§
惣兵衛が店の入り口近くで待っていた。お鈴から話を聞いたのだろう。その顔には、緊張と疑念の色が浮かんでいる。
「渡辺様、お鈴から聞きました。二階の部屋をお使いになりたいとのこと」
「ああ。日枝神社が見える部屋を、数日間借り受けたい」
「かしこまりました。すぐにご用意いたします」
惣兵衛が頭を下げた。だが、その動きには迷いがある。日枝神社での火盗改の悪い噂を聞いているのだろう。なぜ源一郎がこのタイミングで部屋を借りるのか、何をしようとしているのか、疑念を抱いているに違いない。
故に、源一郎は一歩近づき声を潜めた。
「惣兵衛」
「は、はい」
惣兵衛の顔が緊張する。源一郎の目がいつにも増して鋭くなっていたからだ。
「火付盗賊改方は表向き、山王祭の警備から手を引いたことになっている。俺がここに来ていることは、役目ではなく、ただの女遊びだと思え。だが、誰にも言うな。気取られるな。客にも、他の女たちにも」
「しょ、承知しております」
惣兵衛が震えながら頷いた。
「もし少しでも漏らせば──」
源一郎の眼光が冷たくも光る。それはゾッとするような光だった。
「分かっているな」
「は、はい!決して漏らしません!」
惣兵衛が震えながら頭を下げた。その額には、冷や汗が滲んでいる。
源一郎は、以前にも惣兵衛を脅したことがある。お鈴を密偵として潜り込ませた時だ。その時の恐怖を惣兵衛はまだ覚えているのだろう。
源一郎の放つ威圧感は尋常ではない。狩りが楽しみで仕方がないとばかりに──鬼切りの血を色濃く引く男の、危険な一面が滲み出ていた。
「よし。信じているぞ。何、そう心配するな。損はさせん」
源一郎が朗らかに笑うと、惣兵衛は安堵の息を吐いた。その表情が引き攣った笑みに変わる。
「はははは……ありがとうございます……」
「部屋の用意ができたら、お鈴を通して知らせてくれ」
「はい……かしこまりました」
惣兵衛が深く頭を下げ──源一郎は萬屋を出た。これで、見張りの拠点も確保できた。
§
萬屋を離れた源一郎は、一度役宅に戻ってから赤坂一ツ木にある豊川稲荷へと、再度向かった。
豊川稲荷──赤坂一ツ木にある寺院であり、豊川吒枳尼眞天を祀っている。過去には数々の戦国武将が信仰したとされ、かの大岡越前守忠相が愛知妙厳寺より勧進し、屋敷内で信仰したのが赤坂豊川稲荷の始まりであった。
源一郎が境内に入ると、夕暮れの光が本殿を照らしていた。不思議と参拝客のいない境内は、静かで幽玄な空気が漂っていた。
源一郎は懐から油揚げの包みを取り出した。それは役宅に詰めている小者──使用人に頼んで、わざわざ両国で評判の豆腐屋から買ってきて貰ったものだった。白狐は舌が肥えていると考え、有名店の豆腐屋で一番良い油揚げを選んでもらったのだ。
「失礼します」
境内を進み、源一郎は鳥居の前で一礼し、奥の院へと近づいた。奥の院前の参道には、左右に幾つもの狐の像が配置され、参拝客を監視しているように錯覚させる。そして、その奥──社堂の軒の下で白い狐が寝そべっていた。
子供ほどの大きさに、尾が三本。豊川稲荷──吒枳尼眞天に仕える神の眷属。白狐は目を閉じていたが、源一郎が近づくと鼻をヒクヒクとさせ、ゆっくりと目を開けた。金色の瞳が源一郎を見る。
「おや。これは、数日ぶりではありませんか」
白狐が身を起こした。尾を揺らしながら、源一郎を見る。その声は丁寧だが、どこか野性味がある。
「ご無沙汰しております」
源一郎は丁寧に頭を下げた。白狐はもう一度、匂いを嗅ぐようにスンと鼻を鳴らすと目を細めて源一郎を見る。
「それで、今日は何の用でしょう?供物を持ってきたのです。まさか、ただの参拝ではないでしょう」
「はい。実は、お願いがあって参りました」
源一郎が油揚げの包みを差し出すと、白狐の目が嬉しげに輝いた。
「おや、油揚げですか。臭くない……上質の油の匂いがしますね……」
白狐が鼻を近づけ、匂いを嗅ぐ。
「両国で評判の豆腐屋で、一番良いものを選んでもらいました」
「ふふ、気が利きますね。では、早速いただきましょう」
白狐が油揚げを受け取り、赤い舌を覗かせると一口食べた。満足そうに尾をフラフラと揺らす。
「あぁ、美味しい。さて……供物を受け取ったのですから、願いは聞かなくては。何をお望みですか?」
白狐が源一郎を見た。
「実は、盗賊団を追いたいのです。配下の狐たちに協力していただけないか、ご相談に上がりました」
源一郎は説明した。日枝神社周辺で盗賊団が下調べに動いており、奉納金が狙われている可能性があること。盗みが起きた場合、後を追う予定だが、人間だけでは限界がある。狐たちなら人間には見えず、尾行にも最適だと。
白狐は油揚げを食べながら、静かに聞いていた。
「なるほど。盗賊を追う、ですか」
「はい。ご協力いただけないでしょうか」
「ふむ」
白狐はしばらく考え込む様子を見せた。三つの尾を揺らしながら、虚空を見上げる。
「面白そうな話ですね。狐ならば獲物を追うのは得意。ここの鎮守、吒枳尼眞天の眷属として、私も赤坂の治安には興味があります。それに……猿に貸しを作れるというのが良い」
「その……神猿様に……?」
もしかしたらマズいことを頼んだだろうかと源一郎が冷や汗をかいた。白狐が目を細めニヤリと笑う。
「まあ、人には関係ないことです。お前さんが細かいことを気にする必要はありませんよ」
「そ、そうですか……」
白狐が機嫌良さげに尾を揺らした。
「私たちも協力しましょう。この辺りに住む、配下の者たちに声をかけておきます」
「あ、ありがとうございます」
源一郎が頭を下げると、白狐が続けた。
「ただし、条件がありますよ」
「条件、ですか」
「私たちは戦いません。あくまで見張りと尾行だけです。人間の争いに、私たちが手を出すことは避けるべきですから」
「それで十分です。ただ、不審な動きをする者たちの動きを見張り、後を追っていただければ」
「分かりました。では、早速今晩から動きます。こちらも準備をしておきましょう」
白狐が立ち上がった。白銀色の毛並みが夕日を反射して金色に輝く。
「よろしくお願いいたします。私は溜池沿いの萬屋という茶屋におりますので」
「ええ、えぇ。承知しました。後で連絡役として配下を一匹送ります。全て、私にお任せなさい」
白狐が鋭い歯を見せて笑み──尾を一つ揺らし、蜃気楼のように消えていった。
源一郎は豊川稲荷を後にした。夕暮れの空が、赤く染まっている。
萬屋への道すがら考えた。お鈴のバックアップ。追跡は白狐の配下たち。これで人手は確保、見張り体制は整った。後は──予感が当たるかどうか待つだけだ。
山王祭まで、あと三日。
源一郎は空を見上げた。細い月が中天に昇り、星々が冴え冴えと輝く。
──早く来い。早く来い。早く来い。
源一郎は口元には、知らず──獰猛な笑みが浮かんでいた。




